帝国編 23.川のほとりで
ドージの研究室は、帝都の北区の路地の奥にあった。
表通りから一本入って、さらに細い路地を進んだ先の建物の二階だ。看板はない。ドージが昨日告げた番地を頼りに来たが、一度通り過ぎた。
扉を叩くと、少し間があってから開いた。
「来ましたか」
ドージが言った。眼鏡の奥の目が、少し眠そうだった。
「……寝てた?」
「夜通し作業していたので。どうぞ」
部屋に入ると、薬品の匂いが来た。
甘いような、鋭いような、複数の匂いが混ざっている。棚に瓶が並んでいる。机の上に書類と器具が積まれている。床にも本が積まれている。
どこに座ればいいか分からなかった。
「その椅子を使ってください。書類は退けていいです」
椅子の上に書類が載っていた。退けて座った。ドージは机の前の椅子に座って、依頼書らしき紙を広げた。
「場所はここです」
地図を示した。帝都から東に半日ほどの場所に川がある。その川沿いに、特定の魚と水草が生息しているらしい。
「魚の名前は分かる?」
「ツルギウオといいます。鱗が銀色で、尾が二股に分かれている。大きさは手のひらほど」
「水草は」
「青みがかった色のものです。絵を描きました」
丁寧な絵だった。細かい。植物の葉脈まで描かれていた。
「危険は」とレイアが聞いた。
「川沿いに魔物が出る可能性があります。ただ、その辺りは小型が多いらしくて……」
「らしくて、というのは」
「実際に行ったことがないので」
「なるほど」
——まあ、そういうことだろうな。
「いくつ必要?」
「魚は五匹。水草は両手に抱えるくらい」
「分かった。出発はいつがいい」
「今日でも明日でも。私はどちらでも」
「今日行こう」
ドージが少し目を瞬かせた。
「……早いですね」
「やることがないから」
「そうですか」
ドージは立ち上がって、鞄を取り出した。観測器具らしきものをいくつか入れた。手際が良かった。
帝都の東門を出ると、街の密度が一気に薄くなった。
街道が続いている。両脇に畑がある。農作業をしている人間がいる。遠くに山が見える。空が広い。
——ゴルンの外と、少し似てる。
「帝都の外に出るのは久しぶりです」
ドージが隣を歩きながら言った。
「何日ぶり?」
「……二ヶ月くらいかな」
「研究室にずっといたの?」
「大抵は」
黙って歩いた。しばらくして、ドージが道端の植物を見て立ち止まった。しゃがんで、葉を確認している。
レイアは止まって待った。
「これはツルギソウの変種かもしれない。少しもらっていいですか」
「どうぞ」
ドージが小さな袋に葉を入れた。立ち上がって、また歩き出した。
それが数回繰り返された。
ドージが立ち止まる。レイアが待つ。ドージが何かを採取する。また歩く。
気にならなかった。
ゴルンの近くでも、依頼の道中に何かを観察したり採取したりすることはあった。それと似ている。待てばいい。
川の音が聞こえてきた頃、ドージが言った。
「あなたは、帝都に来て長いんですか」
「まだ少ししか経ってない」
「どこから来たんですか」
「遠い場所」
「東大陸の?」
「そう」
ドージは少し考える顔をして、それ以上は聞かなかった。
——聞かない人だ。
昨日の図書館でも、この文字をどこで習ったか聞いてそれ以上は追わなかった。遠い場所と答えてもそれ以上は聞かない。
悪くない。
川に着いた。
水が澄んでいた。底まで見える。川幅はそれほど広くないが、流れが速い。岸辺に青みがかった水草が生えているのが見えた。
「あれですか」
「はい。絵の通りです」
レイアは川岸を歩きながら、周囲を確認した。
魔力の感触。
——小さい。近くにいる。
「少し待って」
草むらの方へ動いた。茂みを分けると、小型の魔物が一体いた。犬ほどの大きさで、体が灰色だ。
一合で終わった。
戻ると、ドージが川岸で水草を採取し始めていた。
「……終わったんですか」
「もういない。魚は釣り道具が要るけど」
「あります」
鞄から竿を出した。折りたたみ式だった。
「用意がいいね」
「一応」
レイアは竿を受け取った。川岸に腰を下ろして、糸を垂らした。
流れが速いので、少し上流に向けた。ドージが岸辺で水草を丁寧に採取している。二人とも無言だった。
しばらくして、糸が引いた。
引き上げると、銀色の鱗の魚だった。尾が二股に分かれている。
「これ」
「それです」
ドージが採取袋を持ってきた。レイアが魚を入れた。
「釣れるものなんですね」
「川の魚は釣れる」
「私は釣りをしたことがなくて」
「教えようか」
「……いいんですか」
「どうせ待ってるから」
ドージが少し考えてから、竿の予備を出した。折りたたみ式のものがもう一本あった。本当に用意がいい。
二人で並んで川岸に座った。
ドージに糸の垂らし方を説明した。流れの読み方を説明した。ドージは説明を聞きながら、頷いた。
「こういうことは文献に書いていないですね」
「書いてあっても体で覚える方が早い」
「そうですね」
しばらく、二人で釣り糸を垂らした。
川の音がする。水が光を跳ね返している。遠くで鳥が鳴いている。
——静かだ。
こういう時間が、あったことを思い出した。
艶桜の川。里の子どもたちと、似たようなことをしたことがあった。ラヴァガンに怒られながら、川に入って魚を素手で捕まえようとした。全然捕まらなかった。
「引きました」
ドージが小声で言った。
「ゆっくり、手前に」
ドージが竿を手前に引いた。糸が張った。そのまま引き上げると、銀色の魚が飛び出してきた。
「捕れた」
「捕れた」
ドージが少し笑った。
声を立てて笑うわけではない。眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。それだけだった。
レイアは川に視線を戻した。
——笑うんだ。
五匹揃ったのは昼を少し過ぎた頃だった。
水草も十分な量が採れた。ドージが採取袋を確認して、「完璧です」と言った。
帰り道、ドージが話した。
「今日採取したものから、何ができるか分かりますか」
「全然」
「ツルギウオの鱗は、溶かすと特殊な膜になります。傷口に塗ると、外からの毒素を遮断する効果がある。水草は炎症を抑える成分を持っている。組み合わせると——」
「解毒薬みたいなもの?」
「解毒というより、毒が入り込む前に防ぐ膜を作る薬です。今あるものとは少し違う」
「それがあったら役に立つね」
「そうなんです。ただ、実際に機能するかどうかはまだ分からなくて」
ドージが採取袋を見ながら歩いた。さっきまでと少し違う歩き方だった。急いでいる。早く戻って作業したいのだろう。
「次の依頼はいつ頃になりそう?」
「一週間から十日後には、別の素材が必要になります。もし都合がよければ」
「声をかけて」
「……本当にいいんですか」
「別にいいよ」
ドージが少し間を置いた。
「ありがとうございます」
昨日の図書館でも、廃坑でもない。今日の川沿いでもない。
その「ありがとうございます」は、今日一日全体に向けていた感じがした。
レイアは何も言わなかった。
しかし、悪くなかった。




