朝の日常が検問で歪み、遠い戦争の影が迫る。18時、発砲と判断が街を引き返せなくする
朝の通りには、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
それはこの街では当たり前の匂いで、誰も立ち止まって深呼吸をすることはない。だが、その匂いがある限り、少なくとも「昨日まで」と同じ朝だと、人々は無意識に信じていた。
商店街の角には、軍のトラックが一台停まっている。兵士が二人、銃を肩に掛けたまま立っていたが、通り過ぎる市民は特に気にも留めなかった。彼らはもう何週間も前からそこにいる。風景の一部になっていた。
パン屋のシャッターが上がる音がした。
店主はいつも通り、表情のない顔で開店の準備を始める。ガラス越しに見える通りには、学生が二人、少し眠そうな顔で歩いていく。遠くでは、ラジオのニュースがかすかに流れていた。
――インド情勢は依然として緊張を増しており。
誰も、その続きを聞こうとはしない。
遠い国の話だった。
午前中は穏やかに過ぎた。
検問はあったが、形式的なものだ。身分証を見せ、軽く質問をされて終わる。兵士の口調は硬いが、銃口がこちらを向くことはない。
ただ一つ、いつもと違うことがあった。
夜間の外出について、新しい紙が検問所に貼られていたのだ。
文字は簡潔で、理由は書かれていない。
「安全確保のため、夜間の行動には注意すること」
市民の多くは、それを見て肩をすくめるだけだった。
注意なら、これまでも何度もあった。
夕方になると、街はゆっくりと色を失っていく。
人々は早足になり、店はいつもより早くシャッターを下ろす。誰かが「今日は静かだな」と言い、別の誰かが「嵐の前ってやつだろ」と冗談めかして笑った。
18時が近づいていた。
その時点では、誰も知らなかった。
この街で、夜が意味を変えることを。
そして、パンの匂いよりも先に、銃声を思い出すようになることを。
時計の針が、ゆっくりと次の区切りへ進んでいく。
最初の銃声は、夜が完全に沈みきる前だった。
遠くで乾いた音がして、誰かが花火だと言った。別の誰かは、車のバックファイアだと笑った。だがその笑いは長く続かず、通りにいた人間は無言のまま家へと散っていった。
検問所の兵士たちは、その音を聞いた瞬間に動いた。
雑談は終わり、姿勢が変わる。銃は肩から手に移され、無線機が同時に鳴り始めた。
「第二区画で発砲あり」
「確認中、敵味方不明」
それまで形式的だった検問は、その夜を境に姿を変えた。
翌朝、通りに出た市民が最初に気づいたのは、兵士の数が増えていることだった。二人一組だったはずの検問所に、いつの間にか六人が立っている。トラックの代わりに装甲車が置かれ、道路には簡易的なバリケードが設置されていた。
兵士の目が、違った。
通行人を見る視線が、確認から警戒へと変わっている。
身分証の確認は長くなり、質問が増えた。
どこへ行くのか。
なぜ今なのか。
誰と会うのか。
理由を答えても、納得されるとは限らない。
昼過ぎ、商店街に緊張が走った。
検問所の前で、一人の男が足止めされたのだ。
大声は出ていない。抵抗もなかった。
ただ、男の持っていた鞄の中から、軍用と見られる無線機が見つかった。
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「下がれ」
兵士の声は低く、感情がなかった。
市民は言われる前に距離を取っていた。
男は連れて行かれ、そのまま戻ってこなかった。
その日の夕方、新しい命令が検問所に伝えられる。
夜間の外出は、原則禁止。
理由の説明は不要。
命令に従わない者は、敵対行為とみなす。
紙に書かれた文字は淡々としていたが、意味は明確だった。
この街は、もう「疑われない場所」ではない。
兵士の一人が、小さく呟いた。
「……始まったな」
誰も否定しなかった。
