人類最強へ至る道 1
最初に気づいた違和感は、爪だった。
「あれ?」
大学の講義を受けている最中のこと。ノートの上にペンを走らせる黒霧葵は、ふと前に爪を切ったのはいつだったかと記憶を辿る。
二週間は前のはずだ。それだけの時間があれば、それなりに伸びていないとおかしい。
爪を切るくらい、いちいち何日ごとに、とか決めてはいないけど。両親が仕事で家を空けている時など、台所に立つ機会は多い。だからある程度まで伸び切る前に、いつも気がつけばその都度切っていたけど。
教壇に立つ教授が黒板に板書を続けているが、もはやそちらに意識は向いていなかった。ペンを置いて手元を見やり、やはり見間違いでも勘違いでもないと確認する。
葵の様子がおかしいことに気づいたのだろう。隣で一緒に講義を受けていた蓮が、ちょんちょんと肩を叩いてきた。講義中故会話を控えて、魔術による念話が飛んでくる。
『どうかした?』
『ううん、別になんでもないんだけど……前に爪切ってから、しばらく立つなーって思って』
ほら、と手元を見せると、蓮は眉を顰めて首を傾げる。まあ、そんな反応にもなるだろう。なにせ葵の爪は、今朝切ってきたと言われてもなんらおかしくないのだから。
『しばらくって、どれくらい?』
『二週間くらいかな』
『二週間はおかしいな……』
『ね、おかしいよね』
まさか、無意識に異能を使ってしまっていたとか? いやいや、それはあり得ない。他の異能がどうかは分からないが、葵たちの持つ情報操作の異能は、発動には明確に使用者の意思が必要だ。なにせ演算を行わなければならない。
もっと言えば、演算を行なってから、その結果を出力するという手順が存在する。
無意識下の演算だけで終わる情報の可視化とは違うのだ。いつぞやの先輩ではあるまいし、勝手に異能が発動してしまっていた、なんてことはまずない。
この時は、おかしいなと感じながらも講義中であったことと原因がよく分からないこと、なにより実害も特にないので放っておいた。
次に自分の体に違和感を感じたのは、その日の夕方だ。
夕方とはいえ、日が落ちるのが早いこの時期だと、もう空は真っ暗。葵たち吸血鬼の時間。夜になると調子がいいのは普段からなのだけど、この日はそれが特に顕著だった。
いや、調子がいいなんてレベルじゃなかった。
「あっ」
不意に声が漏れてしまったのは、夕飯の準備を手伝っている時。指先から青白い光が見えたかと思えば、家全体が突然の停電に見舞われたのだ。
「うそ、なによ急に。ブレーカー落ちちゃったのかしら?」
暗い家の中で光球を生み出す母親の朱莉と、目が合う。すると彼女は眉間に眉を寄せて、なぜか心配するような顔をした。
「葵、あなた……」
「え、どうしたのお母さん?」
「目と牙」
具体的なことを言われずとも、それだけで察した。口元に手をやれば、たしかに朱莉の言う通り。普段は吸血した後にしか伸びない犬歯が、牙と言えるまでに伸びている。ここには鏡がないから分からないけど、目も紅く変色しているのだろう。
「最後に血を吸ったのは?」
「四日前くらいかな。異能で作った人工血液だけど」
爪が伸びないどころの話じゃない。
葵の吸血による遺伝子の活性化、つまり強化状態は、持っても半日に足るか足らないかと言うところだ。カゲロウや翠でも二日程度。
普通の吸血鬼ならどうかは知らないけど、普通じゃない混血の、それも人間の遺伝子の方が多い葵では、四日も持たない。
「……グレイ、は今行方不明だし、サーニャを呼ぶしかないわね。いやでも、彼女確か学会がどうとか言ってたかしら?」
ぶつぶつと呟きながら、母親はブレーカーをあげに行った。
そんなに大事にするようなことでもないのにとは、さすがに言えない。明らかな異常事態だ。そう分かっていても、原因に心当たりがない。
繰り返すが、葵の中の遺伝子は人間のものが多く占める。吸血鬼の遺伝子は三割ほどしかなく、活性化するのは血を吸った時のみ。
