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【>>短編置き場<<】

やわらかなもの

作者: 滝岡尚素

 ここは使われなくなって久しい美術部の旧部室で、この高校でも存在を知る者は少ない。

「いいでしょ、ここ」

 (のぞむ)の冗談めかした声がした。油絵の具の匂いが辺りを漂っている。

 夏が近い、夕方でも自然光で十分に明るかった。

「じゃ、始めてもいいかな」

 望が訊いた。問われた愛香(あいか)は少し当惑した面持ちで頷く。

「そこに座ってね」

 傍にあった丸椅子に腰を落ち着けた。

 望は提げていた通学用のリュックから大事そうに一回りほど小さくて四角い鞄を取り出した。脇の長机に置いて、周りについているファスナーをぐるりと外す。鞄の蓋が開くと油絵の具の匂いに、仄かな花の香りが混ざった。

「いい匂い」

 大小さまざまなブラシや、ペンシル。ビューラーにパフがポーチの中で立てられたり寝かされたりして整然と並んでいる。ファンデーションや口紅、チークなども別のスロットに入っていて、それらが甘く香っている。

「はい、これ」

 ヘアピンを渡された愛香はちょっとためらったあと前髪を掻き分け、ゆっくりと額まで出した。丸っこくて、どこか愛嬌があった。

 望はパフにファンデーションをつけて彼女の前に屈み込む。滑らかな動作で額に当てた。愛香の皮膚の上に薄い膜が張られていく。別人に生まれ変わるような、説明の出来ないきらきらした予感を持った。

「あ、目は閉じてていいよ」

 こんな間近に異性を寄せ付けたことなどない愛香はとっくに限界で、言われるまでもなく目を閉じてかけいた。

「それから、眉間の皺は我慢して」

 出来るだけリラックスしてね、と作業の手を止めることなく彼が言った。ああ、何でこんなこと引き受けたんだ。馬鹿だ、私。後悔している間にも手際よく望は作業を続ける。

 とにかく早く終われ、愛香は強く念じた。


 一時間前。

 教室に忘れ物をしたことに気付き、渋々ながら引き返す。せっかく一階まで行ったのにまた四階まで戻らなくてはならないとは。とは言え家の鍵を忘れたのではどうしようもなかった。

 階段を幾つも上って西側の廊下の突き当たり、がらりと教室の引き戸を開けた。夕日の射し込む窓側の隅に男の子がいて愛香と目が合った。教室には彼一人だった。彼は愛香のたてた音に驚いて振り返って、反動で手の中にあったものを勢い良く取り落とした。乾いた音が教室の床を叩き、そのまま慣性に従って滑り、入口にいた愛香の、スリッパの爪先で止まった。黒くて小さな四角い物体だ。

 愛香は屈む。

 拾おうとした指先が見えないくらい微かに震えた。

 それは口紅だった。蓋の部分が浮き上がり、中から鮮やかな赤色が控え目に覗いていた。

 慌てて立ち上がった男の子は愛香に近寄ってそれを拾った。低い位置で互いの目が合う。その口紅どうするの、と訊こうか迷って、やめた。愛香は無言で立ち上がって自分の席まで歩き、机の中から家の鍵を取り出す。見ると、男の子はまだ、愛香に背を向けてしゃがんだままだった。クラスメートに口紅を見られたのがショックだったのか。

