1.逃亡
初投稿です。不慣れなのでゆるりと見守っていただけると幸いです。
──ああ。ついにその日が来てしまった。
あの人は優しく微笑んでくれていた。
あの人は暖かい眼差しで私を見守ってくれていた。
あの人は私が振り返るといつも目を細めて嬉しそうにしていた。
あの人は甘い瞳でいつも私を魅惑した。
あの人は…………
あの人は今、苦しくも苦々しい目で私を睨んでいる。
『ゲームの悪役令嬢』に転生したと気づいてから、自分の行いのすべてを改善した。
物語の強制力もあり、完全に役回りから逃げることは叶わなかったが、それでも周囲の態度は数年かけて変わっていっていた。
王子の態度もゲームとは全く異なり、とてもやさしくされた。
この世界の愛情表現は乙女ゲーだけにとてもストレートで、前世で異性から優しくされることなどなかった私は、二重三重にもかけた心の鍵をぐいぐいと解かれていった。
大事にされていることを最早疑いもしなくなっていた。
だから物語のように婚約破棄イベントは起こらない、断罪も怒らない。
そう信じていた。いや、そう思い込もうとしていただけかもしれない。
王子とヒロインが出会っても、王子の態度は変わらなかったから。
幸せの中で怠惰にそう思い込もうとしていただけなのかもしれない。
「アマリア。君との婚約は破棄する」
それは物語の通りに、静かに、告げられた。
「セラフィナへの傷害容疑そのほか余罪については追って沙汰する。それまで家で謹慎するように」
言い終わると、王子は私に興味を失くしたかのようにすっと無表情になった。いや、実際もう興味はないのだろう。断罪を待つだけの悪役令嬢には。
だが私は知っている。これで終わりではない。
ゲームにおける悪役令嬢自体の行動ルートは2つあり、どちらになるかはランダムに発生する。曰く、王子一筋ルートと、逆ハー狙いルートだ。これによりヒロインのルート選択や難易度、さらにはラストまでが変わってくる。
すべてのスチルを回収するために、周回も後半になってくるとこの悪役令嬢のルート確定時に何度もリセットせざる得なくなり苦しめられるユーザのなんと多かったことか。
それは、懐かしい記憶であり、そして最早どうでもよい話だ。命がかかっている今となっては。
私は、この物語での私の人生は、ゲームで言うところの間違いなく王子一筋ルートだった。であればこの後の断罪は……死罪、のみ。
ぶるっと悪寒が体を駆け抜ける。それを、ぴっと背筋を伸ばして払った。
まだだ、まだ終わらせはしない。
王子とのことはこれで終わり。これは変えようがないけども、私は私の人生を諦めないと決めたのだから。
「承知いたしました。王子も末永くご健勝であらせられますよう」
カーテシーをやりかけて軽めに終わらせる。何か違うという違和感があったのだ。
王子に、物語の強制力が働いたのか、単に心境の変化があったのかは分からない。
とはいえ、これまで王子との間にあった心のつながりを否定したくはなかった。それほどまでに王子を信じようと決めていた。結局、私は強制力との闘いに負けたのだ。ヒロインが現れなければと思わないでもないが、きっと関係ない。これはそういう物語なのだ。
そう思うと王子を恨む気持ちは湧かなかった。
むしろ、なんだろうこの気持ちは。暖かい、気持ち。
……感謝、かな。とてもとても大切にしてもらえて、私は幸せだったのだ。
ただただ、王子へ、この感謝の想いを伝えたかった。
私はウエストの下あたりで手を重ね、ゆっくりと、深く、深く、お辞儀をした。
「クラウス様と過ごした時間、とても幸せでした」
声にもならない、ほんのつぶやき。
お辞儀しか見えていない王子には届かない想い。
私は上体を起こすと、すぐにこの場を辞した。
これでいい。
これでもう忘れよう。
私は、私を捨てたすべてを捨てて、これから生きていくのだから。
入口への続く回廊まで歩くと、私は走った。
馬車が遠い。こんなに早く出てくるとは思っていなかったのだろう。馬車は待機しているはずもなく少し離れた待機場所まで探しに行く必要があった。
「いないぞ!」
「馬車だ!馬車の方へいったぞ!」
「!?」
ふいに背にした建物の方から怒声が響く。
追手!?なぜ……
家で待機というのは建前で、もう捕らえて殺してしまおうというのだろうか。
背後に迫る気配を感じて、迷路のような庭園へ入り、植え込みに身を隠す。
三日月が微かに庭園を照らす。
今日のドレスは落ち着いたトーンの薄紫色のドレスで、庭園の花とは相性が良い。
心臓がバクバクしている。気配をなるべく殺すためにゆっくりと息を吸った。
まもなく、追手はあっけないほどにあっさりと通り過ぎて行った。
馬車の方へ行くのは絶望的だ。徒歩ではもう家へ戻ることも難しいだろう。
せめて、この物語に転生したと分かった時から準備していた旅支度の入ったトランクを回収できれば良かったのに……
あまりに急な展開に臍を噛む。
周囲の態度に油断していた自分も自分だが、本来、ゲームでの断罪イベントはこのタイミングではなかった。先日の夜会ではなんの気配もなくて、誰がこんな何のイベントもないような日にひっそりと婚約破棄が行われると思うだろうか。
断罪と婚約破棄は大勢の目の前でやるのがセオリーじゃなかったの?!