18時が近づくにつれ、店の灯りは一つ、また一つと消えていく。
通りは静かになり、足音すら響くようになる。
最初の襲撃が誰によるものだったのか、
本当に反乱軍だったのか、
それを確かめる者はいなかった。
確かなのは一つだけだった。
この夜から、検問所は街を守る場所ではなくなった。
時計の針が、18時を指す。
街は、息を止めた。
18時。
街のどこかで鐘が鳴ったわけではない。
だが、人々は同時にそれを知った。
家々の灯りが、示し合わせたように落とされる。
完全な闇ではない。カーテンの隙間から漏れる弱い光、廊下に残された裸電球、階段の足元灯。
生きている証明だけを残した暗さだった。
通りに残る明かりは、検問所の投光器だけだ。
白すぎる光が道路を切り取り、影を異様な形に引き伸ばす。
兵士たちは配置についた。
全員が立ったまま、銃を構えている。
昼間とは違い、誰一人として無駄口を叩かない。
無線が小さく鳴る。
「全検問所、18時を確認。
夜間規定、適用開始」
短い返答が、いくつも重なった。
「了解」
「確認」
「異常なし」
異常がないことが、異常だった。
最初に聞こえたのは、足音だった。
規則正しくもなく、走ってもいない。
ただ、確かに人間のものだ。
投光器の光の外側。
闇の縁で、影が一つ、止まる。
「止まれ」
兵士の声はよく通った。
怒鳴ってはいない。警告でもない。
影は動かない。
「身分を示せ」
数秒の沈黙。
長すぎる沈黙。
兵士の指が、引き金に触れる。
そのとき、影が一歩、前に出た。
投光器の光が顔を照らす。
若い男だった。息が荒く、視線が定まっていない。
「……すぐそこだ。家は、すぐそこなんだ」
誰に向けた言葉かは分からない。
兵士ではなく、自分自身に言い聞かせているようだった。
「時間外だ」
淡々とした声。
「戻れ」
男は首を振った。
「時計が遅れてて……気づかなかったんだ。頼む、少しだけ――」
一歩。
それだけで、空気が張り詰めた。
「動くな!」
男は止まった。
だが、もう遅かった。
別の検問所から、銃声が一発、夜を裂いた。
遠い音。
だが、それで十分だった。
兵士たちの神経が、一斉に跳ね上がる。
「伏せろ!」
誰かが叫び、
誰かが引き金を引いた。
音は一つではなかった。
乾いた連射が、通りを埋める。
数分後。
地面に倒れているのは、最初の男だけだった。
動かない。
兵士の一人が、息を詰めたまま呟く。
「……撃ってない。俺は……」
だが誰も答えなかった。
無線が鳴る。
「第三区画、発砲あり。対象、一名無力化」
「他検問所も警戒を維持せよ」
それだけだった。
質問も、確認もない。
その夜、街のあちこちで銃声がした。
理由は様々だった。
遅れただけの者。
逃げただけの者。
影に見えただけのもの。
正確な数を、誰も知らない。
ただ確かなのは――
この夜を境に、18時は「時間」ではなく「境界」になったということだ。
越えた者は、
戻れなかった。
朝は、音もなくやって来た。
銃声で終わった夜に比べて、あまりにも普通すぎる朝だった。
空は白く、雲は低い。通りには昨夜の痕跡が残っているはずなのに、誰もそれを確かめようとはしない。
人は少ない。
だが、いないわけではない。
早足で通りを横切る者、
建物の影に沿って歩く者、
開いたばかりの店に、視線を伏せたまま入っていく者。
誰も話さない。
挨拶も、世間話もない。
街は目覚めているが、
声を失っていた。
検問所では、兵士たちが交代に朝食を取る準備をしていた。
誰かが昨夜のことを口にしそうになり、
だが結局、誰も言葉にしなかった。
一人の兵士が、銃を肩に掛けて通りへ出る。
向かう先は、
あのパン屋だった。
ベルの音が、静かな店内に響く。
店員は一瞬だけ顔を上げ、
入ってきたのが兵士だと分かると、何も言わずカウンターの奥に立った。
兵士は短く言う。
「バゲットを、二つ」
声は低く、抑えられている。
ラジオが、店の隅で流れていた。
