青空 3
目を覚まして真っ先に飛び込んできたのは、耳を劈く破壊音だった。
それに驚いて起き上がり、まず視界に飛び込んできたのは。
「ドラゴン……⁉︎」
空色の巨躯と、大きな翼。体は人型のそれだが、ドラゴンと呼ぶ他ない。
ファンタジーの代表みたいな存在がいきなり現れて、色々慣れてきたと思っていた俺でもさすがに驚く。
が、驚いてばかりいられない。
冷静になれ、脳みそを回転させろ。思考を止めるな。
状況を確認する。ここはあの精神世界と同じ、街の山の中にある廃工場だろう。多分。だってあちこちに破壊痕があって、もはや原型を留めきれてないし。まあそうだと思っておこう。
問題はあのドラゴンだ。今も口から光の奔流を吐き出しているが、その先には龍に比べて小さな人影が。
頭上に正方形のなにかを浮かせているその人は、さっきまで俺を導いてくれていた声の主。久井聡美先生。
「勇壁れ、偽盾アイギス!」
先生の表情に余裕はなく、頭上のキューブを盾に変えてドラゴンの光を受け止めている。
そしてドラゴンと共に先生を追い詰めているのは、見たことのない一人の男だ。あいつの操る金属の槍のようなものが、ドラゴンの攻撃すら受け止めた久井先生の盾にヒビを入れている。
ピンチらしい先生には悪いが、俺は引き続き廃工場の中に視線を巡らせた。この三人だけじゃない、彼女がいるはずだ。
隅々までジッとその姿を探して、見つけた。
戦闘の場所から離れた位置に、倒れ伏した彼女を。
「出灰!!」
叫び、駆け出そうとして、けれど足は動かなかった。すぐ目の前に、鉄の槍が降ってきたからだ。
「大人しく寝ていればいいものを……!」
「私の生徒に、手出してんじゃねーよ!! 氷震け、偽剣スレイブニル!」
俺を庇う位置に移動した久井先生が、細身の剣を地面に突き刺す。するとコンクリートの地面から氷が突き出し、男とドラゴンを襲った。
そのどちらにも躱されているが、氷がよほど脅威なのか、迂闊に動かず回避に専念している。
「さっさと行け、天宮! 行って出灰を起こしてこい! じゃないと全員死ぬぞ!」
「は、はいっ!」
これが本当にあのぐうたら教師なのかと疑いたくなるほどの剣幕に押されて、倒れた出灰の元へ走る。
けれどそこへ辿り着いて、俺は言葉を失ってしまった。
廃工場の中は薄暗いから、気づかなかった。
ピクリとも動かず倒れている出灰は、腰から下が消し飛んでいて、夥しい血の池に沈んでいる。
「うそ、だろ……出灰……?」
「あま、みやさ、ん……」
返事が、あった。
血で汚れることなんて構わず地面に膝をつき、小さな体を抱き上げる。
呼吸が安定していない。瞳にいつもの力は宿っていなくて、その光は今にも消えてしまいそうだ。
「だいじょうぶ、でしたか……?」
「人の心配してる場合かよ!」
なんで今のお前が、俺にそんな言葉をかけるんだよ。違うだろ、大丈夫じゃないのはどっちだ。自分がどんな状態なのか、ちゃんと分かってるのかこいつは。
いや、違う。焦って怒っても仕方ない。
返すべき言葉が他にあるだろ。
「……俺は大丈夫だよ。出灰と久井先生が助けに来てくれたからさ」
「よかった……なら、避難しててください……あとは、わたしたちに任せて……」
消し飛んだ腰から下に、目に見えるほどの力が収束する。けれどそれだけだ。力は形を持たずに霧散してしまって、再生は叶わない。
「どうして……」
「え?」
気がつけば、声が漏れていた。
「どうして、そこまでするんだよ? あとは先生とか、他の人たちに任せたらいいだろ……これ以上出灰が傷つく必要なんてどこにもないだろ!」
俺を守ると言ってくれた。それはたしかにありがたかったし、嬉しかったけど。
でも、こんなに傷つく出灰を見たかったわけじゃない。こんなことになるなら、俺のことなんて放っておいて逃げて欲しかった。
「あなたが大切だからと、以前にも言いましたよ」
けれど出灰は、力のない笑みを浮かべてそう言うのだ。
「昔、ある男に聞いたことがあります。特別な力も持たないただの人間の魔術師が、どうしてわたしよりも強いのかと」
天井から覗く星々を見上げて、出灰は過去を語り出す。
俺の知らない、いつかの出来事を。
「その男は、こう言いました。大切な仲間たち、みんなへの想いが、自分の力なのだと。当時のわたしになくて、彼にあったもの。だからわたしは弱かった」