そもそも、自分で原因がわからない、という時点でおかしい。自分自身の情報は鏡なんて使わなくても常に把握できるし、そうじゃないと普段から情報の変換なんて出来ない。
それはつまり、翠やカゲロウに視てもらっても原因はわからないということで。情報操作の異能が通用しない例なんて、数える程度しかないだろう。
しばらくもしないうちに電気が復旧して、朱莉が戻ってくる。スマホを片手に持った彼女は眉間に皺を寄せていた。
「ダメね、サーニャも忙しくしてるって」
「んー、愛美さんに相談してみようかな」
スマホを手に取り、愛美に通話をかける。
あまりにも武闘派すぎて忘れがちだが、彼女もあれでそれなりの知識を有している。桃と共にグレイを追っていたこともあるから、吸血鬼についての知識もあるだろう。
というわけで、きっちり三コールで出た愛美に事情を説明すると、しばらく悩むように黙り込んだ彼女はこんなことを言った。
『ルークさんに相談してみなさい』
「え、なんでですか?」
思いもよらなかった名前が飛び出してきて、つい聞き返してしまう。
今は剣崎龍と共にアキバで猫カフェを営んでいる、金髪ポニテの小柄な転生者。転生者と言うだけあって、彼女も葵より豊富な知識を持っているだろうけど。
吸血鬼云々はあまり関係なさそうなのに。
『行って聞いてみれば分かるわ。少なくとも、私は電話越しに話を聞いただけだし、確信してるってわけじゃないの。だったらはっきりとしたことはなにも言えないわ』
納得できたわけではないけど、愛美との電話はそれで終わってしまった。
爪が伸びていない、というのはきっと、吸血鬼の遺伝子が活性化してしまったがゆえだ。
吸血鬼は不老。爪だけでなく髪も伸びないし、当然身長も。
肉体的な変化、成長が、恒久的に停止してしまう。
この新世界で生きていくには、あまりにも不都合が多い。どうにか解決できるなら、早急に解決しなければならない事案だ。
取り敢えず、先輩の言う通りにしてみるか。
◆
というわけで、翌日。
やって来ました秋葉原の猫カフェ。
「神氣が悪さしてるね、これは」
「え、神氣って、あの神氣ですか?」
猫を撫でながら言うルークに羨ましそうな顔を向けながら、聞き返した。
なにせ猫が寄ってこない。今の葵は全身から微弱な電磁波を出している状態だ。猫が寄ってくるわけもなく、猫を抱いているルークも葵から少し離れていた。
「黒霧ちゃん、神の記号を埋め込まれてるんだろう?」
「そうですけど……」
「じゃあ質問。神の記号って、それ、具体的にどう言ったもの?」
言われてみれば、たしかに。
葵たちプロジェクトカゲロウによって産まれた子供たちには、インド神話の神が宿っている。それを神の記号を埋め込まれた、と説明されていたけれど。
ならばなぜ、わざわざ神の記号などと言う呼び方をしているのか。神の力、とは違うのか。
「まずは、神様ってものの説明からだな」
龍が紅茶を淹れて持って来てくれた。特に頼んだわけではないのだが、さすが騎士の王様。気が利く。
「黒霧、お前は神っていう存在について、どう言う認識でいる?」
「えっと……信仰が力になるとか、現代では淘汰されて、位相の狭間に追いやられたとか?」
「なら、なぜそうなった?」
全ての神が死んで消えたわけじゃない。現代でも、生きている神はいる。だが彼らはみな、半ばこの世界から追いやられた。他の誰でもない、はるか昔のキリの人間たちによって。
「昔のキリの人間が、異能とか魔術を消すための過程で?」
「追いやられた理由はそうだ。なら、なぜ信仰なんて曖昧なものが力になると思う?」
「それは……」
そういう存在だから、で片付けるわけにはいかない話なのだろう。
「最初から説明しよっか。まず、神様っていうのは正確にいうと、生物ですらない」
「神氣は異能や魔術とは明確に分たれた存在であり、完全な上位互換に位置している。ならそれはなぜなのか、という話になるが」
「簡単に言うとね。神っていうのは、現象だ」
猫を抱いているルークの雰囲気が、変わる。小柄な金髪ポニテの女性は、その全身に神聖さとでも言うべきものを纏っていた。
