帝国編 35.夜は更けて
夜が深くなっていた。
一階の食堂はもう誰もいなかった。テーブルの上に燭台が一本だけ残っている。外から風の音がした。帝都の夜は遅くまで人の声がするはずなのに、今夜は静かだった。
「ルイ」
声をかけると、振り返った。階段の踊り場で何かを読んでいたルイが顔を上げた。
「まだ起きてたのか」
「少し話がある」
ルイが手元の紙をたたんで立ち上がった。「外の方がいいか」「……うん」
宿の前の路地は暗かった。遠くで帝都の灯りが重なっている。宮廷の方向はまだ少し明るい。
「プランナのことなんだけど」とレイアは言った。「みんなには言わないの?」
ルイが少し間を置いた。風が石畳を掃っていった。
「……まだ言わない方がいいかなと思ってて」
「なんで」
「分からないことが多すぎる、まだ。帝都でプランナが何をしようとしているのか、輪郭しか見えていないんだ。それを半端な状態で伝えると……動かれると、たぶん困る」
「ガンスが、ということ?」
「ガンスだけじゃなくて、全員が気になってる。それぞれが動き始めたら、まとめて誰かに狙われるかもしれない。プランナは人の動きを読んで動く組織みたいだから。月夜の船が何人かバラバラに動くのが一番……よくない気がして」
レイアは黙っていた。路地の向こうに猫が一匹、石塀の上に座っていた。こちらをじっと見ている。
「私は?」と言った。
ルイが少し振り返った。
「……君には話す。一緒に動いてほしいから」
「それだけ?」
「それだけ」
答えがあっさりしていて、反論できなかった。打算というより、ただそう思っているのが声に出ていた。一緒に動きたい相手には話す。そういう論理だった。
「分かった」とレイアは言った。
「プランナが宮廷内部の誰かと繋がってるっていう話があってさ」とルイが続けた。
「継承の儀式を何かに利用しようとしている、たぶん。……ヴェラという人に聞いた話なんだけど」
「ヴェラ?」
「俺の遠縁にあたる人で、宮廷の顧問をやってる。帝都の内側の話をたまに教えてくれるんだよね。プランナが宮廷内部で動いているっていうのも、その人から聞いたんだ。ただ、具体的に何を——儀式を使って何をしようとしているのか、そこはまだ彼女もわかってないみたいでね」
レイアは石畳を見た。夜の冷たい空気が喉の奥に入ってきた。
「……私が帝都に来た理由は、ある手がかりを探すことだった。それが、もしかしたらこういう形で宮廷に繋がってくるかもしれない」
「そう思う?」
「たぶん」
ルイが少し黙った。「……うん、そうかもな」と言った。
「だから一緒に動いてほしいんだ」と続けた。「君は君で何かを探してる。俺はプランナと宮廷の動きを見てる。同じ方向を向いてるなら、別々に動く理由がない。……そう思って」
「合理的ね」
「合理的だと思う」
レイアは顔を上げた。猫がいつの間にかいなくなっていた。石塀の上が暗い空に吸い込まれている。
「ひとつだけ聞いていい?」
「何だ」
「ルイはなぜ、帝都にいたの?」
ルイがわずかに間を置いた。
「……生まれはここなんだ。それと——宮廷に話が通せる伝手がある。ヴェラもそうだし、他にも。少し……特殊な家だった」
「特殊って」
「追々話す。まだ、うまく言葉にできなくて」
答えになっていない言い方だったが、「今夜でなくていい」という意味でもあった。追及しなかった。ルイが隠しているのではなく、本当に言葉にする準備ができていないのだと分かった。
「分かった」ともう一度言った。
「レイア」
振り返るとルイが少し困ったような顔だった。
「一人で動かないで。今夜みたいに何かを確認しに行く時も……一言入れてくれると、助かる」
命令ではなかった。「助かる」という言い方がぶきっちょだった。少し前に聞いたルイの「頼む」が不格好に出た時と、少し似ていた。
「……うん」
宿の扉を開けた。内側から温かい空気が来た。
ルイが扉を押さえながら「おやすみ」と言った。
「おやすみ」