想像ができない。出灰翠は優しい女の子だ。それは俺に対してだけではなく、親友二人のことをいつも大切に想っていて、それは中学の頃からはたから見ているだけでも分かった。
「わたしは、もう二度と、弱かったあの頃の自分に戻るわけにはいかないんです。朱音や明子、姉さんにカゲロウ。そして天宮さん、あなたを守るために」
紅い瞳とぶつかって、柔らかい笑みを投げられる。
場違いにも、見惚れてしまった。
消えていた光がそこに宿ったから。彼女が言うところの、想いの力とやらを、そこに見たから。
「あなたたちを想うだけで、ただそれだけで、力が湧いてくる。だからわたしは戦える」
その言葉を証明するように、下半身の再生が終わる。俺の腕から離れて、未だ辛そうではあるものの、自分の足で立ち上がる。
灰色の翼が広がって、右手にハルバードを握った。
そんな彼女を、見ていることしかできない自分が、心底恨めしいと。以前までの俺なら、自己嫌悪に陥っていたことだろう。
でも今は違う。俺には、俺にしかできないことがある。その方法を、今の俺は知っている。
「出灰、俺の血を吸ってくれ」
制服の襟を引っ張って首元を露わにすると、彼女は白く細い喉をゴクリと鳴らした。
なんだよ、やっぱり俺の予想通り、足りてないんじゃないか。
「俺も出灰と一緒に戦う。でも、俺にはこんなことしかできないから」
「……いいんですか? 今吸うと、遠慮はできませんよ」
「いいよ。死なない程度に遠慮なく吸ってくれ」
苦笑を返すと、勢いよく抱きつかれた。
さすがにいきなりすぎてそのまま尻餅をついてしまい、出灰は構わず俺に覆い被さると、首元へ牙を突き立てる。
「うっ……」
一瞬の痛み。体の中から、なにかが抜けていく虚脱感。しかし矛盾するように、なぜか満たされた気にもなる。
「んっ、んくっ……はむ……」
一心不乱に血を吸っている出灰がとても愛おしく思えて、片手を背に回した。
あまり力を込めるのはまだ恥ずかしいけれど、彼女の吸う血と一緒に、俺の想いも持って行けと願いながら。
やがて牙を離した出灰は、傷口をぺろりと舐める。不思議なことにそれだけで血は止まった。それも吸血鬼の仕様なのだろう。
そのまま立ち上がるものだと思っていたのだけど。
あろうことか、彼女はそのまま、頬に小さく口付けを落とした。
「なっ、お、おまっ……!」
「ありがとうございます、天宮さん。これでわたしは、まだ戦える」
いやそれどころじゃねえよ! なに、なんだったの今のは!
突然のことに顔が熱くなって、出灰はすぐに背中を向けてしまった。けれど灰色の髪の間から見える耳は真っ赤だ。恥ずかしいならやらなければいいのに。
「あなたの想いも、一緒に連れて行きます。だから今からは」
「……ああ、そうだな。頼む、出灰。全部終わらせてくれ」
今からは、二人一緒に戦う。
出灰と俺と。二人分の想いの力があれば、ドラゴンだって敵じゃない。
◆
「お待たせしました、聡美」
聖龍と錬金術師、二人の攻撃をギリギリで捌いていた聡美に声をかける。
視線だけで一瞥した彼女に目立った傷はなく、割と余裕そうだ。息を切らしている様子すらない。
「遅いぞ出灰、もうちょっとで私が一人で終わらせちゃうとこだったろー」
「強がりはやめた方がいいですよ」
「生意気な生徒だなー。ま、桐原の相手してた小鳥遊よりは気が楽か」
「あなたは天宮さんをお願いします。巻き添えにならないよう守っていてください」
「へいへい」
適当な返事をして、聡美は下がる。始原回帰も懐にしまって、完全に戦線離脱だ。
それを馬鹿にされていると取ったのか、天宮大地は怒りの表情を浮かべていた。
「待て、久井聡美! 逃げるつもりか!」
「勘弁してくれよー、大地。お前の相手は最初から私がするべきじゃないんだよ。それくらい弁えろっての」
「お前たちはッ、いつもそうやって!」
感情任せに放たれる鉄の鏃。だがそれは、聡美の元へ到達するよりも前に、灰色の炎に遮られた。
本来ならば、三倍の法則を無限に近い数重ねがけられたそれは、容易く受け止められるものじゃない。事実聡美は、大地の攻撃に関しては殆ど回避に専念していた。
しかし、この炎にそんな小細工は通用しない。
灰色の炎は鏃を飲み込み、焼くこともなく、溶かすこともなく。ただ、塵へと変える。
