浮遊 4
「ちょっと待ってくれ」
恐らくはこれから長い長い話が始まるのであろうその出鼻を、申し訳なく思いつつ挫かせてもらう。
初っ端から強烈なのがぶち込まれてきた。
わざわざ言うまでもないが、ここは現実だ。三次元だ。断じてアニメやゲームの中などではなく、俺が俺としてここに存在していることこそがその証明になる。
かと言って、夢なわけがない。
先ほど、飯を食う前に感じた頭の痛みは本物だったし、これが夢だと言うのなら出灰翠という少女があまりにも実物そのまますぎて、俺は普段どんだけ彼女を見ていたのか、と気持ち悪くなること請負だ。
いやまあ、クラスで目立つ彼女らに自然と目がいっていたのは否定できないけれど。
とにもかくにも、ここは夢の中などではなく、正しく現実であることに変わりないし、俺の耳が正常な機能を失ったわけでもない。
以上を踏まえた上で、もう一度聞いてみた。
「悪い、もう一回言ってくれるか?」
「ですから、わたしは純粋な人間ではありません。吸血鬼の遺伝子が七割ほど入ったハーフです。正確に言えば、今は完全に人間ではありますが」
「そうか……」
そうか……聞き間違えじゃなかったか……おまけに出灰の表情はいつもの無表情、つまり真剣なもの。これでジョークです、とか言われたら意外とお茶目なんだなーはっはっはーで済むのだけれど。
どうにも、そういうわけにはいかないらしく。
「証拠ならいくつかお見せできますよ」
「例えば?」
「牙とか」
あー、と口を開ける出灰。なんだかイケナイものを見ている気になってしまうが、なるほど確かに、彼女の犬歯は人間と思えないほど発達している。
それこそ、牙と呼んで差し支えないほどに。
「でも、昼間に出歩いてるよな?」
「太陽が弱点なのは二昔前の吸血鬼ですね」
「鏡に映らない、わけでもなさそうだし」
「そもそもが創作ですね、それは」
「銀の弾丸とか、杭を心臓に刺されたらとかは?」
「心臓を刺されたり撃たれたりしたら死ぬのは当然では?」
「……招かれてない家に入ってる、よな」
「お詳しいですね。しかしこれも吸血鬼は関係ないでしょう。招かれていない家に勝手に入れば犯罪です。常識ですよ」
「吸血鬼に常識を説かれてもな……」
思いつく限りの吸血鬼要素を並べてみたが、全てにべもなく切って捨てられた。おまけに非常識の権化みたいなやつに常識を説かれる始末。だったら今この状況はどうなんだ、と言いたいが、これに関しては倒れた俺を介抱してくれただけだし、例外ということだろう。
「お望みとあらば、血でも吸ってみましょうか?」
「えっ」
「冗談です」
ふっと表情が和らぐ。可愛らしい、花が咲いたような笑顔。
そんな顔を見せられると、血を吸われるのもいいかもとか思ってしまう。馬鹿か俺は。
「そういえば、わたしはカナヅチですよ」
「あー、水を渡れない? んだっけ?」
「はい。どうにもそれだけは克服できなくて」
太陽は大丈夫なのに水はダメなのか。そんなマイナーもいいところの弱点を挙げられても、いまいちしっくり来ない。それこそ、吸血鬼でなくとも泳げないやつは泳げないのだし。
「とにかく、わたしはそういう存在なのだと受け入れてもらわないことには、話は始まりません。昨日、天宮さんも見たでしょう、わたしが戦う姿を」
ああ、たしかに。あの時の、灰色の翼を生やした彼女、この上なく吸血鬼っぽかった。
「出灰みたいなやつらが、他にもいるのか? 土御門とか桐生も、昨日屋上にいたよな」
「明子も朱音も、わたしとは違い純粋な人間です。まあ、一般人というわけではありませんが」
「魔法使い、ってか?」
「正確には魔術師ですね」
昨日見た光景を、頭の中で再生する。
土御門の投げた紙は物理法則を無視した動きをして、桐生は明らかに人間の身体機能を逸脱していた。おまけに二人とも、空からやって来たのだ。更には出灰の背に輝く六枚の灰色と、化物を燃やした炎。