 こんな時、何て言うのが正解なんだ。愛香には分からない。いや、きっと何でもない。このまま見なかったことにして教室を出ようと歩き出す。

 すれ違いざま、背中に声が飛んだ。

「あー、見た、よね」

 愛香は恐る恐る振り返ってぼやけた笑みを返した。

「うん、見たよ。まあ、嫌でも目に入ったって言うか」

 男の子はぱちんと口紅の蓋を閉じ、立ち上がったかと思うとつかつかと愛香に身体を寄せた。

「な、なに?」

矢倉(やくら)さん。僕、ずっと君のことが気になってたんだよ」

「は?」

「これを見られたのはむしろラッキーだった。お願いがあるんだ」

 愛香は戸惑う。名前も覚えていないクラスメートがいきなり何を言い出したんだ。

「君にメイクをさせて欲しい」

「メイク? 化粧のこと?」

 夕暮れ時、カーテンも引かれていない教室の窓。陽光は既にオレンジ色で、男の子を眩しく照らした。

「えーと、まず名前を教えて欲しい」

 愛香は多少引きながら言った。

「あと、何でメイク? 何で私?」

 畳み掛けた質問に男の子はにこりと笑って答える。

「僕、田無(たなし)望。プロのメイクになるのが目標で、君の顔で練習したいから」

 愛香は改めて望を見た。気になってたのは私の顔立ちか。

「で、どうかな」

「どう、って言われても」

 お願い、と望は愛香の鼻先で手を合わせ拝む仕草をした。

 正直、別にどっちでもいい。メイクには関心がないし、目の前の男の子が自分にとって害になるとも思えない。どうせ、化粧なんて私には意味のないことだ。

 まあ、こんなに頼んでるんだから、一回くらいいいか。

 気まぐれだ。いつもは踏んで帰る横断歩道の白い横線を今日は何となく避けて通るとかその程度の。真剣に頼む望の顔が可笑しいのも手伝った。

「ま、いいよ減るもんじゃなし」

「ほんと? ありがとう!」

 でも、どこでやるの、と訊いた。教室(ここ)では気が引けた。知り合いに会わないとも限らない。

「それは任せて、良いところがあるから」

 望はいそいそと身支度を済ませる。

「じゃ、行こ。宜しくお願いします、矢倉さん」


 出来たよ、と言われた愛香は息を吐いて目を開けた。辺りはさっきより薄暗くなっていた。

 まず、達成感に満ちた望の顔が見えた。彼の手には大きめの四角い板があった。開けた蓋をひっくり返して使うタイプの鏡だ。まだ蓋は開いていない。愛香は胸を撫で下ろす。

「僕としては良くできたと思う。やっぱり矢倉さん、輪郭とパーツの配置がいいね。メイクのしがいがあった」

 既にプロのようなことを言って、望は鏡を開こうとする。

「待って、それ鏡? 貸して、自分で見るから」

 望から鏡を受け取る。愛香はその、鏡という道具をしげしげと眺めた。どうしたの、開け方、分からないの? 言われ、どうにか蓋を開け、鏡面を露出させることに成功する。鏡を自分に向け、一瞬見て、ふっと鼻から息を抜いた。

 それが嘲笑に見えたのか。

「え? 気に入らなかった?」

「ううん。そんなことないよ」

 鏡を返した。受け取った望の顔は不安げだ。自分のメイクの技術が及ばなかったのかと、彼女の満足いく出来ではなかったのかと。

「もう一回やらせてよ、次はもっと上手くやるから」

「あー、うん」

 愛香は床に置いてあった鞄を手に立ち上がる。

「私、帰るね」

「じゃ、じゃあせめて写真撮らせて」

 望は机に置いてあったスマホを手に取ると構え、愛香が制する間もなくシャッターを切った。記録された画像を見た望が驚愕の声を上げた。ああもう、何で写真なんて撮るのよ。愛香は前髪のヘアピンを外し、ため息混じりに頭を掻いた。

「な、何で?」

 望はスマホの画面を愛香に向けた。

「うん、大丈夫。それで合ってるよ」

 そんなこと言ったって、と望は画面と愛香を交互に見比べる。現実の世界では愛香はそこに、望の前に立っている。画面の中、シャッターで切り取ったはずの愛香の姿はその中にはなかった。消しゴムで消したように、いるはずの部分には彼女の背後の景色が違和感なく撮されていた。

「もうこうなったら仕方がないから言うけどさ。私ね映らないんだよ、鏡とか、スマホとか、窓ガラスとか、姿を映す全てのものに」

「そ、そんなことってあるの」

 あるんだよ、世の中広いんだからさ、と愛香は微笑んだ。実際に目にしたのでは望も信じるしかない。

「だからね、私は自分の顔を知らない。ごめんね、メイクの感想は言わないんじゃなく、言えないんだ」

 そっか、そうなんだね、と望は先ほどの驚きから立ち直ろうとでもするようにスマホの画面を消し、勢い良くズボンのポケットに突っ込んだ。

「ごめん、そんなこと知らなくて」

 愛香はちょっと笑う。知らなくて当然だ。良い人なんだろうな、と思った。でも、私とは相性が悪いよ。だって、メイクされてもその凄さが、美しさが分からないんだから。

「気にしないで」

 望の顔も見ずに部屋を出た。目の前、廊下の窓、本来なら映るはずの姿。もうすっかり慣れたとは言え、今日は辛かった。

 何で私、映らないの。

 俯いて、廊下を歩き出した。


 子供の頃、と言っても愛香の記憶にはない。母親によれば二つか、三つだった。愛香は大怪我をした。遊びに行った先の公園で滑って顔面を強打した。額が切れ、盛大に出血した。幸いにもすぐに病院で処置が受けられたために大事には至らなかったものの、彼女の額には目立たない程度ではあるが傷跡が残った。医者は女の子だからと最大限気を遣って縫ったのだが、どうしようもない部分は残った。

