帝国編 閑話 桜の産声
その日、艶桜は雪だった。
春の足音が聞こえ始めた頃合いなのに、夜のうちに降り積もって、朝になっても止まなかった。城の石畳に白が積もり、桜の枝がその重さにゆっくりと垂れていた。
ドラムは夜明け前から廊下に立っていた。
別に寒くはない。龍人の体は寒暖に強い。ただ、立っていることしかできなかった。部屋の中にいる気になれなかった。扉一枚向こうで、イリジャが苦しんでいる声が聞こえるたびに、奥歯を噛んだ。
「中に入らなくてよいのですか」
ラヴァガンが横に立っていた。
いつからいたのかは分からない。気配を消すのが上手いのか、ドラムが気づかなかっただけなのか。
「俺がいても、何もできない」
「それはそうですが」
「じゃあ意味がない」
ラヴァガンは何も言わなかった。
ドラムは廊下の欄干に手をついて、雪の中庭を見た。産婆が三人、夜のうちから詰めている。それだけでは足りない気がして、治癒師も二人呼んだ。できることはやった。それでも、廊下に立っているしかなかった。
「ラヴァガン」
「はい」
「俺が生まれた日のことを、お前は覚えているか」
ラヴァガンが少し黙った。
言葉が来るまでの間があった。
「……覚えています」
「どんな日だった」
「快晴でした。当時の当主様——お前の父上が、朝から酒を飲んで祝っておられた。私は止めましたが、聞かれませんでした」
ドラムが少し笑った。
「親父らしいな」
「全くです」
雪が、静かに降り続けた。
扉の向こうが、しばらく静かになった。ドラムは無意識に息を詰めた。それから——
小さな声が、聞こえた。
泣き声だった。
高く、細く、それでも確かな声だった。
ドラムは動けなかった。欄干を掴んだまま、その声を聞いていた。胸のどこかが、詰まったような感じがした。詰まっているのに、同時に何かが広がる感じがした。
「……旦那様」
扉が少し開いて、産婆の一人が顔を出した。
「お入りください」
部屋の中は温かかった。
灯りがいくつも焚かれていた。イリジャが寝台に横たわっている。顔が青白く、汗が滲んでいる。それでも目は開いていて、胸の上に小さなものを抱いていた。
ドラムは近づいた。
小さかった。
当たり前だが、こんなに小さいとは思っていなかった。頭が丸く、目が細く閉じている。手の指が——信じられないくらい、細い。
「……ドラム」
イリジャが呼んだ。声がかすれている。
「ちゃんと生まれてきたわ」
「ああ」
「泣き声、聞こえた?」
「聞こえた」
「元気な声だったでしょう」
「ああ」
それしか言えなかった。それ以外の言葉が、どこかへ行ってしまっていた。
イリジャが「抱いてみる?」と言った。
ドラムは少し迷ってから、頷いた。
産婆が手伝ってくれて、小さなものを腕の中に移した。ずっしりと重いかと思ったが、そうでもなかった。軽い。軽すぎるくらいだ。しかしその軽さが、逆に怖かった。落とすわけがないのに、落としてしまいそうな気がした。
「重くない?」
イリジャが笑いながら言った。
「重くない。軽すぎて、怖い」
「私もそう思った」
ドラムは、小さな顔を見た。
目が薄く開きかけていた。黒い瞳が、ぼんやりとドラムを見た。まだ何も分かっていない目だ。この顔が誰かも、今いる場所がどこかも、何も分かっていない。それでも、見ていた。
「……名前、決まってるか」
「あなたが決めるって言ったじゃない」
「そうだったか」
「そうよ」
ドラムは少し考えた。考えるふりをした、かもしれない。実はもう決まっていた。
「レイア」
「レイア」
イリジャが繰り返した。
「どういう意味?」
ドラムは少し間を置いた。
「……遠い国の言葉で、夜明けを意味する。黎明の黎と、朝——その二つを合わせた読み方だ」
「遠い国って、どこの?」
「昔、文献で読んだ。どこの言葉かまでは覚えていない」
「覚えてないの?」
「覚えていない」
そっけなく言った。
イリジャはしばらく、その名前を口の中で転がすように黙っていた。それから目を細めた。
「……夜明け」
「ああ」
「雪の朝に生まれてきたんだもの。ぴったりね」
ドラムは何も言わなかった。
イリジャが少し笑った。それからまた眠そうな顔になった。
「……いい名前ね」
「そうか」
「うん。レイア」
もう一度呼んだ。腕の中のものが、少しだけ動いた。
廊下では、ラヴァガンが雪の中庭を見ていた。
泣き声が聞こえた瞬間、ラヴァガンは小さく息を吐いていた。七百年生きて、何十人もの当主を見てきた。その誰かが生まれた瞬間に、何度も立ち会ってきた。
それでも、慣れない。
命が始まる瞬間というのは、何百年経っても慣れるものではない。
しばらくして、扉が開き、ドラムが出てきた。腕の中に何も持っていなかった。顔が、見たことのない顔をしていた。強い男だが、今は強さとは別の場所に立っている顔だ。
「ラヴァガン」
「はい」
「女の子だった」
「存じています。先ほど産婆から」
ドラムは欄干に手をついて、雪の中庭を見た。
「俺に似てなかった」
「生まれたばかりでは判断がつきません」
「イリジャに似てた。顔が」
「それは……奥様も喜ばれるでしょう」
ドラムは少しの間、黙っていた。
「ラヴァガン、頼みたいことがある」
「何でしょう」
「あいつのお目付け役になってくれ。俺じゃ甘くなる。お前の方がいい」
ラヴァガンは即答しなかった。
しばらく、雪を見ていた。
「……何代目になりますかな」
「八十五代目だ」
「気が遠くなるような数ですね」
「嫌か」
「いいえ」
ラヴァガンは短く答えた。
「お引き受けします。——ただし、条件が一つ」
「なんだ」
「あの子が泣いているときに私を呼ばないでください。私には手に負えません」
ドラムが笑った。声を上げて笑った。廊下に響くくらい。
それを聞いてか、部屋の中からもう一度、小さな泣き声がした。
雪が、少しだけ弱くなった。
空の端が、白く明るくなり始めていた。




