表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獄炎の姫君〜失意の底で何を思ふ〜  作者: 蕎麦粉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/67

帝国編 閑話 桜の産声

その日、艶桜は雪だった。


春の足音が聞こえ始めた頃合いなのに、夜のうちに降り積もって、朝になっても止まなかった。城の石畳に白が積もり、桜の枝がその重さにゆっくりと垂れていた。


ドラムは夜明け前から廊下に立っていた。


別に寒くはない。龍人の体は寒暖に強い。ただ、立っていることしかできなかった。部屋の中にいる気になれなかった。扉一枚向こうで、イリジャが苦しんでいる声が聞こえるたびに、奥歯を噛んだ。


「中に入らなくてよいのですか」


ラヴァガンが横に立っていた。


いつからいたのかは分からない。気配を消すのが上手いのか、ドラムが気づかなかっただけなのか。


「俺がいても、何もできない」


「それはそうですが」


「じゃあ意味がない」


ラヴァガンは何も言わなかった。


ドラムは廊下の欄干に手をついて、雪の中庭を見た。産婆が三人、夜のうちから詰めている。それだけでは足りない気がして、治癒師も二人呼んだ。できることはやった。それでも、廊下に立っているしかなかった。


「ラヴァガン」


「はい」


「俺が生まれた日のことを、お前は覚えているか」


ラヴァガンが少し黙った。


言葉が来るまでの間があった。


「……覚えています」


「どんな日だった」


「快晴でした。当時の当主様——お前の父上が、朝から酒を飲んで祝っておられた。私は止めましたが、聞かれませんでした」


ドラムが少し笑った。


「親父らしいな」


「全くです」


雪が、静かに降り続けた。


扉の向こうが、しばらく静かになった。ドラムは無意識に息を詰めた。それから——


小さな声が、聞こえた。


泣き声だった。


高く、細く、それでも確かな声だった。


ドラムは動けなかった。欄干を掴んだまま、その声を聞いていた。胸のどこかが、詰まったような感じがした。詰まっているのに、同時に何かが広がる感じがした。


「……旦那様」


扉が少し開いて、産婆の一人が顔を出した。


「お入りください」




部屋の中は温かかった。


灯りがいくつも焚かれていた。イリジャが寝台に横たわっている。顔が青白く、汗が滲んでいる。それでも目は開いていて、胸の上に小さなものを抱いていた。


ドラムは近づいた。


小さかった。


当たり前だが、こんなに小さいとは思っていなかった。頭が丸く、目が細く閉じている。手の指が——信じられないくらい、細い。


「……ドラム」


イリジャが呼んだ。声がかすれている。


「ちゃんと生まれてきたわ」


「ああ」


「泣き声、聞こえた?」


「聞こえた」


「元気な声だったでしょう」


「ああ」


それしか言えなかった。それ以外の言葉が、どこかへ行ってしまっていた。


イリジャが「抱いてみる?」と言った。


ドラムは少し迷ってから、頷いた。


産婆が手伝ってくれて、小さなものを腕の中に移した。ずっしりと重いかと思ったが、そうでもなかった。軽い。軽すぎるくらいだ。しかしその軽さが、逆に怖かった。落とすわけがないのに、落としてしまいそうな気がした。


「重くない?」


イリジャが笑いながら言った。


「重くない。軽すぎて、怖い」


「私もそう思った」


ドラムは、小さな顔を見た。


目が薄く開きかけていた。黒い瞳が、ぼんやりとドラムを見た。まだ何も分かっていない目だ。この顔が誰かも、今いる場所がどこかも、何も分かっていない。それでも、見ていた。


「……名前、決まってるか」


「あなたが決めるって言ったじゃない」


「そうだったか」


「そうよ」


ドラムは少し考えた。考えるふりをした、かもしれない。実はもう決まっていた。


「レイア」


「レイア」


イリジャが繰り返した。


「どういう意味?」


ドラムは少し間を置いた。


「……遠い国の言葉で、夜明けを意味する。黎明の黎と、朝——その二つを合わせた読み方だ」


「遠い国って、どこの?」


「昔、文献で読んだ。どこの言葉かまでは覚えていない」


「覚えてないの?」


「覚えていない」


そっけなく言った。


イリジャはしばらく、その名前を口の中で転がすように黙っていた。それから目を細めた。


「……夜明け」


「ああ」


「雪の朝に生まれてきたんだもの。ぴったりね」


ドラムは何も言わなかった。


イリジャが少し笑った。それからまた眠そうな顔になった。


「……いい名前ね」


「そうか」


「うん。レイア」


もう一度呼んだ。腕の中のものが、少しだけ動いた。




廊下では、ラヴァガンが雪の中庭を見ていた。


泣き声が聞こえた瞬間、ラヴァガンは小さく息を吐いていた。七百年生きて、何十人もの当主を見てきた。その誰かが生まれた瞬間に、何度も立ち会ってきた。


それでも、慣れない。


命が始まる瞬間というのは、何百年経っても慣れるものではない。


しばらくして、扉が開き、ドラムが出てきた。腕の中に何も持っていなかった。顔が、見たことのない顔をしていた。強い男だが、今は強さとは別の場所に立っている顔だ。


「ラヴァガン」


「はい」


「女の子だった」


「存じています。先ほど産婆から」


ドラムは欄干に手をついて、雪の中庭を見た。


「俺に似てなかった」


「生まれたばかりでは判断がつきません」


「イリジャに似てた。顔が」


「それは……奥様も喜ばれるでしょう」


ドラムは少しの間、黙っていた。


「ラヴァガン、頼みたいことがある」


「何でしょう」


「あいつのお目付け役になってくれ。俺じゃ甘くなる。お前の方がいい」


ラヴァガンは即答しなかった。


しばらく、雪を見ていた。


「……何代目になりますかな」


「八十五代目だ」


「気が遠くなるような数ですね」


「嫌か」


「いいえ」


ラヴァガンは短く答えた。


「お引き受けします。——ただし、条件が一つ」


「なんだ」


「あの子が泣いているときに私を呼ばないでください。私には手に負えません」


ドラムが笑った。声を上げて笑った。廊下に響くくらい。


それを聞いてか、部屋の中からもう一度、小さな泣き声がした。


雪が、少しだけ弱くなった。


空の端が、白く明るくなり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