「やだ、見ないで」

 と、その頃の愛香は口癖も同然にしていたのだと言う。包帯が取れた後も、愛香はしきりに傷を気にした。前髪を下ろせば外からは怪我のことなど分からなくなると母親が教えた後も愛香は言い続けた。やだ、見ないで、と。

 それから暫くして母親が気付いた。我が子が写真や鏡はおろか、窓ガラスにすら映らなくなっていることに。沢山の医者に診せたが原因は分からず、治療法も見つからなかった。

「でも、うん、別に困らない」

 救いだったのは愛香があまり深刻にならない性格に育ったことだ。実際、愛香は今に至るまで困っていなかった。毎日の身だしなみは母親にやってもらえば事足りた。小中の卒業アルバムなどでは写らないことでちょっとへこんだりもしたが、別にそれで思い出まで消えたりしない。

 でも、時々思う。

 人が過去を振り返る時、必要なのは思い出すための触媒となる当時の具体的な情報で、多くの場合それは写真だったり動画だったりする。愛香はその中にはいない。それはつまり、友達や知り合いの思い出から見れば、私はいなかったのと同じで、ちょっと悲しいよな、と。


「ええ? 家? 何で」

 ある日の放課後、愛香は学校を出る直前に望に呼び止められた。てっきりもう自分には興味をなくしたと思っていたので意外だった。

「うん。ウチに来てよ」

「だから、何で私が田無君の家に行かなきゃならないの?」

「ああ、悪い。うちね、母親がプロのメイクなんだけどさ、こんど僕のメイクを見てくれることになったんだ」

 ああ、そう言うことか、愛香はやっと理解する。

「それで、私にモデルを?」

 望は頷く。愛香は当惑する。

「うーん。それはさ、別に私じゃなくても良くない?」

 望は歩き出し校門を出る。愛香はやむなく着いて行く。衣替えが終わって、二人とも白のシャツ。夏はすぐそこだ。どこか遠くで蝉の声が聞こえた気がした。

「ほら、私、映らないし。田無君だって感想が聞きたいでしょ? 私には無理なんで、誰か他の人を当たってよ」

 愛香にしてみれば親切心だ。メイクを施された人が感想を言えないなんて、こんなに張り合いのないこともない。

「まあそうかもね」

 言ったきり望は無言になって歩いた。やがて愛香は右へ曲がろうとし、望は直進する。彼は足を止め、愛香の顔をじっと見た。

「考えといて。返事はまた、学校で聞かせて」

 彼は軽く手を振り歩みを再開し、愛香の視界から消えた。ふっと息をつく。メイクをされるのは別に嫌じゃない。ただ、その結果を確認できない自分がもどかしいのだ。


 日曜日。愛香は望の家を訪ねていた。

「いらっしゃい、矢倉さん」

 玄関で出迎えたのは望の母親だった。今、あいつ向こうで準備してるから、と奥の部屋を指した。

 自分なりに勇気を出した結果だ。うじうじと悩むのはそもそも性に合わない。

「ここはね、自宅兼スタジオなのよ」

 愛香に上がるように促す。

 プロのメイクアップアーティストだという田無すばるは、短くした黒髪の下で微笑む。大きな紅茶色の瞳が魅力的な、望によく似たすっきりした顔立ちだ。愛香は緊張しながら玄関を上がり、廊下をすばるの後をついて歩いた。どこかよそよそしい、嗅ぎ慣れない他人の家の匂い。

 廊下の突き当たり、すばるはハンドルを掴んで引き戸を引いた。ふわりと、今までとは違うまろやかな香りが愛香の鼻腔に触れた。思わず何度か吸い込む。いい匂いでしょ、焙じ茶の香りなのよ。すばるが振り返って教えた。