同時に、その存在自体があやふやになったような。ここにいるのに、薄壁一枚隔てた向こう側にいるような。そのくせして、これでもかと言うほどの存在感を出していて、強烈な違和感に駆られる。
「いま、違和感を覚えただろう? それが答えだよ、黒霧ちゃん。ボクたち神様は、生物じゃない。なにかの間違いで現象が魂を持ってしまった存在」
ソウルチェンジ。魂の上書き。今のルークは人間ではなく、神そのものとなっている。
「ミネルヴァなら守護。ルーなら百芸。そういった現象や、象徴。それそのものと言っていいね。まあ、ルーの場合は色々混ざっちゃってるからややこしいんだけど」
「だからこそ、記号なんだ。元が現象や象徴であるがゆえに、力ではなく記号。この現代において、英雄神インドラとは他の誰でもない、お前のことを指すんだよ、黒霧」
そういう魔術を使うことはあった。雷纒の発展型として、インドラを顕現させる魔術だ。
だけど葵自身がイコールでインドラであるとなれば、それはまた話が違ってくるじゃないか。
「私自身が……」
「インドラの神氣が暴走して、そのせいで吸血鬼の遺伝子が活性化してるんだろうね。いやはや、いよいよもって君も、立派な化け物じゃないか」
「バカ、ちょっとは言い方気をつけろ」
戯けたように言うルークの頭を、龍が軽く叩く。
ああでも、たしかに。人ではなく、吸血鬼でもなく、神とも言い切れない中途半端な存在。そんな自分を言い表すのに、化け物というのはしっくりくる。
「私は、どうしたらいいですか……?」
「それは何に対する質問なのかな? 現状をどうにかしたい、元の人間に近い体に戻りたいという意味かい?」
「出来るならそうしたいですけど……私に宿ってるのがインドラの記号なら、それは無理ですよね」
「よく分かってるじゃないか」
インドラは様々な呼び名を持った神ではあるが、その中でも特に葵の体に顕著に現れているのが、英雄神としての側面だ。
そしてこれはあくまで推測に過ぎないが、インドラとは本来、雷霆や天といった現象の具現化。英雄神とは、後付けの呼び名にすぎないのだろう。インドラの逸話からそう言った名がつけられた。
だが、そこがどうであれ、英雄神と呼ばれていることに違いはない。
「英雄と呼ばれるモノに、安息はない。世界の意思が働いているのかと思うほどに、事件の中心に位置してしまう。この言葉は、魔術的にも大きな意味を持つはずです」
例えば、葵の恋人がヒーローを目指し、そうあれかしと己を定めているように。
あるいは、目の前の男がかつて、騎士たちの王として多くの困難に立ち向かったように。
一度英雄と呼ばれてしまえば、まるで呪いのように多くの事件や困難が立ちはだかる。
いや、実際呪いの一種なのだ。多くの人間の畏れや信仰が、空気中の魔力で形を持ってしまった呪い。
それが、英雄。
信仰を力とする神であるなら尚更に、その呪いからは逃れられない。
そして英雄という呪いは、力を求める。事件や困難を乗り越えるだけの力を。
だから、仮に葵が全ての力を投げ出したいと願っても、それは叶わないのだ。英雄に救われたいと願う、大多数の顔も知らない誰かが、それを許さないから。
運命、あるいは因果。
蓮のようにそうありたいと願い叶えたわけでもなく。
龍のように、かつてそうなれなかった己を悔やみ、転生してまでその称号を手にしたわけでもなく。
英雄になりたいわけでも、なれなかったわけでもない。
なりたくもないのに、ただ、大好きなみんなとイマを生きていれるだけで良かったのに。
黒霧葵は、どこまでも運命に翻弄される。
「だったら私は……ちゃんとこの力と、自分自身と、向き合いたい」
「ふふっ、いいね黒霧ちゃん。その志は、立派な人間のものだ」
「教えてください、ルークさん。私は、どうしたらいいですか」
その表情に、悲哀はない。怒りもない。
ただただ、目の前の困難を乗り越えるための、強い意志が籠ったものだった。
◆
