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獄炎の姫君〜失意の底で何を思ふ〜  作者: 蕎麦粉


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帝国編 31.継承

護衛依頼は、午前中に終わった。


依頼主は商人で、帝都の中心部にある取引先まで書類を届けるだけの仕事だった。距離も短く、荷物も軽い。それなのに依頼主はずっと緊張した顔をしていた。依頼を受けた時から、宿を出た時から、ずっとそうだった。足が速い。周囲への目配りが多い。護衛を雇ったのは書類の安全のためではなく、自分の安全のためだ——そう気づいたのは、宮廷の外壁が見える通りに入ってからだった。


「この辺は最近、物騒で」


依頼主がぽつりと言った。声が少し低くなっていた。


「何かあったの」


「あったというか……人が増えたんです。貴族の馬車、兵士、顔の分からない人間。みんな宮廷の方に向かって動いている。継承の儀式が近いせいもあるんでしょうが、それだけじゃない気がして」


「儀式の前後は毎回こうなるの?」


「毎回です」と依頼主が答えた。「どの皇子が選ばれるかで、周りの人間の立場が全部変わる。自分には関係ないつもりでも、気づいたら巻き込まれていることがある。商人はとくに——金の流れが変わりますから」


レイアは宮廷の方角に視線を向けた。石造りの壁が、朝の光を受けて鈍く光っていた。


——ゴルンと似た匂いがする。


街の空気が、数日前から変わっていた。依頼の質が変わった。物の護衛より人の護衛が増えた。支部の依頼板に、依頼主の名前が書かれていないものが混じるようになった。帝都の中心部に近い宿や食堂では、声を落して話す人間が増えた。何かが近づいている時の空気だ。レイアはその感触を知っていた。ゴルンで、一度嗅いでいた。




夜、宿に戻る前に遠回りをした。


宮廷の外壁沿いを歩くつもりはなかった。ただ気づいたら足が向いていた。


壁の手前、三十歩ほどのところで足を止めた。目を閉じて、気配を探った。


魔力の残滓があった。以前もあった。しかし濃さが違う。薄い層が何枚も積み重なったような淀み方だ。誰かが繰り返しここを通っているか、あるいはここで繰り返し何かをしている。質が腐っている。きれいな魔力ではない——使う者の意図が滲み込んでいる種類の汚れ方をしていた。


「——ゴルンで嗅いだやつだ」


声に出ていた。


プランナの匂いだ。確証はない。しかし知っている匂いだった。組合支部の地下で嗅いだあれと、根っこが同じだ。継承の儀式が近い。その隙を、誰かが狙っている。


使徒と繋がっているかもしれない。


そう思ったら、関係ないとは思えなかった。




宿に戻ると、食堂にルイが一人でいた。地図をテーブルに広げて、何かを確認していた。レイアが入ってきた気配に気づいて顔を上げた。


「どこに行っていたんだ」


「散歩」


「この時間に」


「うん」


ルイがテーブルの上の地図から目を上げてレイアを見た。しばらく黙って、それから少し考えるような顔をした。


「どの辺を歩いた」


「……宮廷の近く」


ルイが地図を閉じた。


「宮廷の近くには、しばらく一人で行かないほうがいいよ」


「なぜ」


「……いいから」


レイアはルイを見た。命令ではなかった。口調は静かで、押しつけがましくない。何かを知っていて、それを言えない、という顔だった。「言えない」と「言わない」の違いが分かる顔だ——これは言えない側だ、とレイアは思った。


「何か知ってるの」


「少しだけ。今は君に話せることじゃない」


「なんで」


「俺が言えることと言えないことがある。それだけだ」


ルイが地図をしまって立ち上がった。「明日の依頼が朝から入ってる。早く寝ろ」と言って、階段を上がっていった。足音が遠くなった。


食堂に一人残った。


消えかけた灯りが揺れていた。


——いいから、か。


命令でも、脅しでもない。心配というものに近かった気がした。そういう言葉の向け方をされることに、まだ慣れていない。受け取り方が分からなくて、少しの間そのままでいた。


外で風が鳴った。灯りがまた揺れた。


立ち上がって、階段を上がった。

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