すなわち、『崩壊』させる。
「なん、だと……?」
「聖龍ヴァナへイム。いえ、天宮星羅。彼は目覚めましたよ、そろそろ潮時ではありませんか?」
驚く大地を一顧だにせず、翠はドラゴンへ語りかける。
聖龍は言葉を返さず、ただ、人間の姿へと戻った。それがなによりの返答だ。
「おい星羅、なんのつもりだ!」
「なんのつもりもなにも、最初から予定通り。私は私の仕事を果たすだけ」
星羅が、かつて自分の旦那だった人物へと右腕を向ける。すると大地の足元に魔法陣が広がり、その動きが止まった。
異世界のドラゴン、その最上位に位置する存在の拘束魔術だ。いくら彼が錬金術師としてどれだけ優れていようと、簡単に抜け出せるものじゃない。
「なぜだ……俺は不老の肉体を、お前は不死身の肉体を、共に求めると決めただろう……!」
「おあいにく様、それはもう諦めてるわ。時間を繰り返す羽目になったのは想定外だし私のミスだったけど」
掲げる右の掌を握りしめると、大地が苦しみだす。拘束を強めたのだろう。
だがその声にも聞く耳持たず、星羅はマイペースにポケットから手帳を取り出した。
それは警察手帳にも似ていて、彼女の写真と名前、そして所属している組織の名前が。
「異能犯罪特別対策室所属、天宮星羅。大地、あなたも聞いたことくらいあるでしょう」
「お前っ、あの大うつけの手先だったのか!」
「第六天魔王様、よ。そう呼ばないとうるさいんだから、あの人」
異能犯罪特別対策室とは、小鳥遊蒼の知り合いの政府関係者であり転生者、熊谷杏子が立ち上げた組織のことだ。
桐生探偵事務所に魔術関係の依頼を持ち込んだり、赤き龍の動向を探ったりと、翠たちも世話になっている。
天宮星羅は、そこから送り込まれてきたスパイだった。彼女が自分自身に精神支配をかけていたのは、スパイとして問題なく活動するためだ。自分の家族が関わっているとだけあって、そうまでしなければ仕事をこなせなかったのだろう。
「さ、お膳立てはしてあげたわ。あとは任せるわよ、出灰さん。こっちの世界でヴァナへイムに戻るの、結構体力使うから」
「ええ、任されました」
星羅と入れ替わるようにして大地の前に立ち、魔力を練る。
目の前に立つ男は、翠の大切な友人に手を出した。あまつさえ、何度も時間を繰り返す羽目になるまで彼を殺した。
あれも星羅の仕業などではなく、やはり大地が直接手を下したものだった。
断じて、許すわけにはいかない。
「覚悟はいいですか」
「おのれっ……俺はこんなところで終わるわけにはいかないんだ……! あの頃からの悲願を、決して老いることのない肉体を、無限へと至る道を、俺は……!」
ひとつ、息を吐く。
魔力は十分。異能も正常に働く。キリの力も問題ない。
だが、翠は姉のように心想具現化を極めているわけじゃない。ならばどうすればいいか。
創ればいい。
全く新しい魔術を。この世のどこにも存在しない、自分だけの心想具現化を。
それが旧世界で、翠が託され、与えられた力なのだから。
「心蝕反転・位相接続」
灰色の炎が渦を巻き、翠の体を包み込む。
己の心を具現化させて、世界を広げるのではない。あくまでも己の身のうちに秘めて、それをレコードレスに落とし込む。
そうして現れたのは、灰色のワンピースと同じ色の炎の羽衣を纏った、半吸血鬼の少女。
「焔纏いし崩壊の吸血鬼」
右手に持ったハルバードの穂先には、灰色の炎が灯っていた。
かすっただけで全てを崩壊させる、天宮大地にとっては死神の鎌と同じそれが。
「これで終わりです。もう、天宮さんが危険な目に遭わなくて済む」
「ま、待て、出灰翠! 本当に俺を殺すつもりか、俺はあいつの──」
最後まで言い終えることもなく。
斧槍の一振りにより、胴体を両断された。
血が流れることはない。ただ一瞬のうちに、天宮大地の肉体を塵となって消え去って。
天宮青空を巡る事件は、ここに終息した。
「それは、彼が知らなくてもいいことです」
◆
後日談というか今回のオチ。
人生で一度は使ってみたいフレーズランキング五位くらいにランクインしているそれを使ったところで、オチというほどのものはない。
なにせ、俺は結局敵の黒幕みたいなあの男のことをなにも知らないし、母さんが実はどっかの組織に所属していたことだって後から聞いたのだ。