魔法としか表現できない。あれが手品の一種なんて言われても、逆に信じないだろう。
「この世界の裏側には、魔術と呼ばれる存在があります」
「それが、昨日出灰たちが使ってたよく分かんない現象の正体なのか?」
「はい。魔力と術式を用いて引き起こす神秘。不可能を可能にする、奇跡の業」
例えば、と人差し指を立てた出灰のそこに、小さな火の玉が灯る。陽炎のゆらめくそれは、本物の火にしか見えない。
「この世界は、科学技術が発達しています。それらの技術で可能な全ての事象を、魔術を用いることで短縮できる。現代で広く使われている魔術は、殆どがこのタイプですね」
火を灯すにしても、例えばマッチやライターのような道具が必要になるし、それらの道具を解明すればそれぞれの法則が働いている。化学式がどうのこうのと言った具合に。
それら全てを、魔力やら術式やらだけで短縮できるのが、魔術と。
あるいは、科学や化学とは違った法則が働きているのかもしれない。
「わたしたちはこれらの力を使って、簡単に言うと悪い魔術師や魔物と呼ばれる化け物と戦っています」
「魔物……昨日屋上に出た奴らのことだよな?」
「はい。そして、あなたに関係しているのも、教えなければならないのも、そこです」
指先の火を消した出灰は、一度瞑目する。
たっぷりと五秒間、まるでなにかを決意するためのような時間を使って。
開かれた紅い瞳と、視線がぶつかる。自然、背筋が伸びてしまい、彼女は今度こそ、信じられないことを言った。
「あなたは過去に七度、魔物に殺されています。わたしの、目の前で」
「……え、は? いや、ま、待ってくれ」
人は、本当に信じられないことを見聞きした時、半笑いになるらしい。
嘘だろ、と聞き返せなかったのは、出灰の目がどこまでも真剣なものだったからだ。
思わず、自分の顔を自分で触れてしまう。俺の触覚はたしかに働いていて、こんなことをするまでもなく彼女の用意した鍋は美味しく食べたし、今朝だって母さんと、学校にいる時はクラスメイトや担任の教師とも会話している。
過去に殺されてるだって? 俺が?
それも、出灰の目の前で?
ダメだ、思考が纏まらない。聞くべきことも、言うべきことも、なにも思い浮かばない。
出灰が本当のことを告げていると、嫌でも分かってしまうから。頭の中が真っ白になって、動揺と困惑と恐怖が綯い交ぜになる。
「……すみません、いきなりすぎましたね」
「いや、いい、大丈夫」
気遣わしげな優しい声に思考が叩き起こされる。落ち着け、落ち着け、と何度も胸の内で繰り返して、大きく深呼吸。
止まっていた箸を動かし、鍋の中から鶏団子を取った。うん、美味い。心と脳が落ち着いていく。冷静さを取り戻す。
「それで、どういうことなんだ? 過去に七度も、って言い方からするに、なにかあるんだよな?」
「……あの、本当に大丈夫ですか?」
眉根を寄せて心配してくる出灰は、本当に優しい女の子なのだろう。普段の無表情からは考えられないくらいに。
そんな顔を知ることが出来て嬉しいと、場違いにも思えてしまう。彼女のその優しい顔を。
いやそれだけじゃない。意外とお茶目で、結構いい加減というか、雑なところもあって、でも締めるところはちゃんと締める、厳しいところだってある。
分かりにくいだけで、感情が豊かで可愛らしいところも。
親友二人を除けば、他のクラスメイトたちの知らない彼女を知ることができるのは、単純に嬉しい。
そして、そんな出灰の質問に対する答えはイエスだ。
我ながら冷静すぎるとは思っているけれど、こうやってすぐに心を鎮められるのは地味な特技の一つだったりする。
頷いて話の続きを促せば、彼女は詳しいところを語ってくれた。
天宮青空と出灰翠の、本当の始まりを。