思わず現実逃避ぎみにこのシナリオを考えた誰かに文句を垂れるが、今は考えていても仕方がない。
私は気持ちを切り替えると、このまま庭園を抜けて森へ逃げることにした。
何の準備もなく森を抜けるのはかなり厳しいが死罪確定よりマシと思うことにする。うまく森を抜けられれば小さな集落がいくつかあり、さらに行くと隣国へ出られるはずだ。
庭園をダッシュで走り抜けていく。
追手が馬車を確認している今しかない。まだ後方から騒ぎは聞こえない。アマリアが馬車にいないとはまだバレていないようだ。
庭園の端は巨大な生垣で構成されていて、人が通れるようなところはないかに見えた。
だがアマリアは髪の毛を手早くまとめてから地面に這いつくばると生垣の木と木の間を無理やり前進した。
くっ。さすがに幼少のころとはサイズ感が違うわ。
匍匐前進といえば匍匐前進だが、ドレスがあるので足は使えない。腕だけで、にじりにじりと前に進む。
昔、王子の婚約者を決めるためのお茶会がこの庭園で行われた。もちろん今いる生垣迷路のところではなく、もっと開けたところだ。
婚約者になりたくなかった私は、親に連れてこられたお茶会の場から逃げ出したのだ。そう、今のように。
まさか挙動不審な私のあとを、王子が着いてきているとは思いもしなかったが。
生垣をこうやって抜けられることに王子はいたく感激していた。次回からはこの手を使おうとか何とか言っていたな。
その時、私は成長期が来ていてそれなりの身長になっていたが、王子は成長期前だったらしくとても小さく見えた。だから、それが王子だと分からなかった。お茶会に招かれた令嬢に弟が着いてきて暇つぶしに遊んでいるのだと思っていたのだ。
それまま私たちは森で日が暮れるまで遊んだ。こっそり王宮に帰ったつもりだったが、待ち伏せされていてこっぴどく怒られたのも、今となっては……いい思い出だ。
その時以来の生垣くぐりに、否応なしに当時のことを思い出す。
途中、蜘蛛の巣やよくわからない感触に涙目になりながらも、ようやく厚い生垣の層を抜けた。
すでにズタボロだったが、足を止める訳にはいかない。
ここから森までは約1~2kmほど。見通しがよい一本道で身を隠すところがなかったが、 とにかく森まで行けば……
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
アマリアは走った。地面に足を取られ転びながらも、ただ走った。
薄紫のドレスは今日の薄明るい夜にはちょうど良い目くらましとなったようで追手の気配は感じなかった。
さながらカゲロウのようだ、そう思いながら。そういえば小さい頃読んだ漫画の影響でカゲロウは薄紫色だと信じていたけど違うんだったっけ、などと思考が現実逃避を始めたころ、やっと森の入口が見えてきた。
森に入り、道を外れて少し奥へ行ったところに岩があり、そこに倒れるように崩れ落ちる。
顔も手も足も傷だらけだ。
なにより履きなれないヒールで走るもんじゃない。いつの間にかヒールは欠けて無くなっていたが。指先からかかとまで、足全体が悲鳴を上げ、じわっとした痛みが広がる。足もがくがくしていてしばらく動ける気がしない。それとも震えは寒さと恐怖ゆえだろうか。
明日からどうしよう。いやそれより今晩だ。その辺の葉っぱを集めてベッドにすれば眠れるだろうか、それとも屋根も考慮した方がいいのだろうか、それから、それから……
「嬢ちゃんの鬼ごっこはここで終わりってことでいいかな」
────突然、暗闇から凍り付くような声と気配がした────