落ち着いたアナウンサーの声。
――インドでは独立後も情勢が安定せず、
――旧宗主国との緊張が各地で続いています。
――現地では、元戦闘員の処遇が問題となっており……
パンを袋に入れる音だけが、
その声に重なる。
兵士は、ラジオを見ない。
だが、聞いていないわけでもなかった。
会計を済ませ、
紙袋を受け取る。
一瞬の沈黙。
兵士は、店員にだけ聞こえる声で言った。
「……ありがとう」
店員は驚いたように瞬きをし、
小さく頷く。
「……どういたしまして」
それ以上の言葉は、なかった。
兵士は店を出る。
朝の光が、通りを照らす。
街は動いている。
昨日と同じように、
今日も始まっている。
だが兵士は知っている。
この街では、夜が終わっても何も終わっていない。
紙袋の中で、
バゲットが、かすかに触れ合う音がした。
それは、
銃声よりも静かで、
それでいて、やけに重く響いた。
兵士が検問所に戻ったとき、
朝はまだ終わっていなかった。
紙袋を机に置き、
バゲットを分ける。
誰かが無言で受け取り、誰かがうなずく。
それだけの、ありふれた光景だった。
最初の異変は、音ですらなかった。
投光器の光の外、
瓦礫の影がわずかに動いた。
誰も気づかなかった。
気づけなかった。
破裂音。
一瞬遅れて、
検問所の一角で兵士が崩れ落ちる。
「伏せろ!」
叫びが上がるより早く、
二発目。
今度は、はっきりと分かった。
近距離からの奇襲だ。
影が、二つ、三つ。
建物の隙間から飛び出し、
火炎瓶が投げ込まれる。
地面で割れ、
炎が一瞬だけ跳ね上がる。
銃声が重なる。
混乱の中で、
兵士の一人が胸を押さえて倒れた。
もう一人は、声を出す暇もなく地面に伏す。
返答の射撃が、通りを切り裂く。
数秒。
あるいは、数十秒。
暴徒は、来た時と同じように消えた。
静寂。
硝煙と、焦げた匂い。
兵士たちは銃を構えたまま、
動けずにいた。
やがて、誰かが低く言う。
「……二名、応答なし」
救護は来た。
だが、意味はなかった。
遺体は、シートで覆われ、
通りの端に運ばれた。
市民の姿は、どこにもない。
無線が鳴る。
「全検問所に通達。
本件を受け、体制を即時変更する」
短く、冷たい声。
「夜間規定を、昼間にも一部適用。
検問は常時実施。
集団行動は即解散。
抵抗の兆候があれば――」
一拍置いて、続く。
「即時制圧を許可する」
その日のうちに、街は変わった。
検問所は増設され、
土嚢が積まれ、
重機関銃が据え付けられる。
兵士の数も、
武装も、
命令も、
すべてが重くなる。
誰かが、ぽつりと言った。
「……もう朝と夜の区別、いらないな」
誰も笑わなかった。
その日から、
街では「時間」が意味を失った。
いつでも検問。
いつでも警戒。
いつでも銃口。
18時の夜は、街全体に広がった。
そして人々は理解する。
これは一時的な混乱ではない。
これは――
戻らない段階に入ったのだと。
午後の光は、妙に明るかった。
雲が切れ、日差しが公園の広場を照らしている。
噴水は止まり、ベンチには誰も座っていない。
それでも、子供だけはいた。
走り回ることはしない。
声も出さない。
ただ、広場の端で、互いの顔を見ながら立っていた。
口論は、小さな声から始まった。
「だから、違うと言っているだろ」
「嘘をつくな。あの夜、お前は――」
二人の成人が、広場の中央で向き合っていた。
掴み合うほど近くはない。
だが、距離は確実に詰まっている。
言葉が鋭くなり、
手振りが大きくなる。
周囲にいた子供の一人が、それを見て固まった。
――ダメだ。
――これは、ダメなやつだ。
誰かに言われたわけではない。
だが、もう街全体が知っていた判断だった。
子供は、走った。
転びそうになりながら、
靴音を響かせ、
検問所へ向かう。
兵士が三人、道路脇に立っている。
子供は息を切らし、
言葉を探しながら叫んだ。
「こ、公園の広場で……!
