第1章 断罪の広間
【王暦424年・秋/王都アーベル】
大広間の高窓から、鈍い光が石床に落ちていた。
赤い絨毯の先、玉座の手前に設えられた断罪台。
そこに私は立っている。名を呼ばれるたびに、周囲の貴族たちがざわめいた。
「公爵令嬢リシェル・アルバート。罪状は三つ」
読み上げる老書記官の声は、乾いた羊皮紙のようにひび割れている。
「第一に、辺境救済金の着服。第二に、商会との不正な私的取引。第三に、王太子殿下への誹謗。以上」
笑いが漏れる。ため息も。
けれど、私の耳は別の音を拾っていた。
──インクの匂い。
証拠だと並べられた帳簿は、昨日乾いたばかりの黒をしている。王都財務局のインクは鉄胆汁で灰がかるのに、これは煤で黒い。行の揃えも甘い。綴じ紐が新しい。
(粗が多すぎるわね)
私の視線の先で、金髪の青年が愉快そうに微笑んだ。
王太子セドリック。幼い頃に婚約の儀を交わした私の──元、婚約者。
彼の左隣、薄い灰の外套を羽織った長身の男が腕を組んでいた。黒曜石のような瞳。冷たい視線で、広間全体の温度を一段下げている。辺境の守り手、グレイ辺境伯カディス・グレイ。
「弁明は?」
老書記官が問う。
私は会釈して、帳簿へ歩み寄った。
「弁明というより、確認です。……この帳簿に記された『辺境救済金の送付日』は、王暦424年の炎月十七。ですが、その日は王都の市門が封鎖されていました。疫病対策で一日中。通行証がなければ一歩も動けない。封印記録は王宮門衛局に残っているはずです」
ざわ、と空気が揺れる。
左列の若い貴族が顔をしかめた。セドリックは笑みを崩さない。
「詭弁だな、リシェル」
王太子は軽く肩をすくめた。「封鎖にも抜け道はある。君ほどの才媛なら、いくらでも書類を飾れるだろう?」
「抜け道の印は残ります。門章の押印の癖は一つとして同じではない。──それに」
私は帳簿の一ページをめくり、綴じ糸の結び目を指で示した。
「この帳は、綴じ直されています。今日。新しい麻糸の匂いがまだ残っています」
広間の端で、誰かが小さく舌打ちした。
でも、ここは王都の広間。真実より面子が優先される場所だ。
老書記官は戸惑い、視線を玉座の前に立つ摂政へ送った。
摂政は淡く首を振る。
セドリックが一歩前に出て、誰もが知る“断罪の定型”を滑らかに紡ぐ。
「リシェル・アルバート。君は民の金を私し、王家の名誉を傷付けた。アルバート家は国に尽くした名門だが、君個人の咎は別だ。よって、アルバートの名と位を剥奪。王都から三日以内に退去。以後、南辺境ラインの外にて生涯を送れ」
ざわめきが歓声に変わる。
断罪は、処刑よりも穏当で、残酷だ。
(追放、ね。そう来ると思っていた)
父は病床にある。公に否を唱えれば、家が揺らぐ。
私は静かに腰を折り、礼をした。
「陛下のご裁可に従います。ただ──一つだけ願いを」
「許す」
セドリックは芝居がかった寛容さで顎を引いた。「何だ?」
「南辺境“ダール渓谷”にある祖母の小舎へ向かうことをお許しください。遺品の整理と、村に残した借りを返したいのです」
祖母は辺境の治癒師だった。草の匂いが似合う人。
彼女が遺した手帳は、王都の学匠が鼻で笑った“古い療法”と“民間の呪文”で埋まっていた。
けれど私だけが知っている。あれは古の体系だ。森と大地の文法。
王都では価値を持たないが、辺境では命を救う。
「好きにしろ」
セドリックが退屈そうに言い捨てた。「どうせラインの外だ。狼と飢えの牙に気を付けるんだな」
広間の反対側から、低い声が割って入った。
「追放者の安全な退去は、王の法目録第十三条に明記されている。護送は近衛の任にあるが──王都の手が回らぬなら、ダール方面は我が領が引き受けよう」
視線が集まる。
カディス・グレイ。黒い軍衣の肩章に銀の狼。
彼は玉座に一礼すると、淡々と続けた。
「治安維持の観点からだ。王都発の護衛隊は南端を越えない。荒野は中立地帯、掟も変わる。境を越える案内は辺境の役目だ」
摂政は一瞬だけ眉を上げ、それから頷いた。
セドリックは口元だけで笑い、「好きに」とつぶやく。
場は形式どおりに締めくくられ、槌音が広間に落ちた。
それで、儀式は終わった。
私は膝を折らず、まっすぐに踵を返す。
背中に浴びるのは好奇と嘲り。
扉が閉じた瞬間、音が消えた。
◇
回廊はひんやりとして、石の匂いがした。
胸元に指を差し入れ、小さな布袋を確かめる。
祖母の手帳の、薄い切れ端。流し読みでは意味をなさない短い詩句。けれど並べ替えると、土と草の言葉になる。
(生きる。生き延びるだけじゃない。……立て直す)
「リシェル・アルバート」
背後で名を呼ぶ声。振り返ると、黒衣が立っていた。
グレイ辺境伯。
至近で見ると、厳ついというより、余計なもののない顔だった。余白がない、というべきか。
「アルバートの名は、もう要らないのかもしれないが」
彼は淡々と言い、視線を落として私の足元を見た。
踵の革が少し裂けている。広間で踏みにじられたからだ。
「西門、三日後の暁。馬車を出す」
「……辺境伯が、わざわざ?」
「法と掟のためだ」
彼はひと呼吸置き、低く続ける。
「忠告を一つ。辺境では王都の嘘が通じない。見るもの、聞くもの、触れるもの──すべてが判断だ。生きたければ、他人の言葉より自分の鼻と舌を信じろ」
私は思わず笑った。
鼻と舌。祖母がよく言っていた。
草は匂いで嘘をつかない。水は舌で季節を語る。火は手のひらに真実を残す。
「銘記します。案内、感謝します」
「礼は要らん」
カディスは踵を返し、歩き出した。二歩目で立ち止まる。
振り返らないまま、落とすように言った。
「……さっきの帳簿だが」
「はい?」
「綴じ糸の匂いは、たしかに新しかった。酢と麻。王都財務局の書庫から出たものではない」
それだけ告げると、彼は闇に溶けた。
(見ていたのね。全部)
胸の内に、小さな火が灯る。
私はその火を両手で包むようにして、回廊を歩いた。
目指すのはアルバート邸──ではない。
まずは市門近くの古本屋だ。祖母の手帳に欠けている章を補うため。
次に、港の倉庫。辺境に送るべき救済物資が、王都のどこで滞ったのか、足跡を辿るため。
追放は終わりじゃない。始まりだ。
森へ行く。草を聞き、水を味わい、火を馴らす。
そして──
(いつか、戻る。
そのときはこの広間で、私が断罪する側よ)
指先に残るのは、綴じ糸の麻の匂いと、祖母の草の記憶。
暁はすぐそこだ。西門が呼んでいる。
第1章をお読みいただきありがとうございます。
いきなり断罪と追放という衝撃的な場面から物語を始めました。
婚約者に裏切られ、王都から追放されたリシェル。ですが彼女はただの追放令嬢ではありません。
辺境に残された祖母の知識と、自らの誇りを武器に、ここから新しい物語が始まります。
次章からはいよいよ辺境への旅立ち。冷徹な辺境伯グレイと共に、リシェルの「逆転の物語」が動き出します。
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