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浮遊 2

 友人の定義について、考えたことはあるだろうか。

 思春期にもなり、捻くれた態度の一つや二つを取ったことのあるやつなら、一度くらい考えたことはあるだろう。

 果たして、どこからが友人でどこまでが知人なのか。友人になるための条件は? 友達になろう、と改まって言うわけでもなく、しかし自分はそうだと思っていても、相手がこちらを友人と思ってくれているとは限らない。

 例えば、ふとした拍子に自分のことを友人だと紹介してくれたりして、そこで初めて、俺たちって友達だったんだ、と気づくパターンだってあるだろう。


 かく言う俺、天宮青空には友達と呼べるほど深い関係を築いた相手がいない。もしかしたら相手は俺のことをそう思ってくれているのかもしれないが、俺からしたらみな一様に単なるクラスメイトだ。


 これはなにも、友達のいない俺かっけえ、みたいな擦れた考えをしているのではなく、人間強度が下がるから友達を作らないなんて、どこぞのラノベを引用するつもりもない。

 さらに言えば、友達がいないだけで孤立してると言うわけではないのだ。

 体育の授業でペアを作るのに困ることはないし、ラインの友達欄にはクラスメイトの名前がいくつかある。入学した時、クラスの懇親会的なものにもちゃんと誘われたし、文化祭や体育祭ではちゃんとクラスに協力した。

 決してぼっちではない。対外的には一応上手くやっているつもりだ。媚び諂って、とまでは言わずとも、外面の良さに関しては一過言あるのが俺だから。


 ただそれとは反対に、対内的とでも言えばいいか。俺自身の心情的には別だ、という話なだけだ。

 どれだけ外面を取り繕おうとも、輪を乱さぬように波風立てぬように、上手く立ち回ろうとも。みんなに馴染めている気がしない。その輪の中に、入りきれない。

 畢竟、相手に深く踏み込むこともなく、自分に深く踏み込ませることもなかった。その結果、高校生にもなって友達の一人もできない俺、という聞くやつが聞けばただの気取った野郎になってしまった。


 友人の定義。きっとこれは、現代を生きるほとんどの人間が、言語化する必要も感じないほどに当然のものなのだと思う。言葉を弄さずとも心で感じられる、というやつだ。

 それでも人間関係というものは、時に明確な言葉を必要とする。相手の感情を言語化させたくなる。それがたとえどれだけ曖昧なものであっても、そうせざるを得なくなる。


 だから俺は、人間関係というものが苦手であり、他者とのコミュニケーションが不得手なのだ。言葉や文字は人類史始まって以来最大の発明品と名高いけれど、それひとつで複雑怪奇極まる人の感情を全て伝えられるわけがなく、同時に人は、その全てを言葉だけで受け止め切れるほど優秀な生物ではない。


 なのできっと、それは一朝一夕で築けるものではなく。多くの妥協や折り合いをつけなければならないものだ。

 あるいは。物語のように、数多のすれ違いや対立を経た末の理解、というものだってあるかもしれない。


 長々と持論を述べてしまって申し訳なかったが、結局のところ俺が言いたいところは、ひとつ。


「まずは、友人というものを目指してみましょう」


 だから、友人の定義ってなんだよ。



 ◆



 それは、朝の教室でのことだった。

 時刻は七時三十五分。朝のホームルームまでまだ一時間以上ある教室には、俺と出灰以外の生徒はいない。俺にとっては日課であるが、わざわざ職員室に寄って教室の鍵を取ってきたのだ。普段と違うのは、俺の後ろから小柄な灰色の少女が、てくてくついてきていることか。


 登校中もなにそれとなくポツポツ、スローペースな会話は続いていた。授業の内容についてだったり、出灰の友人二人についてだったり。

 俺はこんな性格だから、話題を提供するなんて気の利いたことはできなかったが。意外なことに、出灰の方は話したいことがたくさんあったみたいで。というより、友達自慢をたくさんしたかったみたいで。