こ、こうろんが……!」
兵士たちは、一瞬だけ顔を見合わせる。
その沈黙は短い。
「案内しろ」
低い声。
三人の兵士が動く。
銃は構えられ、
足取りは速い。
子供は先を走りながら、
何度も振り返る。
――これでいいんだ。
――知らせなきゃ、もっと悪くなる。
そう、信じようとした。
公園に近づくにつれ、
声が聞こえてきた。
「だから、お前は臆病者なんだ!」
「黙れ!」
兵士の一人が手を上げる。
「止まれ」
声はよく通った。
口論は、
その一言で止まった。
二人の成人が、同時に振り向く。
銃口を見る。
広場の空気が、一瞬で凍る。
子供は、兵士の後ろで立ち尽くした。
自分が呼んだのだと、
二人に気づかれないように。
だが、その必要はなかった。
この街では、
兵士が来た時点で、理由は関係なくなる。
兵士の一人が言う。
「事情を聞く。
両手を挙げろ」
二人は、ゆっくりと手を上げた。
午後の光が、
その指先を照らしている。
誰も、
次に起こることを知らない。
だが、
何も起こらないとは、もう誰も思っていなかった。
兵士たちの姿が広場に現れた瞬間、
それを見ていた市民は、言葉を失った。
誰かが小さく息を呑み、
それが合図になったかのように、人々は動き出す。
走る者はいない。
叫ぶ者もいない。
ただ、消える。
家の扉が静かに閉まり、
窓が内側から覆われ、
路地へと身体を滑り込ませる影がいくつも生まれる。
物陰に隠れた者たちは、
顔だけを出し、
見てはいけないものを見る目で広場を窺っていた。
ついさっきまで、
ここはただの公園だった。
兵士の一人が前に出る。
「動くな」
低く、はっきりした声。
二人の成人は、言われる前から足を止めていた。
視線は銃口に吸い寄せられ、
喉が鳴る音だけがやけに大きく響く。
「身分証を出せ」
命令だった。
先に動いたのは、背の高い方の男だった。
ゆっくりと、
必要以上にゆっくりと、
内ポケットに手を入れる。
兵士の一人が、即座に叫ぶ。
「止まれ。
片手ずつだ」
男は一度、深く息を吸い、
言われた通りに動く。
身分証が、地面に落とされた。
別の兵士がそれを拾い上げ、
顔と写真を見比べる。
無職。
住所は、この街の外れ。
兵士は、何も言わない。
視線だけが、
男の顔から、靴、
そしてもう一人の成人へと移る。
「お前もだ」
もう一人は、明らかに動揺していた。
「ただの口論だ……本当に、それだけなんだ」
返事はない。
男は震える手で財布を取り出し、
身分証を差し出す。
兵士はそれを受け取り、
同じように確認する。
職業欄に書かれた文字を見て、
わずかに眉が動いた。
広場の空気が、さらに重くなる。
物陰に隠れていた市民の一人が、
耐えきれず、家の奥へと引っ込む。
見ること自体が、危険になってきていた。
兵士の一人が、無線に短く報告する。
「身分証確認中。
両名とも武装は今のところ確認されず」
その「今のところ」という言葉が、
やけに長く残った。
子供は、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
自分が呼んだ兵士たちが、
大人を取り囲み、
街が息を殺している光景を見て、
初めて、
取り返しがつかないかもしれないと理解する。
午後の光は、まだ暖かい。
だがこの広場では、
時間が止まっている。
次に誰かが動けば、
それが合図になる。
良い方か、
悪い方かは――
もう、誰にも分からなかった。
兵士は、二枚の身分証を並べて見ていた。
写真。
氏名。
住所。
そこまでは、どこにでもある内容だった。
だが、二人目の身分証の備考欄で、兵士の指が止まる。
小さな文字。
消しかけたインク。
「海外滞在歴あり」
その下に、国名。
――インド。
兵士の視線が、無意識にラジオの声を思い出す。
朝、パン屋で流れていたニュース。
――インド独立戦争後も各地で不安定な状況が続き、
――現場指揮官クラスの行方は不明なまま……
偶然だと、言い切れなかった。
兵士は顔を上げ、男を見る。
「インドに、何をしに行っていた」
問いは短い。
だが、確認ではなく詮索だった。
男は一瞬、言葉に詰まる。
「……仕事だ。建設関係で」
即答ではない。
それだけで、周囲の兵士の空気が変わる。