◆
その日翠は、放課後の学校で魔力を感知した。
校内には仲間たちが数人いるが、その誰のものでもない魔力だ。そもそも、彼ら彼女らは普段から魔力を抑えている。
仮に仲間たちの魔力を感じ取ったとしても、それはそれで異常事態ということになる。
ともあれ、その魔力の反応からして魔物の類だとアタリをつけた翠は、単身現場へ急行した。
あまり強い反応でもないし、いざとなればレコードレスなりなんなりでも使えば、ひとりで十分対処できる。
駆けつけた先の屋上。
そこにいたのは、一人のクラスメイト。天宮青空だ。
特に仲がいい方ではないが、何度か会話を交わしたことくらいはある。
問題は、青空を挟むようにして立っている、二匹の魔物。狼に翼を生やした姿のそいつらは、乱入してきた翠には一瞥もくれず、青空から視線を外さない。
多少違和感を持ったものの、隙だらけなのは事実だ。瞬きの間に愛用しているハルバートで二匹を斬り伏せ、面倒なことになる前にクラスメイトの記憶は改竄した。
ついでに、立ち入り禁止のはずの屋上にいたことも問題だ。ここには寄らないよう暗示もかけて、安全な場所に移動させる。
異能を使う必要もない、簡単な仕事。日常茶飯事といっても過言ではない。
魔物の死体はそのうち魔力の粒子になって消えていくだろうし、街全体には探偵が張り巡らせた魔道収束の結界もある。魔力はそこに消えるだろう。
だから死体をそのまま放置したのが、一連の事件における翠の最大の失態にして、最初の後悔だ。
その翌日。
ふと、気になることがあった。そもそも、どうして青空は昨日、屋上にいたのかと。
だから昼休みにでも彼に声をかけて、カマをかけてみることにしたのだ。
「天宮さん。あなた、屋上に出入りしていますよね?」
「……なんで知ってるんだよ」
廊下で一人になったところを狙えば、返ってきたのは思いっきり渋い顔。
事務連絡程度の会話しかしたことのなかった彼と、初めて交わしたプライベートな会話。
そして、この次の言葉もある程度予想できた。昨日は屋上に近寄らないようにと、念入りに暗示をかけたのだ。だから、もう行かないとか、そういう言葉が来るものだとばかり思っていたのだけど。
「副会長に言うのもなんだけど、黙っててくれるか? 久井先生から鍵借りててさ。あんまり大ごとになったら、あの人にも責任がいくし」
「……」
「出灰?」
「ああ、いえ……その口ぶりだと、今後も屋上に出入りすると聞こえますね」
「まあ、そうだな」
一瞬呆気に取られてしまい、返事が遅れてしまった。
暗示が効いていない? いやでも、彼はどこからどう見ても、正真正銘一般人だ。一定の魔力量があれば弾けるが、魔力も持たない彼にそんなことはできるはずもない。
そんな疑問を抱えつつも、翠は彼に一つ提案した。
「黙っているのは構いませんが、条件があります」
「なに」
「今日はわたしも同行することです」
この時の嫌そうな顔は、時間を跨いだ今の翠にも、強く焼きついている。
◆
「それはもう、本当に嫌そうでした。思わず傷ついてしまったくらいには」
恨みがましそうに言うけれど、出灰は変わらず無表情だ。
つーか、信じられん。なにがって、クラスのマドンナ的存在の出灰の誘いに、そこまで嫌そうな顔をする俺のことが。
いやまあ、気持ちは分からんでもないけど。
「ま、大して仲良くないやつに放課後の行動を縛られたら、そりゃ嫌な顔もするだろ」
「傷つきました」
「ごめんて……」
「冗談です」
「……」
こいつ……無表情でジーッと見つめられるとマジだと思っちゃうだろ。あとドキドキするからやめてくれ。
◆
その後、午後からの授業も終わり、やはり屋上へ向かう青空の後ろを、翠はなにも言わずについていった。
三階から屋上へ続く階段に足をかけたところで、青空は足を止めて振り返る。