「ようこそ」

 望が奥のカウンターのような場所に座っていた。大きめの声を出す。

「矢倉さん、今日はありがとうね」

「いいよ。気にしないで」

 入口から少し進むと化粧出来るブースがあった。ドレッサーの前に座り心地の良さそうな丸い椅子が置いてある。そこに掛けて、と言うので鏡に向き合って座ろうとすると、

「向き、反対で」

 そうか、鏡に向いたら田無君がメイクできないよね。愛香は鏡に背を向け腰を下ろす。様子を見ていたすばるがちょっと声を上げた。驚いた、本当に映らないのね、事実を確認する呟きだった。

「驚きますよね、普通」

「うん。びっくりした」

 すばるは目を丸くしている。明るくてとても正直な人。好感を持つ。

「不都合はないの?」

「意外と大丈夫です。あ、でも今後、免許とかマイナンバーカードとかで困るかもしれないですけど」

 望が立ち上がり、こちらに来るのが見えた。メイク道具を入れた鞄を肩から提げている。

「お待たせしました。始めます」

 学校で見るよりも硬い顔つきだった。母親でもあり、メイクの師匠でもあるすばるの前で愛香に化粧を施すことは、彼にとって試験を受ける気分なのかもしれない。

 その辺にあったカートを押してきてメイク道具の入った鞄をのせる。開き、ブラシやファンデーションなどを取り出した。愛香の前に立って中腰になる。

「じゃ、始めて良い?」

 愛香は持参したヘアバンドで前髪を上げ、望に顔を差し出した。すばるは数歩引いて、二人の横からその様子を眺める。心なしか望を見る目が母親のそれではなくなっている。


 私の顔はどうなっているんだろう。

 鏡で確認することが出来れば、こんなにどきどきしないのかな。

 肌の上をパフやブラシが撫でていくのは分かる。きっと、筆が行ったり来たりする度に私の顔は変わっていき、ある意味では別人になっていく。

 焙じ茶の匂いが薄くなっていた。代わりに、化粧品が放つ甘やかな匂いが愛香の嗅覚に運ばれてくる。

 映らない愛香にとって、化粧はいい匂いを身に纏うことだ。普通の人とはちょっと違うがこう言うのも悪くないと思えた。

 唇に細く滑らかな筆が当たる。縁を正確になぞり、愛香の唇を華やかに彩っていく。

「──終わりました」

 愛香は目を開けた。上体だけ振り返る。ささやかな期待を込めて鏡を見た。虚しく笑いを漏らした。

「愛香さん、よく見せて」

 すばるが息子の隣で同じく中腰になって愛香を見上げた。彼女は目を細めて望の作品を眺める。愛香はどうして良いか分からず、背筋を伸ばして膝の上に軽く両手を置いた。

「どうですか」

 生徒が先生に訊いた。

「正直、良くないところはあるわよ。沢山」

 望は悔しそうな顔をする。あなたは良くも悪くも自信がありすぎね、と母親は笑った。

「でもね、愛香さんが輝いてる。細かな部分なんて気にならないくらい」

 愛香はくっと下唇を噛んだ。同時にどきどきした。私は輝いているらしいのに、どうしてそれを確認できないんだ。田無君がお母さんに誉められたことは嬉しかった。

 すばるがスマホを構えシャッターを切る。画像を確かめると、ただの鏡が写っていた。

「何してるんだよ、矢倉さんに失礼だろ」