別の兵士が、一歩前に出る。
「いつだ」
「独立戦争の……少し前だ」
その言葉が、
広場に落ちる。
物陰に隠れていた市民の誰かが、
息を呑む音がした。
兵士の一人が、低く言う。
「ニュースを聞いていないわけじゃないな」
男は、視線を逸らした。
否定しない。
肯定もしない。
それが、最悪だった。
無線が鳴る。
「……インド独立戦争関係者に注意せよ、
現地経験者は反乱分子と接触している可能性あり」
淡々とした声。
感情はない。
だが、その内容は重かった。
兵士は身分証を返さない。
「その場に座れ」
命令だった。
男はゆっくりと膝を折る。
もう一人の男が、焦ったように声を出す。
「待ってくれ、ただの言い争いだろ!」
兵士の視線が、冷たく向く。
「今は、そう見えない」
広場の周囲で、
さらに家の扉が閉まる。
窓の隙間が、暗くなる。
市民たちは理解していた。
これはもう口論ではない。
戦争の影が、この街に足を踏み入れた瞬間だ。
子供は、物陰で小さく震えていた。
自分が走ったことで、
「遠い国の戦争」が、
ここに引き寄せられた気がしてならなかった。
午後の光は、まだ消えていない。
だがこの広場では、
もう夜と同じ緊張が張り付いていた。
次の一言、
次の動き一つで――
この出来事は「事件」になる。
――カシャ。
乾いた音が、広場に落ちた。
あまりにも小さく、
それでいて、この場には致命的に大きな音だった。
兵士の一人が、ぴくりと肩を揺らし、
即座に音のした方向へ銃口を向ける。
「……今の音だ」
視線の先、
街路樹の影に、男が立っていた。
胸に抱えたカメラ。
白くなった指先。
「お前、なにをしている」
兵士の声は低く、感情がなかった。
「ち、違う! 誤解はしないでくれ!」
男は慌てて両手を上げるが、
カメラは手放さない。
「私は、その……ニュース会社の命令で……」
言葉が、震える。
広場の空気が、一段重くなる。
「ニュース会社?」
別の兵士が、即座に言った。
「この街に、そんなものはない」
事実だった。
暴動発生時から報道機関はすべて撤退している。
男の喉が鳴る。
「ち、違うんだ! 隣街から来たんだ! 取材で――」
「嘘だ」
遮るように、最初の兵士が言った。
即断だった。
「隣街の検問所は三日前に閉鎖された。
通行許可証なしで、ここには来られない」
男の目が、泳ぐ。
一瞬の沈黙。
そして――
男は、走った。
「止まれ!」
叫びと同時に、
安全装置が外される音が重なる。
男は振り返らない。
カメラを抱えたまま、狭い路地へ飛び込もうとする。
その背中に、
兵士は迷わなかった。
銃声が、一発。
短く、乾いた音。
男の体が、前につんのめり、
石畳に崩れ落ちる。
カメラが転がり、
レンズが空を向いたまま、止まった。
シャッターは、もう切れない。
広場は、完全に静まり返る。
誰も叫ばない。
誰も泣かない。
それが、この街の日常になりつつある証拠だった。
兵士は、倒れた男を見下ろし、短く言う。
「……記録は、武器だ」
誰に向けた言葉でもない。
ただの事実確認のようだった。
その日、
この街で「真実」を持ち出そうとした者は、
石畳の上に残された。
夕方の光が、
カメラの割れたレンズに反射し、
鈍く光っていた。
公園の広場でその光景を見ていた2人は兵士に向かって
「な、なぁ、もう身分確認はできただろ?」
兵士は2人に向かって短く答える。
「あぁ、特に問題はなかった、ただし、次問題を起こしたらどうなるか分からないからな」
2人は頷きその場を後にした。
時計台の針が、
ゆっくりと、だが確実に18時へ近づいていた。
17時59分。
街は、目に見えて姿を変え始める。
商店の灯りが一つ、また一つと消え、
パン屋のシャッターが、
ガラガラという金属音を立てて閉まる。
その音に驚いたように、
通りに残っていた人々が足を速めた。
走る者。
肩をすぼめて壁沿いを歩く者。
鍵を落とし、震える手で拾い上げる者。
誰も、声を出さない。
検問所。
砂嚢の影に立つ兵士たちは、
無言で銃の安全装置を外していた。
カチ、と乾いた音。
それは合図のように、
この時間が始まることを告げる。
「……もうすぐだな」
一人の兵士が言う。
「あぁ」
返事は短い。
会話は、それ以上続かない。
17時59分。
