帝国編 36.第三皇子
護衛場所は、ヴェラが手配した宮廷外の宿だった。
宮廷から石橋二本分ほど離れた、古い木造の建物。帝都の宿の中では目立たない方で、看板の字が薄れている。ルイが「ここだ」と言って扉を叩いた。
出てきたのは、少年だった。
十五歳と聞いていた。その通りの背丈だった。ただ——目つきが、年齢に合っていなかった。驚いている様子がない。五人の見知らぬ者が扉の前に立っているのに、順番に顔を見て、小さく頷いただけだった。
「……護衛の方たちですか」
「はい」とルイが言った。
「Bランクパーティーの月夜の船といいます。よろしくお願いしますね、フィン殿下」
「フィンでいい」と少年が言った。「殿下というのは宮廷の中だけにしてほしい。ここでは意味がないからね」
ガンスが「ずいぶん物わかりがいいな」と言った。
「いま殿下って言ったか?ルイ」
「うん。この方は正真正銘帝国の第三皇子フィン殿下だよ」
「「「………」」」
一同はこの子供——帝国第三皇子——の紹介を聞いてあんぐりと口を開けたまま固まってしまった
「お前子供だって言ってただろうがぁ!そういうことは早く言わねぇと俺らにも心の準備ってもんがあるだろうが!」
「だって依頼主の人から身分は隠すようにって言われてたから…」
「だぁー!今はいいわ!それよりなんだ?俺たちはひざまずいたりしたほうがいいのか?」
「別にそんな堅苦しいのはいらないよ。皇子でいたことがほとんどないから」とフィンが答えた。「私には兄が二人いるからね。私は補佐にもなれない位置だ」
「……補佐にもなれないって自分で言うか、普通」
「事実を言っただけだ」
ガンスが少し笑った。口論にならなかったのは、フィンが言い返すより先に食堂の方へ歩き始めたからだった。
夕飯の時間になった。
マリーが宿の調理場を借りて飯を作った。帝都で手に入る肉と根菜を使った煮込みで、それほど手の込んだものではなかった。フィンが一口食べて、箸を止めた。
「……旨い」
「本当ですか?皇子様に褒めてもらえるなんて嬉しいですね」とマリーが言った。
「宮廷の料理より旨い」
「え、宮廷の料理より!?」
「宮廷の料理は手が込んでいる。でも誰かが食べる顔を見ながら作っていない。これは違う」
マリーが「……この子、いい子だわ」と隣のサラに言った。サラが「マーでも油断ならないね。今も私たちのこと観察してる。食事しながら全員を見てる」と小声で返した。
その通りだった。フィンは食べながら全員の動きを目で追っていた。レイアが気づいたのはサラより少し前だった。
——何かを見極めようとしている。脅威かどうかではなく——信用できるかどうかを。
その目つきが、子供のものではなかった。
「目つきが鋭い人だ」とフィンがサラの方を見て言った。
「あなたほどじゃないわよ」とサラが返した。
フィンが少し驚いた顔をした。「……気づいてたんですか」
「当たり前でしょ。これでも私たち魔の山に最も近いゴルンでトップパーティー張ってたんだから」
しばらく沈黙が来た。それからフィンが「いい人たちだ」と小さく言った。誰に向けた言葉でもなかった。独り言に近かった。
護衛初日は午前から始まった。
フィンが「市場を見たい」と言った。「儀式が近いから、食材が普段と違う。見ておきたい」
「護衛対象が自分で歩き回る気かね」とガンスが言った。「難しいぞ」
「一人で行くよりましだろう」
「……一人で行こうとしたのか?」
「昨日の夜、少しだけね」
「頼むからやめてくれ。あんたになんかあったら俺たちの首が何個あっても足りないんだ」
フィンが「分かった」と答えた。素直だったが、反省しているのとは少し違った。規則に従うというより、この人間の言うことなら聞いてもいい、と判断したような顔だった。
市場は賑わっていた。儀式の前で仕入れが多く、露店の数が普段より増えている。香辛料の匂いと、人の声と、秋の乾いた空気が混ざっていた。
フィンは足を止めず、よく見ていた。値段の書かれた板を読む。売り手の表情を観察する。客の流れを目で追う。香辛料を手に取って匂いを嗅いで、値段を聞かずに置いた。露店の主が「買わないのか」と言ったら「今日は見るだけです。明日また来ます」と答えた。主が苦笑いをしながらも頷いた。
——市場を楽しんでいるのではなく、読んでいる。場所を、人を、値段と流れを。多分頭のいい皇子様なんだろう。だからこそ自分が皇帝になれず一生を終えることを理解してしまっている。
レイアが右側を歩きながら、フィンの視線の動きを追った。
「何を見てるの」と小声で聞いた。
「なんだか変な露店がある」とフィンが同じく小声で言った。「あそこ。客が来ない側に人が立っている。一人だけ、客以外の目的があって立っている感じがする」
レイアが自然に視線を流した。布の露店の影に、背の高い男が立っていた。商品を見る素振りが、わずかに固い。
——プランナ。
「ちょっと離れようか」とレイアはルイに目で伝えた。ルイが頷いた。
フィンを挟んで露店の列を二本分歩き、角を曲がり、荷運びの馬車が止まっている通路を抜けた。布売りの老女の脇をすり抜けた時、老女が「気をつけて行きなさい」と言った。何を察したのか分からなかった。でも止まらなかった。
男は追ってこなかった——あるいは追ってきたが見失った。
フィンが「ありがとう」と言った。
「気づいてたの」
「感じたことはあった。でも撒き方は分からなかった」
素直に言った。格好をつけなかったのがまた、年齢に合っていない言い方だった。
夜、宿に戻った後でルイが報告をまとめた。レイアが隣に座ってそれを聞いた。
「ヴェラに確認した。フィン殿下がなぜ狙われているのか——それはヴェラも教えてくれなかった。言えない理由があると彼女は言ってた」
「言えない、というのは」
「知らないのか、知っていて言えないのか、俺には分からない」
レイアは少し考えた。「フィン本人に聞いた方が早いかもしれない」
「……そうかもしれない。ただ今日一日見た限り、この子は話せないことと話せることをきちんと分けている。こちらから聞いて答えてくれる保証はない」
「いつか話してくれる、ということ?」
「……信用できると判断したら、かもしれない」
食堂の窓から外を見ると、フィンが二階の廊下に出て帝都の夜景を見ていた。背が小さかった。でも姿勢が、迷っていない。
——何かを知っている顔だった。何を知っているのかが、まだ分からなかった。
夜風が廊下を抜けていく音がした。