その母さんだが、あの後めちゃくちゃ謝られた。もう土下座せんばかりの勢いだったのだが、親の土下座なんか誰も見たくないということで必死に止めたのだけど。
異能犯罪特別対策室、というのが、今の母さんの職場らしい。いつの間にやら転職していたみたいだが、まあ魔術だなんだが絡んでいたから、俺に今まで言えなくて当然だ。
表向きは今まで通り、編集者ってことになってたらしいし。
その翌日には、久しぶりに二人で夕飯を食べた。母さんの作った料理を、二人で。当たり前の家族みたいに、学校でのこととかを話しながら。
今までの俺と母さんが、決して過ごしてこなかった時間を。
そしてあの黒幕の男だが、なにも知らないと言いはしたが、久井先生からほんの少しだけ聞いた。
どうやらあいつは、先生の親戚らしい。
錬金術師として不老の体を求め、魂が大きな俺と半吸血鬼として不老不死を完成させた出灰を狙っていたのだとか。
出灰も狙われていたのは初耳で、かなり驚いた。
さて、その出灰だが、あれからまだ一度も会っていない。
今日は二十三日の金曜日、二学期の終業式の日だが、彼女は後始末に追われているらしく、今週はずっと学校を休んでいた。
彼女のいない学校は、なんだか色褪せて見えて、たった数日の付き合いとは思えないくらい、俺は彼女が心の奥底に根付いてしまったみたいだ。
「まあ、色々あったもんなぁ……」
終業式も終わった屋上で寝転び、一人呟く。
本当に、色々あった。まさしく一言で表せられない、言葉にできない様々な感情が行き交った日々。
きっと一生忘れないだろう。今後の人生でなにがあっても、あの時の、俺の血を吸って戦いへ向かった彼女の背中は、忘れることができない。もはや呪いのように、この脳に、心に刻まれてしまった。
「やはりここにいましたか」
不意に声を掛けられて、僅かに顔を起こす。
俺の顔を上から見下ろしているのは、今日休んでいたはずの、灰色の少女。スカートの中が見えていることなんて気にもしていないだろう出灰は、どこか呆れたような顔をしていた。
といっても、ほとんど無表情に近いのだけど。
なるほど、ピンクか。可愛いじゃん。
赤くなった頬を悟られないように起き上がって、背を向けたまま言葉を返した。
「休みじゃなかったのか?」
「つい先ほど、用事は全部終わりましたから。顔くらいは見せておこうと思いまして」
「後始末だっけ? 桐生に聞いたよ。なんか、悪いな。俺が狙われてたせいなのに」
「聡美から聞いたのでしょう? 狙われていたのはわたしも同じです」
同じなら余計に申し訳なくなる。
結局俺ができたことと言えば、出灰に血を提供したことくらいだ。きっと、それだけでも十分だと彼女は言うだろうけれど。それでも俺は守られてばかりだった。
守ってもらっただけではなく、私生活でもお世話になってばかり。飯作ってもらったり、部屋の掃除してもらったり。
いや、マジで申し訳ねえなこれ。もはやヒモじゃん。もうちょい頑張れよ俺。できること色々あっただろ。
まだちょっと羞恥心があるけれど、意を決して振り返り、出灰と向き合った。
久しぶりに見る出灰は、やっぱり可愛くて。なにも言わない俺に、こてんと首を傾げている。くそ、可愛いな……。
「あー、礼ってわけじゃないけど、なんか俺にできることないか?」
「できること、ですか」
「うん。俺に出来ることならなんでも──」
言って、気づいた。デジャビュ。以前も同じようなことを言って、その結果どうなったのか。ほんの数日前のことだ。まさか忘れたわけがない。つーか忘れたくても忘れられねえっての。あの後桐生がめっちゃ怖かったし。
「なんでも、ですか?」
「まあ、うん……」
しかし期待した目で見られてしまえば、こんなの頷くしかなくなるわけで。
「では、二つほど……」
「二つっすか」
意外と欲張りですね出灰さん。まあ片方は血を吸わせてくれとかだろうなぁと思っていたのだが、出灰はもじもじと照れたように中々言い出さない。
なに、トイレ行きたいの? とは紳士な俺は決して言わないが、さすがに様子がおかしくて首を傾げていると。
「……明日、天宮さんの一日を貰ってもいいですか?」
「それくらいならお安いご用だけど」
「……意味、分かってますか?」
問われて考える。明日、明日……あ、クリスマスイブじゃん。
え、なに、てことはなに、え? つまり、どういうことだってばよ?