街灯のいくつかが、
意図的に消される。
残るのは、
検問所を照らす最低限の照明と、
遠くの建物の窓から漏れる、
かすかな光だけ。
まるで街全体が、
息を潜めているかのようだった。
18時。
鐘は鳴らない。
だが、
誰もがその瞬間を理解した。
「……18時だ」
兵士の一人が、
低く告げる。
その直後――
遠くで、銃声。
乾いた破裂音が、
夜の空気を切り裂いた。
「……始まったな」
別の検問所だ。
無線が、すぐに騒がしくなる。
「こちら南区、発砲音確認」
「北側路地、動く影あり」
「確認中、照明不足」
通りの奥。
一つの家の窓が、
ほんの一瞬だけ明るくなる。
次の瞬間、
慌てたように灯りが消えた。
それを見逃さない。
「動いたな」
銃口が、そちらを向く。
引き金にかかる指が、
わずかに締まる。
だが、撃たれない。
今夜は、まだ始まったばかりだ。
「……くそったれが」
一人の兵士が、
吐き捨てるように言う。
「こんな時間に、
何してやがるんだよ……」
答える者はいない。
遠くで、
また銃声が響いた。
街は再び、
18時の夜に飲み込まれていく。
18時を少し過ぎた頃だった。
検問所の照明に照らされて、
1人の影が、ゆっくりと近づいてくる。
走らない。
逃げない。
ただ、まっすぐに。
「……来るぞ」
兵士の一人が、低く言った。
距離、20メートル。
「おい!」
鋭い声が夜を裂く。
「止まれ!」
影は、止まらない。
距離、15メートル。
「要件はなんだ!」
別の兵士が叫ぶ。
「身分証を出せ!」
返事はない。
足音だけが、
舗道を叩く。
距離、10メートル。
その時だった。
市民が、
無言でポケットに手を入れた。
一瞬。
だが、検問所では
充分すぎる時間だった。
「止めろ!」
誰かが叫ぶ。
「下がれ!」
だが、もう遅い。
重機関銃の銃身が、
静かに、しかし確実に向けられる。
引き金が引かれた。
ドン、ドン、ドン、ドン――
低く、腹の底に響く音。
夜が、震えた。
閃光が走り、
火薬の匂いが一気に広がる。
市民の体が、
衝撃に押し戻されるように仰け反り、
そのまま、地面に叩きつけられた。
動かない。
近づく者はいない。
銃口は、
なおも向けられたままだ。
「……停止確認」
誰かが、そう言った。
数秒後、
兵士2人が慎重に近づく。
足で、影を転がす。
ポケットから落ちたのは――
折りたたまれた紙切れと、
小さな金属製のライター。
武器は、なかった。
誰も、声を出さない。
無線だけが、淡々と報告する。
「18時10分。
不審者1名、射殺。
脅威排除済み」
検問所に、再び静寂が戻る。
だがその静けさは、
もう戻れない線を越えた後のものだった。
この夜は、
まだ、始まったばかりだ。
地面に伏したままの市民の身体は、
もう、ぴくりとも動かなかった。
「……確認する」
兵士の1人が、
短く告げる。
他の兵士は、
無言で周囲を警戒し、
銃口を路地と建物の影へ向けた。
重機関銃は、
まだ熱を帯びている。
兵士は、慎重に市民の体を仰向けにする。
血で湿った上着。
震える指で、胸元に手を入れる。
その瞬間――
指先に、硬い金属の感触。
「……待て」
声が低くなる。
ゆっくりと、
胸ポケットの中身を引き出す。
街灯の下で、
それははっきりと姿を現した。
手榴弾。
ピンは、
まだ抜かれていない。
だが、
いつでも抜けたはずの位置にある。
一瞬、
検問所の空気が凍りつく。
「……本物だ」
誰かが、かすれた声で言う。
「もし撃ってなかったら――」
その先は、
誰も口にしなかった。
想像するだけで、
充分すぎた。
兵士は、静かに手榴弾を地面に置く。
次に、
落ちていた紙切れを拾い上げる。
それは、
住所と名前が書かれた、
古いメモだった。
だが、
その内容を確認する者はいない。
手榴弾が、すべてを塗り替えた。
無線が入る。
「……確認完了。
不審者、爆発物所持。
判断は、正当とする」
短く、
感情のない声。
兵士の1人が、
深く息を吐いた。
「……そういうことか」
誰も、返事をしない。
夜の中で、
検問所の灯りだけが、
静かに揺れていた。
この瞬間から、
この街での「疑い」は、
恐怖ではなく、確信に変わる。
18時の夜は、
もう、後戻りを許さない。