「マジでついて来た……面白いことなんか何もないぞ? いつもボーッとしてるだけだし」
「問題ありません」
表情ひとつ変えずに返した翠を見て、青空もこれ以上言っても無駄かと諦めたのだろう。階段を上り切り、扉を開いて寒空の下に踏み出した、その時だった。
青空の首が、なにかに噛みちぎられたのは。
「天宮さん……?」
転げ落ちる首。倒れる胴体。飛び散る血飛沫。
その全てがスローモーションに見えて、翠はなにが起きたのかを把握できない。
ただ唯一わかるのは、クラスメイトの天宮青空が、あまりにも呆気なく、その命を散らしたということだけ。
「どう、して……」
油断していた。魔力の反応はなかったし、異能も切っていた。
それ以上に、錯乱していた。
実のところ、出灰翠が誰かの死に立ち会ったのは、これが初めてのことになる。
旧世界で育ての親とも言える相手をこの手で葬ったのは、少し特殊な例だった。やつは本来の人の姿を捨てていたし、翠自身も覚悟してこの手で引導を渡したから。
緋桜の時は、そもそもその場にいなかった。彼が死んだことを感じ取り、ガルーダからその顛末を聞かされただけだったから。
そしてそれ以上に。
守らなければならない相手を失うということを、その痛みを。出灰翠は知らなかった。
「翠!」
「翠ちゃん!」
そうして気がつけば、親友と姉の二人が屋上に駆けつけていたのだ。
屋上には魔物の上半身らしきものが炎で燃やされ続けていたが、それをやった当人の記憶は曖昧だ。
ただ、屋上の扉にもたれかかり、千切れた首と胴体に対して一心不乱に異能を行使し続けるだけ。
「姉さん……どうして、どうしてわたしの異能じゃ治せないんですか……わたしのせいなのに……わたしが、油断していたからなのに……! どうしてっ!」
見たことのない、感情のまま涙を流す妹の姿に、姉はなにも言えない。
例え情報操作の異能であっても、死者の蘇生は叶わないのだ。それがグレイの持つオリジナルだろうが、幻想魔眼だろうが変わらない。
それだけは、絶対のルール。
分かっていても、翠は諦めきれなかった。
かつて仲間たちが一度は通ったその道を知らず、ここまで来てしまった灰色の少女は。諦めきれないから、唯一の可能性に賭けた。
「……朱音の銀炎なら、時界制御ならっ!」
「出来ない、とは一概に言えない。時界制御はあくまでも主観による時間を操って制御する異能だけど、私が幻想魔眼の所持者で、ここが新世界だから」
世界そのものの時間を、巻き戻すことができる。この新世界を作った、桐生朱音なら。
でもそれは、一体どれだけの負担を親友に強いることになるのか。自分自身の時間遡行ですら、彼女は記憶を代償にした。それよりはマシだと思いたいけれど、こればっかりはやってみないと分からない。
朱音にとっては無謀な賭けでしかなく、しかし翠にとってはそこに縋るしかない。
二者択一だ。
特に仲が良かったわけでもないクラスメイトの命か、親友か。
迷わなかったのは、朱音の方だ。
「大丈夫、記憶を奪られるほどの代償はないと思うから」
「ま、待ってください朱音!」
「朱音ちゃん、今の時間の記憶は?」
「葵さんと翠は記憶というより、記録として持ち越せると思いますが。ただ、そこに実感は伴わないので。それだけ注意してください」
「うん、なら大丈夫だね」
「姉さんまで! どうして!」
当の翠はまだなにも決めていない。心の準備なんて、出来ているはずもない。
なのにそんな自分を置いて、姉と親友は話を進めてしまう。銀の炎が、世界に広がっていく。
「父さんと母さんには、私から説明するから。翠は今度こそ、ちゃんと守り切ることだけ考えないと」
「うん、そうだね。翠ちゃん、これが翠ちゃんのやりたいことなんでしょ? だったら、私も朱音ちゃんも付き合うよ。だって私は、お姉ちゃんなんだからさ」