 土御門と桐生の話をしている時は、心なしか目が輝いて見えたほどだ。


 間話休題。

 はてさて、およそ三十分ほど掛けて辿り着いた学校、教室にて。荷物を置いて席に座り、普段なら読書するなり授業の予習をするなり、ソシャゲをポチポチするなりのこの時間に。

 普段とは違う一人の異分子が、突然そんな提案をしてきた。


「友人、ねぇ……」

「はい」

「それは、なに。出灰のお姉さんがそう言ったから、ってわけ?」

「いえ、姉さんは関係ありません」


 まあ、そうだわな。

 そもそもが今日、朝に俺の家の前に現れたのは、出灰のお姉さん、黒霧葵先輩からご近所さんなんだから仲良くしなさい、的なことを言われたかららしいが。

 出灰も高校生だ。姉に言われたから、なんて主体性のない理由でこんなことは言わないだろう。だがそれで言うと、高校生にもなってわざわざ、友人を目指そう、などと言うのも変な話だ。


 どこかズレてるというか、天然というか。

 世間知らずなわけではなさそうだが、その外見同様、言動や雰囲気に、ときたま浮世離れしたなにかを感じる時がある。


「わたし自身が、あなたを好ましい人間だと認識したまでです。そう感じた相手への申し出としては、なにもおかしくないと思うのですが、どうでしょう?」

「お、おう……そうか……」


 好ましいとか真正面から真顔で言わないでくれよ。照れるじゃん。男は可愛い子からそんなこと言われると勘違いするんだぞ。


 しかし、たしかに出灰の言っていることはおかしくない。その言葉に矛盾のようなものはないし、日本語としても成立している。ただ問題は、それをわざわざ口に出して言うやつはいない、という点であり。その申し出をしていること自体がおかしなこと、とも言える。

 それを指摘しようとしても、無表情でこてんと小首を傾げ俺の返事を待っている出灰を見れば、どうにも憚れてしまう。


 かと言って、この申し出を断る、というのもどうだろう。

 十六年生きてきた人生でお友達になりましょう、なんて改まって言われたことは、少なくとも記憶にない。それこそ幼児の頃は保育園なんかで言ったり言われたりしていたのだろうけど。物心ついたどころか思春期真っ最中の今現在、ここまで小っ恥ずかしい申し出を真正面から聞いてしまったのだ。

 これを真っ向から断るのはちょっとやりづらいので、上手くはぐらかす方向でいくとしよう。


「そういうのって、わざわざなろうって言ってなるもんでもないんじゃないの」

「ふむ、たしかにそうかもしれませんね……」

「もしかして、土御門とか桐生の時もそんな感じだった?」

「彼女たちの時は……なんと言いますか、苦労を共にしているうちに、と言いますか。わたし自身でも気がつかないうちに、友人と呼べる仲になれていたみたいでして」


 その時のことを思い出したのか、僅かに頬が綻ぶ。不意の笑顔は随分と可愛らしくて、訳もわからず心臓が跳ねた。

 これだから顔がいいやつは。


「まあ、つまりはそういうことだろ。別にいちいち言わなくても、ある程度一緒の時間を過ごしてたら、勝手に友達になってるもんじゃないのか」


 俺には友達がいないので知らないけど。


「なるほど。つまり、あなたもわたしと友人になることについては、やぶさかではない、ということでしょうか」

「……あっ」


 しまった、適当にはぐらかすつもりだったのに、知らん内につい肯定してしまうようなことを言っていた。それもこれも出灰の笑った顔が可愛いのが悪い。

 あんなの見せられたら、遠回しにだろうが断れるわけがない。


「その反応は肯定と捉えてもよさそうですね」

「好きに捉えてくれ……」


 今更否定するのも変なので、ため息と共にそう答える。

 実際、俺自身も嫌だとは思っていないし、むしろ出灰翠という人間対して、自分で驚くくらいには好感を抱いている。


 なにせ話しやすい。彼女といる時は、他の奴らの時と違って、自分だけが浮いているような、あの独特の感覚がないから。

 それがなぜなのかは分からない。昨日の屋上のことから、まさか小説や映画のような出来事を期待しているわけでもないし。かと言って、彼女に恋愛的な好意を抱いているなんてのもありえない。出会ったばかり、ではないが、まともに話すようになったばかりだ。俺は出灰のことを碌に知らないし、逆もまた然り。