一瞬バカになってしまったが、よく考えなくても分かることだ。
クリスマスデート、とやらのお誘いということだろう。
分かってしまえば顔が熱を持って、手で覆いながらも頷いた。
「一応、分かってるつもりだけど……」
「そうですか……」
「……」
「……」
沈黙が下りる。気まずいわけではなくて、なんというか、どこかむず痒い、照れ臭い沈黙が。
あーくそ、なんだこれ。なんなんだこれ。
今になって、あの時精神世界で先生に言われた言葉が突き刺さる。
俺は今まで他人に無関心に生きてきたから、こういう時、どうすればいいのか分からない。初めて興味を持った、自分の意思で一緒にいたいと思った相手だから。
下手に踏み込もうとすると、逆に傷つけてしまわないかと怖くなる。
「それで、もう一つは?」
「あ、そうですね……もう一つは……」
沈黙に耐えきれず聞くと、出灰は顔を上にあげた。釣られて俺も上を見ると、広がっているのはどこまでも晴れ渡った青い空だ。
放射冷却とやらのせいで寒いけれど、しかしこの青空は季節問わず変わらない。
「天宮さんは、この青空に手を伸ばしていたんですよね」
「うん、そうだな」
「その理由は、見つかりましたか?」
ああ、そういえば、出灰には言っていたか。この屋上にいつもいた理由を。
「まだ見つからないなら、わたしにその手伝いをさせてください」
「うん」
「姉さんが昔、言ってくれたんです。わたしのやりたいことが見つからないなら、その手伝いをするって。わたしは、もう見つけました。だから今度は、わたしが誰かの手助けをしたい」
「そっか」
どうだろう、答えは、願いは、見つかったのだろうか。
他人に無関心で、興味がなくて、だから空虚な穴を埋めるように、手の届かないなにかに手を伸ばす。先生にはそう言われたけれど。
「多分、本当は理由なんてなかったんだと思う」
「というと?」
「届かないものに手を伸ばす。その行為自体が目的だったっていうかさ。結果届くかどうかに興味はなかったんだよ」
空に、手を伸ばす。
当然、空にも太陽にも届かない。それでいいんだ。届かないものに焦がれるほど、今の俺はバカじゃないし、その余裕がない。
もっと身近な、俺のすぐそばにいる人に、手を伸ばしたいから。
「だからさ、その手伝いはいらない。でも、そうだな。どうせ手伝ってくれるっていうなら、もっと別のものに手を伸ばそうと思うんだ」
空に伸ばしていた手を、出灰へ向ける。彼女はよく分からないと言いたげに首を傾げながら、俺の手を取った。
それで思わず笑ってしまう。分からないと顔に書いてあるのに、俺の求めるように、手を取ってくれたのだから。
「な、なぜ笑うんですか」
「いや、別に」
「そもそも、別のものとはなんですか。教えてくれないと、手伝いようがありません」
「うん、そうだな。そのうち教える。ほら、帰ろうぜ。今日は母さん仕事でいないから、久しぶりに一緒に飯食おう」
「……仕方ありませんね、ハンバーグを作ってあげます。この前は作り損ねましたから」
「それは楽しみだ」
俺も出灰も、繋がったままの手を離さず、屋上から出る。
願わくば。この手がいつまでも、届くところにいられるように。
それが今の俺が抱いた、ただ一つの願いだ。
 




