プロローグ① 旅立ちは海風と共に
人生は一度きりであり、時計の針は遡らない。屈強な男でも過去は変えられず、聡明な女でも未来は見えない。ならば努めてクールに、そして情熱を持って今を生きる他ない。
「はじまるぜ、俺の物語がああっ!!!」
俺の叫びは海の彼方に聞こえていった。堤防に打ち寄せる波とウミネコの鳴き声がそれに応える。
「何言ってんだいこのバカ息子は」
背中で呆れた声。振り返ると母ちゃんが軽蔑するような目で俺のことを見つめていた。うぐぐ、それが親のする顔か。
「わかってるよ、テンションが上がってるだけだって! しょうがないだろ?」
「これ以上心配させないでちょうだい」
母ちゃんの冷たい目線も意に返さず俺は答える。満面の笑みで。
「だってよ、母ちゃん。俺はようやく、ようやく本土に行けるんだぜ! 俺の才能が眩しくて見てられないほど輝く場所だ」
海果島。九州西部に位置する小さな島だ。海果島の人口はたったの200人ほど。海果小中学校の全校生徒はわずかに11人。すれ違う人は全員知り合いの超閉鎖空間だ。
「アンタよりすごい奴なんてゴロゴロいるさ。せいぜいその鼻っ柱折られも、昔みたいに泣きついてくるんじゃないよ」
母ちゃんがそう言う。東京育ちの母ちゃんは旅行先で出会った父ちゃんに心を奪われてこの島にやってきた言わばソトの人間だ。その言葉には少なからず説得力がある。
「体には気をつけなさいな。何かあったらちゃんと連絡しなさいよ」
気の強い母ちゃんの声が震える。10年前に父ちゃんの船が波に攫われ、それから女で一つで俺を育ててくれた母ちゃん。思わず鼻の奥が熱くなったが、それを悟られないように目線を逸らし、大きく手を振った。
「じゃあみんな、行ってきまーす!!」
「気をつけろよー!」
「お盆と正月には必ず帰ってきなさいな」
「悪い女に騙されんなよ!」
「達者でなー!」
母ちゃんの後ろには大勢の村人達が集まっていた。島から人が出る時はこうして村人総出で見送りに来るのが恒例だ。
2年前、近所のアキトにいちゃんの時もこうして送り出したんだっけ。いつかは自分がこっち側に来るとは思ってたが、なかなか感慨深いものだ。
「ヤマト!」
村人達の中から一際甲高い声が聞こえてきた。見ればシナノが駆け寄ってくる。
シナノは俺の一歳年下の少女だ。身長は小さいので、大きな瞳で俺を見上げている。笑うと片方だけエクボができるのがチャームポイントだが、今日は影も見えない。
しん、と島中が静まり返ったようだ。打ち寄せる波ですらも、気を遣って鳴りを潜めたかのように思えた。
「なんだよ、泣いてるのか?」
「バカ!」
軽くからかったつもりだが、シナノは顔を覆って泣き出してしまった。ちらっと目線を上げると母ちゃんと村人の責めるような目。ううっ、なんて言えばよかったんだよ。
仕方なく俺はシナノが落ち着くまで背中をさすってあげることにした。
俺にとってシナノは特別な存在だった。数少ない年の近い子供。それは島の子供達全員が当てはまるのかもしれないが、俺はその中でもシナノのことを特別に思っている。たぶん、シナノも俺のことをそう思っている。
もちろん家族ぐるみの付き合いで、今みたいに村人達は俺達を生暖かい目で見守ってきてくれた。それが煩わしいと思った時期もあったが、シナノと距離を置こうとも思わなかった。
告白したわけでも将来を約束したわけでもないが、おそらくシナノとはこれからも一緒なんだろう。ようやく落ち着いたシナノにそんなに泣かれるとうっかり船を逃しちまう、とジョークを飛ばす。シナノはようやく片エクボを見せてくれた。
「……さみしい」
「夢のためだよ。応援してくれるんだろ?」
こくりと頷くシナノ。もう出航まで時間はない。
俺のこの島のために島を出る。本当は父ちゃんの仕事だった漁師を継ぐべきかもしれないが、年々人口が減っているこの島の将来が暗いことは誰の目にも明らかだった。
2年前、県の役人が大規模移住計画案を持って村長の家を訪ね、追い返されていた。あっけなく役人は引いたが、おそらく10年後20年後に本気で計画を通すための伏線なのだろう。
「俺の絵の上手さは知ってるだろ? 必ずプロの画家か漫画家かイラストレーターになるから」
「もう、ふわふわしすぎ!」
「あははは!」
自分で言うのも変な話だが、俺は絵が上手い。勉強も運動も平凡な俺だが、そこだけは誇れる。だったらそれを生かしてこの島を盛り上げるしかない。
それこそが俺の夢だ。
「来年、追いかけるから」
「ああ、待ってるよ」
時間を告げる船の汽笛。俺は最後の挨拶を済ませる。
見送りに来た村人達に。村人達は大きく歓声を上げた。
涙を流す母ちゃんに。久しぶりにハグをした。
海を見る。父ちゃん、行ってくるよ。
そしてシナノ…………の唇に。釣り上げられた魚のようにほおけた顔。
俺はスーツケースを担ぎ、逃げるように島を去った。今、俺の物語が始まる!
船がゆっくりと出航した。クールな俺は振り返らない。聞こえてくるのは村人の歓声と笑い声、シナノの父ちゃんの罵詈雑言、打ち寄せる波の音、母の別れを惜しむ声、うみねこの鳴き声。
そしてシナノの悲鳴まじりの言葉。
「馬鹿っ!!! こんなところでっ!! はじめてなのに! 馬鹿ヤマト!」
こうして俺の物語が動き出した。