 ただ、こいつとならいい友人にはなれるのかな、と。漠然とした期待のようなものは、たしかにある。


「そろそろ、他の方たちが来そうですね」

「ん、そうだな」


 時計を見ると、もう八時前になっていた。

 俺たちの会話はゆっくりしたペースだから、さほど会話量が多くなくても時間はそれなりに経過している。


 それからポツポツとクラスメイトが教室に入ってきて、適当に挨拶も交わしていると、出灰との会話は途切れてしまった。

 そしてさらに十分ほどしてから、我がクラスのアイドルたちがやって来る。


「おはよー翠!」

「おはようございますわ、翠さん」


 元気なのが桐生朱音。楚々とした丁寧なのが土御門明子。共に出灰の親友で、どこに行くにも三人一緒にいる。

 普段なら出灰も二人と登校していたところなのだが、今日は俺に付き合って朝早くからの登校だった。その点は、土御門と桐生にちょっと申し訳なく思っている。


「おはようございます、朱音、明子。一緒に登校できずすみません」

「別にいいけど、なにか用事でもあったの?」

「家の周りのお掃除、とかですか?」

「いえ、用事があったのは事実ですが、《《そちら》》の話ではありませんよ」

「それは良かったですわ」

「まあ翠の家の周りに出るなら、葵さんが最初に気づくだろうしね。それにその時間なら、紫音さんと朱莉さんが出るんじゃない?」

「ええ。わたしたちは朝に弱いですから」


 つい、三人の会話に耳を澄ませてしまう。途中からはなんの会話をしているのかも分からなかったけど、それでも三人は今日も変わらず仲良しだ。

 チラリとそちらに一瞥くれてやれば、丁度、出灰と目が合ってしまった。


 尚もやいのやいのと元気に会話している親友二人を尻目に、俺の方を見て。僅かながら緩んだ表情で、人差し指を口元に立てる。


「ん、どうしたの翠?」

「いえ、なんでもありません。それより朱音、昨日はどうだったのですか? 丈瑠とデートだと聞いていましたが」

「あら翠さん、まだ報告されていませんでしたの? 聞いてやってくださいな、朱音さんたら昨日──」

「わー!! 待って明子ストップストップ! 自分で言うから!」

「なにがあったのですか……」


 すぐに桐生に見咎められて、視線がぶつかったのはほんの一瞬だけだったけれど。

 三人がまた会話を始めて、やがて朝のホームルームが始まり授業の時間になっても、心なしか、俺の心臓は動きが早いままだった。



 ◆



 というようなことが朝にあったとは言っても。出灰には出灰の交友関係があり、俺だけに構っている時間などない。

 休み時間や昼食をいつも通り一人で過ごし、いつも通りの放課後がやってきた。

 彼女は生徒会の仕事もあって、あの二人と早々に教室を出ている。この感じだと、次に会うのは明日か。恐らくだが、また朝早くに俺の家の前で待機していそうだ。


 しかし今更ながら、どうして俺が家を出る時間を知っていたのだろう。まさか、あれよりもままだ更に早くから待ち伏せていた、なんてことはないだろうし。誰か教師から話を聞いて、学校に来る時間から逆算したとか? いやそれにしても、教師に聞く時間なんてなかったはずだ。姉の黒霧先輩に仲良くしろと言われたのは、どう考えてもあの後、家に帰ってからだろうし。