「結局のところ、慣れるしかないんだよね、その感覚に」
と、ルークにそう言われた葵は現在、東京都心のある場所に連れて来られていた。
首が痛くなるほどに見上げるビルの、しかしその地下にある、とある組織の秘密基地。
異能犯罪特別対策室。
本来ならば超常の力を取り締まるはずの魔術学院が存在しないこの世界で、その代わりとなる、熊谷杏子が作った組織だ。
真っ直ぐに向かった先は、管制室とでも言うべきか。多数のモニターと数人のオペレーターがいて、一際目立つ位置にはこの組織のボス、熊谷と、ご近所さんで翠の同級生の母親、天宮星羅。
さらにはいつぞや事件を起こした転生者、エウロペ・ティリスの姿も。
「ん? なんだお前ら、今日は本業の方って言ってなかったか?」
「そのつもりだったんだがな」
こちらに気づいた熊谷に、龍が苦笑しながら返して葵の背を押す。
「こいつの面倒見ろって愛美から言われてんだ」
「えっと……初めまして?」
実は熊谷とエウロペとは初対面の葵。星羅とはご近所付き合いもありお互いそれなりに親しくしてもらっているけど、そもそも織や愛美たちが葵を始めとした後輩勢には、この組織に関わらせようとしなかったのだ。
だからその存在は知っていたけど、こうして会うのは初めまして。
「異能犯罪特別対策室室長、熊谷杏子だ。他の二人は知ってるな?」
「まあ、星羅さんはご近所さんですし」
一方のエウロペとは初対面だけど。軽くお互い自己紹介してから、ルークに視線を戻す。結局のところ、どうして葵はここに連れて来られたのか。目的を聞いていない。
「言ったでしょ? 大事なのは慣れること。黒霧ちゃん自身が、神の力を自在に操れるようになるまでね」
「つまり?」
「幸いなことに、ここならそのための相手は事欠かないからね」
異能犯罪特別対策室とは、その名の通りの場所だ。通常の警察では手に負えない、魔術や異能が絡んだ超常の力による犯罪の捜査。
つまるところ、ここなら魔術師の相手がいくらでも出来る。
「桐生の許可は取ってきたのか?」
「それいる?」
「あとでドヤされるのはこっちなんだぞ」
「私も反対ね」
ため息を吐く熊谷と、はっきり反対の意思を示すのは星羅だった。
「子供にさせる仕事じゃないでしょ」
「高校卒業してるんだから、黒霧ちゃんも立派な大人だよ。成人年齢十八歳も超えてるし」
「そういうことを言ってるんじゃないの」
「それとも、黒霧ちゃんの実力を疑ってるのかな? 少なくとも、この場の誰よりも強くなれるくらいの逸材だよ」
それは言い過ぎじゃないか? 葵以外の全員が転生者、それ相応の経験を積んできている猛者たちだ。熊谷のことはよく分からないけど、エウロペは兄と魔女を散々苦しめ、星羅は異世界のドラゴン、それも聖龍なんてとんでもないやつの転生者。ルークと龍は言わずもがなで、一時期師事していた葵はよく理解している。
特にルークは、あの人類最強ですらまともに相手したくないなんて言うほどで、搦手なしの純粋な実力勝負なら、上回っているとさえ言われている。
「わたくしは賛成ね。本当にそれだけの実力があるなら、作戦立案も楽になる。それに、クラウ──、ルーク、さん……が連れてきたなら、心配の必要もないでしょうし……」
ルークが睨んだ瞬間、エウロペの語気が弱々しいものに。どういう関係なんだこの二人。
熊谷は賛成も反対も示さず、星羅とエウロペの間で意見が割れる。
「大事なのは黒霧の意志だろ。俺たちだけで話を進めても仕方ない」
そこに介入した龍の一言で、全員の視線が葵に向いた。
「それもそうだ。どう? 黒霧ちゃんはやりたい?」
笑顔ではあるが、ルークの目には言葉以上の強い問いかけが宿っている。
ここの選択肢は、己の今後を決定づけるぞと。
ただ葵としては、そんなもの今更なのだ。
旧世界で、自分自身の全てを知った時。この新世界で、記憶を取り戻した時。
あるいは先ほど、英雄とはなんたるかを、ルークと龍と論じた時に。
大切なイマを守るためなら、いくらでも戦い続けると。その覚悟はとうの昔に決まっている。
