第9章 村の裏切り
【王暦424年・ダール渓谷の村】
畑が甦ったことで、村は少しずつ活気を取り戻していた。
子供たちの笑い声が戻り、女たちは家の前に布を干し、男たちは畑の手入れに汗を流している。
(やっと……光が見えてきた)
胸の奥に小さな安堵が芽生えたその矢先──。
◇
夜半、私の小舎に足音が近付いた。
軋む扉を開けると、怯えた顔の少年が立っていた。
「リシェル様……! 大変です、穀物の袋が……!」
彼に案内されて倉庫へ駆けつけると、そこには荒らされた穀袋が散乱していた。
中身は盗まれ、残っているのは破られた布とわずかな粉だけ。
「盗まれた……?」
ざわつく村人たちの間から、一人の男が声を上げた。
「隣領の仕業に決まってる!」
「いや……違う」
グレイ辺境伯の低い声が響いた。
彼は散乱した足跡を見下ろし、目を細める。
「外から侵入した形跡はない。これは……村の中の者だ」
広場に重苦しい沈黙が落ちた。
互いに視線を交わし、疑念が膨らんでいく。
「誰かが……仲間を売ったのか」
「村を……裏切った……?」
その瞬間、村人の怒りの矛先は一斉に一人の老人に向いた。
数日前までヴァルデン領に縁のある商いをしていたという男だ。
「お前だろう!」
「ヴァルデンに通じてるんじゃないのか!」
老人は震えながら首を振る。
「ち、違う! わしじゃない……!」
私は慌てて前に出た。
「待ってください! 証拠もないのに決めつけては……!」
しかし村人たちの耳には届かない。
怒号と罵声が飛び交い、誰かが石を掴みかけたその時。
◇
「やめろ」
剣が抜かれる音。
広場の空気が一瞬で凍りつく。
グレイ辺境伯が剣を半ば抜き、冷たい声で告げた。
「証拠なき断罪は、ただの暴徒だ。……それを望むなら、この剣で裁く」
誰も動けなかった。
張り詰めた沈黙の中で、私は必死に声を振り絞った。
「盗みを働いた者がいるなら、必ず痕跡が残っているはずです。足跡、指の跡、布の繊維……全部調べましょう!」
村人たちの目がこちらを向く。
私は震える手で穀袋の切れ端を拾い上げた。
「これを必ず突き止めます。だから、今は誰も罰してはいけません」
◇
その場はようやく収まったが、村の空気は重苦しいままだった。
人の心に巣食う疑念が、最も厄介な敵であることを痛感する。
(私が証明しなきゃ……この村は内側から崩れてしまう)
決意を新たにした私の横で、グレイ辺境伯が低く囁いた。
「……お前は甘い。だが、その甘さが村を繋ぎ止めるかもしれん」
その言葉を胸に、私は闇に沈む村を見渡した。
この地で生きると誓った以上、逃げることは許されない。
第9章をお読みいただきありがとうございます。
外からの妨害だけでなく、ついに「村の内部」からの不信と裏切りが描かれました。
信じていた仲間の中に犯人がいるかもしれない──その恐怖は魔物よりも厄介です。
リシェルは「証拠を突き止める」と宣言しましたが、果たして村を崩壊から守れるのでしょうか。
グレイ辺境伯の「お前は甘い」という言葉は冷たくもありながら、彼なりの肯定でもありました。
二人の距離が少しずつ近づく中、次章では盗みの真相と黒幕の影が明らかになっていきます。