「ごめんなさいね、矢倉さん。でも、あなたをどうしても撮りたくなったの。とっても素敵だったから」

 そんなことを言われたのは初めてだった。

「母さん、いい加減にしろよ」

「大丈夫だよ田無君、私、嬉しいよ」

 例え写らないとしても私を撮りたくなっただなんて、嬉しくない訳がない。

 化粧が崩れるから涙は我慢した。

「いつでもいらっしゃい。今度はちゃんとしたスタジオで撮ってあげる」

 すばるの言葉に愛香は頷いた。


「あら──?」

 夕方に愛香が帰宅すると、リビングから顔だけ出した母親が怪訝な顔をした。どうしたんだ、と愛香は見つめ返しすぐにはっとする。しまった、化粧を落としていない。

「愛香。それ、メイク?」

「う、うん。友達がやってくれてさ」

 すぐに落とすね、廊下を歩いて洗面台に向かおうとして母親に呼び止められた。

 普段、登校するときは母親に身だしなみを整えてもらっている。自分以外の誰かが愛香にメイクを施したことが、母親には新鮮だったに違いない。娘の顔をしげしげと眺める。

「友達……にしてはえらい本格的ねぇ」

 彼女は一人呟く。

「でも、あなたにとてもよく似合ってる。さすが我が娘。メイクでこんなにも可愛くなるのね」

 ありがとう、落としてくるよ。愛香は母親からするりと離れて洗面台に向かった。

 鏡に映らない愛香は洗顔も面倒だ。当てずっぽうで洗い、最終的には母親を呼んで上手く落とせているか確認する必要があった。

 母親は娘の顔をじっくり眺めて仔細に点検する。ややあって、大丈夫、素顔に戻ったわよ、と教えた。

「こんな風に化粧落ちを確認するなんて新鮮。ねえ愛香。子供の頃の話、覚えてる?」

「うん。やだ、見ないで、って奴でしょ」

 愛香が返すと母親は隣に立って鏡に映った自分の姿を、洗面台の縁に両手をつき、覗き込むように見た。くっきりと映る母親の姿。

「お母さんね、長いあいだ勘違いしてたんだけど、あれ、『傷は見ないで』、ってことだったのよね。『私を見ないで』ってことじゃなくて」

 言われても愛香には記憶がない。それに、傷だろうが自分自身だろうが、意味はそれほど変わらないのではないか、どのみち見られたくないことに変わりはない。愛香がそのことを母に告げると、全然違うわよ、と返ってくる。

「愛香は傷を見られたくなかっただけで、愛香そのものを言ったんじゃない。似てるけど違う話よ」

 確かに違うのかもしれない。

「でも、あなたのお願いは間違って届いたのかもね……」

「誰に?」

 そりゃ、神様的な何かよ、と母親は言った。


 私は傷が嫌だった。見られると誰も彼もが心配して、私が、まるで可哀想な生き物でもあるかのように憐れんだ顔をしたから。それが嫌だった。それを引き起こす傷が憎かった。

 私はただ、傷を見られたくなかっただけだ。

 私はただ、傷を、傷だけを。


 目が覚める。真夜中、クーラーの動く音だけが耳を打った。唇に触れる。昼間の、望の操る筆の触れた部分が少し熱を持っている気がした。彼の顔を思い出す。自分で作り上げた私の顔を満足げに眺めていた。彼をあんなに笑顔に出来る私はどんな顔なんだろう。見てみたい、確かめたい。