 どうにも不思議というか、納得のいく説明がつかない出来事に首を傾げながら教室を出て、足は自然と屋上に向かっていた。

 ほとんど無意識だ。たしかに鍵はまだ久井先生に返していないけれど、昨日ドアノブが壊れてしまったし、扉を開く術がない。


 そう分かっているのに、なぜか。屋上へ行かなければならないような気がして、足は止まらない。

 分からない。今のこの感情を、言語化できない。はっきりと言えるのは、ただ屋上に行かなければと、半ば強迫観念のようなものに駆られているという事実だけ。

 きっとそこに行けば、俺の求めているなにかがあるのかもしれないと。根拠のない期待もあったかもしれない。


 やがて辿り着いた先、屋上の扉は、壊れていたはずのドアノブが完全に直っていた。たった一日で直るものなのか、というか昨日は壊れたことを誰にも報告していなかったはずなのに。

 湧き出る疑問すら、しかし抱いた期待に勝てない。直感的に、鍵を取り出すことなくドアノブへ手を伸ばす。


 果たして僅かな抵抗もなく動いたドアノブは、俺の意思通り周り扉を開ける。

 一歩踏み出せば、広がっているのは青空だ。太陽は傾きかけているけれど、それでも未だ、空の青は視界の果てまで広がっている。流れる雲の数は少なく、快晴と言って差し支えないだろう。

 吸い込まれるような、澄んだ空の色。


 屋上に上がると、いつもそれに目を奪われる。世界の果てまで広がっている空に。魔力があるという比喩が、この上なく正しく思えるほど。

 ふらふらと数歩歩いて、屋上の中心から空を見上げる。


 でも、それだけだ。

 それはたしかに美しく、俺の目を捕らえて離さない空だけど。

 ここまでは、いつもと同じ。俺が期待したなにかは、ない。


「今日も来たんですか」


 背中に掛かった声に振り返れば、誰もいない。俺の友人になるなどと物好きなことを言ったやつの声が聞こえたと思ったのだが、まさか幻聴だとでもいうのか。


「上です」

「えっ」


 顔を少し上げれば、その声の通り扉の上、屋上にある唯一の建屋の上に座っている、クラスメイトの姿が。


「おまっ、なんでそんなとこ登ってるんだよ……」

「すぐに降りますよ」


 俺の背丈の倍はありそうな屋根の上から、出灰が飛び降りる。焦る俺のことなどお構いなし。なんなら翻るスカートもお構いなしに、音もなく華麗に着地。なるほど、白か。死ねよ俺。


「なにしてんだよ」

「ドアノブを直してもらったので、その確認に。天宮さんこそ、どうしてまた屋上に?」

「俺はまあ、昨日と同じだよ」


 嘘は言っていない。ていうかそもそも、言えるわけもない。求めているなにかがあると期待してここに来たら、出灰がいました、なんて。


「ていうか、ドアノブのことちゃんと報告してたんだな」

「帰ってから顧問に連絡しました。すぐに業者を手配できたみたいですね」

「まあ、早く直るに越したことはないけどさ。今度はあっちも壊れてないか?」


 指で示した先は、屋上を覆うフェンスだ。その一部が、捲れ上がったようにして破損している。自然にああはならないだろう。誰か、人間の手によるものだとしか思えない。


「……本当ですね。あれも報告しておきます」

「んじゃこれ、渡しとくな」


 ポケットから取り出したのは、この屋上の鍵。ドアノブ程度ならまだしも、さすがにフェンスが壊れているとなると、こいつは俺が持っているべきじゃないし、しばらくは立ち入らない方がいいだろう。

 いや、ここは元から立ち入り禁止なのだけれど。


 俺のものより小さな手の上に、鍵を落とす。

 これでたしかに鍵は渡した。後は出灰から久井先生に返しといてもらうだけだ。


「しかし、なんであんな壊れ方してるかな。あれ、絶対誰かがやっただろ」

「……そうですね。自然にあんな壊れ方をすることは、まずないでしょう」


 どうにも、出灰の歯切れが悪い。いつもの無表情で、無感動な声音ではあるけど。どう言えばいいのだろう、ただの印象でしかないのだが、どことなく言いにくそうにしている雰囲気、のようなものを感じる。