反論をひとつも許してくれず。
こうして世界は、時間を繰り返すことになった。たった一人の男の子を救うためだけに。
◆
鍋を食べる手は完全に止まっていた。コンロの火も消えていて、きっと中身は相当冷めてしまっているだろう。
向かいに座っている出灰は、顔を俯かせている。今の彼女の胸にあるのは、罪悪感か。それとももっと別のものか。
「これが、一番最初の出来事です。その後も繰り返しました。全部で七度、この二日間を。けれどその全てで、天宮さんはわたしの前で魔物に殺される。ありとあらゆる手を使っていたのに。二度目は仲間を呼んだ。三度目は切り札を切った。四度目は天宮さんを家から出さなかった。五度目は屋上に物理的に入れないようにして、それでもダメだったから六度目はわたしが屋上でずっと戦い続けた。それら全ての手を尽くして、七度目は死体も残らず存在そのものを完全に抹消した」
「それでも、ダメだったのか……?」
頷きがひとつ。
今出灰が語った過去七度のことは、俺が聞いても具体的にどれほどのものか理解できないものだ。しかし、その道の専門家である出灰が、全ての手を尽くしたと言う。
その上で、俺はのうのうと殺された。
そして俺が殺されたせいで、出灰がこんな、今にも泣き出してしまいそうな、迷子のような顔をしている。させてしまっている。
「もう、本当にダメだと思っていたんです。けれど八度目の今回、初めてあなたが生きて、三日目を迎えられた」
「出灰……」
紅い瞳は潤んでいる。
記憶は持ち越さないと言ってはいたが、それでも記録として彼女の中に、過去七度の喪失が刻まれている。
その違いも俺にはよくわからないけれど。でもきっと、彼女の心を揺れ動かすには、十分なものなのだろう。
「どうして今回は生き残れたのか、守りきれたのかは、わたしにも分かりません。けれど唯一、過去七度と違う点はあります」
「まさかとは思うけど、一日目の時点で俺と接触したことか?」
「はい。いつもなら、一日目の屋上には既に魔物がいました。けれど今回はそうじゃなかった。その理由も分かってはいませんが、それも過ぎたことです」
問題は、これから先。
昨日、出灰たちが化け物を倒してくれたとはいえ、今後も襲われない保証はない。
「そもそも、あの魔物は通常と比べるとかなり異常な点が見られます。きっと魔物を操っている黒幕がいるはず」
「悪い魔術師、ってやつだな」
「そうです」
頷いた出灰が、立ち上がってテーブルを回り込み、俺のすぐそばに立つ。
どうしたのかと首を傾げていると、膝の上に置いていた俺の手を取った。
「ちょ、出灰っ……?」
あまりに予想外だったため、慌てる俺。
意外と小さい手なんだなとか、柔らかいなとか、体温高いんだなとか、諸々の邪念が過ぎったけれど。
俺の手を取った彼女の両手は、震えていて。祈るように自分の額へ持ち上げた姿が、あまりにも小さく見えて。
つい、彼女の両手を握り返してしまった。
「大丈夫だって。今の俺は、ちゃんと生きてるよ」
「はい……でも、すみません。しばらくの間、こうさせてください」
涙は流れない。鼻を啜る音も聞こえない。
でもたしかに、俺の両手を握る彼女は、泣いていた。
一体どれだけの時間、彼女はそうしていただろう。俺はただ出灰が元の調子を取り戻すまで待つことしかできず、そうするとまた邪念がむくむくと起き上がって来てしまう。
よくよく考えると、かなり至近距離に出灰の体があった。もはや抱き合っていると勘違いされそうな距離。不自然に速くなった心臓の鼓動が聞かれてやしないかと心配になる程。
サラサラで手触りの良さそうな髪も握られている両手に当たっているし、もし片手だけでも空いていたら不躾にもその頭に置いてしまいそうだ。両手で良かった。いや良くない。
あとめっちゃいい匂いする。なんで? 吸血鬼だから?
