② 喧嘩の翌朝 ― すれ違いと、ほんの一言
冬の朝。本部の廊下には、冷たい空気がわずかに残っていた。足音と書類をめくる音だけが響く中、紫乃はいつもより早く部屋を出て、朱音と顔を合わせないようにしていた。
──昨夜のことが、頭から離れない。
些細なすれ違いだった。任務中、紫乃が単独で動いたことに朱音が強く怒り、思わず感情的な言葉を投げてしまった。
「無茶すんなって言ってんだろ! お前、死にたいのかよ……!」
その声が、まだ胸に残っている。
紫乃は壁際を歩きながら、小さく溜息を吐いた。
(……朱音先輩の言い方、きつかったなぁ。でも……あれはきっと……心配してくれたんだよね)
手にしていた書類を握る指が、少しだけ強張った。
ちょうどそのとき──曲がり角の向こうから、足音が聞こえた。
視線を上げると、そこには朱音の姿。
一瞬、お互いに立ち止まる。朱音も、紫乃も、わずかに目を逸らす。
(……気まずい)
紫乃が歩き去ろうとしたその瞬間、朱音が低く声をかけた。
「……紫乃」
足が止まる。紫乃は振り返らず、少し肩をすくめたまま、じっと立っていた。
「昨日のこと……悪かった。あんなふうに怒鳴るつもりじゃなかった。……でも、あのときのお前の顔見て、俺──」
言い淀む朱音。しばし沈黙が流れたあと、彼は不器用に言葉を繋いだ。
「……俺、お前のこと怒ると、心配しすぎて言いすぎる。……悪い」
紫乃はようやく振り返り、少しだけ困ったように笑った。
「……怒ってくれて当然ですよね。朱音先輩が、私の無事をちゃんと願ってくれるって、わかってますから」
朱音の目が、ふっと和らいだ。
「……お前ってさ、本当、強ぇよな」
「そんなことないですって。ただ……朱音先輩の言ってる事、ちゃんとわかってるから」
短いやりとりだった。でも、言葉の奥には、確かな想いがあった。
廊下を吹き抜ける風が、二人の間をそっとなでて通り過ぎる。
朱音がふと口角を上げて言った。
「じゃあ、次はお前が俺の心配してくれる番な。……任務中でも、隣にいてくれると安心すんだよ」
紫乃は、ほんの少し頬を染めながら頷いた。
「……はい。ちゃんと、隣にいますから」
廊下の冷たさとは裏腹に、二人の距離はまたひとつ、近づいていた。