 愛香は目を閉じ、シーツの中で呟いた。

 神様、私は傷が見られたくなかっただけなんです。私自身を見られたくなかった訳じゃないんです。どうか、お願いします──。

 語尾は眠りに溶けた。


 次に愛香が望の家を訪れたのは半月後だった。前の日、電話でもういちど写真を撮ってくれませんか、とお願いすると、すばるは快く引き受けた。

「お、お邪魔します」

 前回とは別の部屋に案内された。素人の愛香が見てもここが撮影用のスタジオだと分かる。暗めの照明と本格的な撮影機材。すばるは一眼のデジタルカメラを首から提げていた。

 愛香は、軽い気持ちですばるに頼んだことを後悔する。

「あの、どうせ写らないんで、こんなにしてもらうのは申し訳ないです」

「大丈夫よ、あたしが好きでやるだけだから」

 むしろプロのカメラマンじゃなくてごめんね、すばるは撮影ブースに佇む我が子にカメラを向けてシャッターを切る。テスト撮影なのだろう。

「気にしなくていいって、母さんの趣味みたいなもんだから」

 もういい? と望は撮影ブースを出て、スタジオの隅に設けたメイク用のコーナーに移動する。

「田無君はどうしてメイクの仕事をしたいの」

 彼の前に座る。もう三度目だ。慣れた手つきで愛香は額を出した。望はいつもと同じ手順でまずは下地を塗る準備をする。

「母親がやってる、ってのがまあ大きいけど、それだけじゃないよ」

 愛香は目を閉じる。パフが頬に触れた。今日はひんやりしていた。

「母さんは顔にダメージを受けた人にメイクの指導もしてるんだよ。化粧品を駆使して、傷を見えなくするんだ」

 どきりとした。額の傷を望が偶然に見て、気に掛けるようになったというのは有り得る話かもしれない。

「なら、私の傷も綺麗に消してね」

「ん? 何のこと」

 とぼけたのか()なのか声音では分からなかった。

「母さんはメイクで人の心も修復してると思う」

 テレビで見たことがある。不幸にも消えない傷が顔に残った人が、メイクによって見た目を改善し、前向きになるドキュメンタリーだった。

「僕もそうなれればいい」

 つきあいは短くても、愛香には望がそんな人間だと素直に思えた。メイク道具を介して、望の繊細な指使いやこちらを気遣う細かな筆の動きが彼の人柄を伝える気がした。

「私、田無君ならきっと優しいメイクさんになれる気がする」

「そっか、だといいな」

 薄く目を開けた。はにかんだ望のたおやかな微笑みと目が合った。見つめられ、恥ずかしくなって愛香はまた目を閉じた。

 望が眉毛を描き始める。ぽつりと言った。

「矢倉さんが写真に写らなくても、僕は矢倉さんの顔を忘れない。母さんもそうだと思う」

 ずっと、愛香は疑問に思っていた。写真に写りもしない私は誰の記憶にも思い出にも残らぬ幽霊のような存在なのではないか、ひっそりと消えていくしかないのではないか、と。半ば諦めていた。でもたった今、私のことを覚えてくれる人が出来た。

 涙で瞳が溺れそうになる。望は何も言わず、コットンでそっと押さえた。

「ありがとう、田無君」

「どう致しまして──さ、終わったよ」


「にっこり笑ってね」

 すばるがカメラを構える。愛香はTシャツにデニムというシンプルな服装でその前に立っていた。次はクールな感じで。お、いいね、今度は腕組みしてみて──すばるから次々に指示が飛ぶ。そのたびにシャッターが切られた。ふとすばるが思い付いたように言った。

「ノゾ、横に並んでみて」

 え、俺? いいから、早く。カメラマンの息子は頬を人差し指で掻きながら照れくさそうに愛香の隣に立った。

「もうちょい寄んなさい、ほら」

 どちらからともなく二人は笑みを交わした。肩をそびやかし、どうにも居心地悪そうに。

「うん、いいね」

 シャッターが切られるのを見て、愛香は心の中で祈った。神様、二人に会わせてくれたのは感謝します。あの、この前も言ったけど勘違いなんです。お願い、この写真に、私を写して。

 ぱしゃり、とひときわ大きなシャッター音。すばるが息を呑むのが見えた。

「どうしたの、母さん」

 二人を手招く。デジカメの小さなモニターを差し向ける。

 ぎこちない雰囲気を漂わせた望と愛香がそこに佇んでいた。


 放課後、例の部屋で望と愛香は向かい合って座っている。この部屋にはクーラーもあって涼しい。

「ほんとだ。ここに傷がある」

「でしょ? 殆ど目立たないけどね」

 望はファンデーションで丁寧に傷を隠す。

「残念だったね、あれ」

 あれ、と言うのは先日の出来事だ。愛香の姿は写ってはいたが、まるで影のように朧気で、表情やメイクまでは判別できなかった。

 あの写真はプリントアウトしてもらって、今日も鞄に入れてある。

「あーあ、田無君がやってくれたメイクを確認出来たらなぁ。きっと凄いんだろうな」

「矢倉さんってそんなに変わらないよ。僕は君の良いところをメイクで更に良くしてるだけ、っていうか」

 望は眉毛用の筆を手に取る。

「僕ね、決めたことがあるんだ。矢倉さんが鏡に映らない、って聞いた日に」

 目を閉じた愛香の顔にひた、と筆先が触れる。少しだけ力が入っていた。

「いつかきっと、思わず鏡に映したくなる(・・・・・・)ようなメイクを君にしてみせる、って」

「映したくなる? 誰が」

 望は顎に手を遣って少し考え、ぴんと来たように口を開いた。

「そりゃ、やっぱり神様かな」

 愛香は咄嗟に顔を逸らす。どうして、この人はメイクの度にこちらを泣かそうとするのか。涙を押しとどめるも虚しく失敗する。

「ありがとう、田無君」

 あの日、勇気を出して良かった。

 瞳から涙が落ちる。

「わ、ごめん」

 望は手に取ったコットンで目尻を押さえる。慌てていたはずなのに決して乱暴でなく、肌を荒らさない絶妙な力加減だった。

 何て柔らかなの、と愛香は思った。

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