「すみません、もう大丈夫です」
「ん、おう」
内心の邪な感情を悟られぬようにと思っていたら、ちょっと素っ気ない返事になった。
しかし出灰は気にした様子も見せず、元の席へ戻る。コンロに再び火をつけて、鍋の中を温め直してくれた。
「安心してください。天宮さんは絶対に、命に変えても、わたしが守りますから」
「命には変えないでくれよ。俺だけ生き残って出灰がいないなんて、そんなのは絶対嫌だからな」
「まあ、わたしは吸血鬼で不死身なのですが」
「そ、そうか……」
変える命ねえじゃん、っていう冗談なのだろうか。分かりにくいよ吸血鬼ジョークは。
ぐつぐつと鍋の中も再び煮込んできたところで、ポケットに入れていた携帯が震えた。見れば、ラインの着信。相手は母親だ。
「マジか……」
ラインの内容を見て、思わず呟いてしまう。
向かいで可愛らしく小首を傾げている出灰。そういえば、後で連絡先とか聞いといた方がいいのだろうか。
でもなんか、自分から言い出すのはちょっとな……守ってもらう気満々みたいで、なんか違う感じがする……。
「どうしたのですか?」
「いや、母さんが今日からしばらく会社に泊まるらしくてさ」
これ自体は、別に珍しいことじゃない。仕事先でそれなりに重要なポストについている我が母親は、年がら年中繁忙期。特に忙しくなり始めると、こうして家に帰らなくなることだって珍しくない。
だがこれにはひとつ、問題点がある。
そう、金がないのだ。いつもなら朝、毎日仕事に行く前にテーブルの上にでも三千円くらい置いて行ってくれるのだが。こうなると、俺の銀行口座に一万円ポンと振り込んでくれるだけで、その後一週間以上は大体音沙汰なしになる。その間、俺は期限不明の一万円生活を余儀なくされるのだ。
「困ったな……今日の材料費も出灰に払わないとだし……」
少なくとも、千円以上は払わなければならない。材料費もそうだが、飯を作ってくれたのだから、少し多めに払うのがスジというものだろう。
これからしばらくの生活をどう過ごすかと悩んでいると。
「ひとつ、わたしに提案があります」
「ん?」
「今日からしばらく、わたしも天宮さんの家で寝泊まりすることにしましょう」
「は⁉︎」
本日何度目かも分からんが、耳を疑ってしまった。いやしかし、魔術だなんだの説明をされる時よりも驚きがでかい。
思春期の男子にとって、そりゃファンタジーな存在は一種の憧れではあるだろうけれど、それらはないのが当然と思っている。
しかし、クラスメイトの女の子と一つ屋根の下、となれば話は別だ。
日常の延長にある、連続性のある非日常は、手が届きそうで届かないところにある。何かの間違いで届いてしまう可能性がある。だから男どもは夢を見てしまうのだ。
ああそうかなるほど、これは夢か。なーんだ夢かー。
なんて、現実逃避はなんの意味もない。
「その方がわたしも天宮さんを守りやすいですし、見た限り普段からまともな食生活を送っていなさそうですし」
「いやいやいやいや待て待て待て!」
「食費もカツカツなのでしょう? わたしは使わないお金ならたくさん持っていますから、その心配もありません」
「心配だらけだわ!」
「安心してください、変な気を起こそうとすれば、その瞬間から雷が落ちますから。比喩ではなく、しかも黒い雷が」
俺の言葉にはひとつも聞く耳持たず。ましてや守ってくれると言ってくれる相手を無理矢理追い出すこともできず。ていうかそもそも、吸血鬼相手にそんなことが可能なわけもなく。
なし崩し的に、クラスメイトの可愛い女の子との同居生活が始まろうとしていた。