「やります、やらせてください」
「決まりだね。エウロペ、リストの中から一際厄介なやつを寄越して。星羅、心配なら君がついて行けばいい。ボクと龍は本業が忙しいからね、あとは任せる」
「ちょっと、ルージュ!」
満足げに言うだけ言って、ルークは帰っていく。呼び止める星羅の声にも振り向かない。
パートナーに置いて行かれた龍は苦笑しつつも、ルークと違ってちゃんと葵と向き合ってくれる。
「悪いな黒霧、色々と急で。あいつはあれでも、お前のことを気にかけてるんだ、昔から」
「昔から、ですか?」
「何者にでもなれるお前が、あいつからしたら思うところがあるんだろうよ」
その言葉の意味は、よく理解できなかった。
人、吸血鬼、神。
たしかに葵自身の選択で、そのどれにでもなれる。その可能性は広がっている。
でも、そのこととルークが、どう繋がるのか。
彼女を転生者たらしめる後悔を知らない葵にら、理解できない。
「じゃあ、俺も帰る。頼むぞお前ら、黒霧になにかあった時、各方面が煩いからな。殺人姫を敵に回したくなかったら、怪我一つなく帰すことだ」
割と冗談にならない言葉を残して、龍も退室する。残された葵は、部下らしき人から書類を手渡されていたエウロペに呼ばれる。
「黒霧葵さん、あなたに頼むのは、この転生者の調査です。赤き龍が接触したと思われる中でも、取り分け厄介な相手ですわ」
デスクの上に広げられた書類。そこに載せられた写真には、特筆すべき点のなにもない、凡庸な男が映っている。
旧世界ではどのような人物だったか、なんの転生者か、どんな魔術を使うのかなどがプロファイルされていて、この組織の調査能力に下を巻く。
まさか、旧世界での動向すら調べ上げているとは。
「さて、黒霧葵。お前のことは前々から声を掛けようと思ってたんだが、うちに来たからには、目指してもらいたいものがひとつある」
「目指す、ですか」
「そうだ。旧世界とこの新世界、大きな違いはなんだと思う?」
魔術や異能の存在、その在り方ではないだろうか。だがそんな簡単な問いかけをわざわざするとは思わない。
答えが分からず首を傾げていると、熊谷は悪そうな笑みを見せた。嫌な予感がする。
「抑止力だよ。それも組織のような集団じゃない。個人戦力での抑止力だ。組織ってのは良くも悪くも、人間の集まりだ。搦手でいくらでも対処できる。だが、それすら通用しない圧倒的な力を持った個人ってのは、あらゆる存在への抑止力となった」
「旧世界で言うなら、灰色の吸血鬼であったり、魔女であったり、殺人姫であったりですわね」
しかし、灰色の吸血鬼は今や裏方に回り、魔女は異世界へ。殺人姫も日常を謳歌している。
「そんな中でも最大の抑止力。そいつがひとりいれば、どんな戦況もひっくり返しちまう、国一つを片手間で落とせるほどの、核兵器以上の抑止力がいた」
「人類最強……」
「その通りだ」
ニヤァ……と。熊谷の口角がさらに釣り上がった。
人類最強。
その四つの漢字が示すのは、言葉通りの意味しかない。
人類の中で最も強い。
だから人類最強と呼ばれた。あらゆる人間がどれだけ束になっても意味がないほど、圧倒的な最強。
この新世界に欠けているもの。
「魔女に期待したんだが、あいつは異世界に行きやがったし、そもそも全力で拒否しやがっただろうな。殺人姫もどうかと思った時もあったが、あいつに手を出すには周りが煩い」
「だから私ですか」
いや、私の場合も周りが結構うるさくなりそうだけど。
「黒霧葵、お前は人間なんだろう?」
頷く。
吸血鬼にも神にもなれるけど。
自分は人間なんだと、そう声を大にして言いたいから。
「なら決まりだ。お前には、次の人類最強を目指してもらう。敵を圧倒し、歯牙にも掛けない、この世で最も強い存在にな」
とても重いその言葉は、けれど不思議と受け入れることができた。
むしろ納得の方が強かったかもしれない。
ああ、きっと。
これが、英雄という存在の運命なのだと。