「なんにせよ、取り敢えず屋上から出るか」

「ええ」


 予想外に時間が余ってしまったが、この後はまあ、家に帰るか。どうせ学校にいてもやることはない。家で勉強するなり、ゲームするなりで時間を潰すとしよう。


「出灰は、まだ生徒会か?」

「いえ、この時期は特に大きな仕事もありませんから。今日も帰るだけです」

「そうか。なら今日も一緒に帰るか?」


 言ってから、その言葉に俺自身でも驚いた。

 昨日もそうしたのだから、別におかしなことではないと思うのだけれど。それでも、自分の口からその提案が出るとは、まさか思っていなかったから。


 それはつまり、俺も彼女と友人になりたいと、そう思っているのだろうか。

 そんなことすら自分でもよく分かっていなくて、いい加減嫌になる。


 自己嫌悪に陥る中でも、一度出した言葉を取り消すことはできない。時間は不可逆で、音という形を持ってしまったそれは確実に、彼女の耳に届いてしまっているのだから。


 果たして出灰は、一瞬驚いたような顔をしていたけど。柔らかく表情を綻ばせて、言った。


「そうですね。せっかくのお誘いですから、ご一緒しましょうか。ただ、そうなると朱音と明子に断りの連絡をいれなければいけませんが」

「ああいや、先約があるならそっちを優先してくれ。ていうか、なんなら今のは忘れてくれてもいいから……」


 先約があることまでは頭が回っていなくて、ぶわっと顔が赤くなるのを自覚する。あまり見られたくなくて手で顔を覆う。恥ずかしいどころの話じゃないな、これ。


「忘れませんよ。天宮さんも、わたしと友人になりたいと思ってくれているのでしょう? でしたら、断る理由はありません。朱音と明子にも、事情を説明するのは多少気恥ずかしくはありますが、理解は示してくれるでしょうし」


 常よりもほんの少し、声色が弾んで聞こえるのは、気のせいだろうか。俺の勘違いなら良かったのだが、スマホで友人に連絡している彼女は、やはりどこか楽しそうだ。


 気を遣わせてしまったということはなさそうだけれど、意外にも素直な反応を見せられると、こっちの調子が狂ってしまう。


 連絡し終えたのか、スマホをしまって顔を上げた出灰は、しかしその次の瞬間、目を見開いて大きな声をあげた。


「天宮さんっ、伏せて!」

「えっ……?」


 突然のことで、反応が遅れる。

 そんな大きな声を出せたのか、なんて感想が頭の中に浮かんで、その間にも出灰は俺の頭を押さえ付けて無理矢理伏せさせられた。


 いきなりなんなんだと抗議の声を上げようとしたが、彼女の険しい顔を見て、言葉は喉の奥に引っ込む。振り返ってその視線を追おうとしたが、それも叶わなかった。

 正確には、追うまでもなく、出灰の見つめる相手が目の前に現れたから。


 それは、黒い毛をしていた。

 真っ先に俺の目に映ったのが黒い毛のなにかで、鋭い爪のようなものが振り下ろされていたから。

 そいつを細い右腕で受け止めた出灰は、やはりひとつも表情を変えていない。

 俺よりも頭ひとつ分小柄な少女に抱えられて、襲ってきたなにかから距離を取る。


 言うなれば、狼が一番近いだろうか。

 四足歩行に三角の耳。黒い毛に覆われてはいるものの、隆起した筋肉は毛皮の上からでも見て取れる。なにより一番信じられないのは、背中から二枚の翼が生えていることだ。

 学校の屋上に突然そんなやつが現れたことだけでも驚愕を通り越しているが、その姿それ自体も、あまりに常識から外れている。


「全て倒したはずなのに……」

「なんだよあれ……なんで学校にあんなやつが……」

「天宮さん、今すぐ逃げてください」

「は? 逃げろって言われたって、出灰はどうするつもりだよ?」

「わたしはあいつの相手をします」


 なにを言ってるんだ彼女は。相手をするだって? 無理に決まっている。明らかに、こちらの常識を外れた存在だ。ただの女子高生がどうこうできるようなやつではなく、大人を呼んだって安心とは言えない。

 警察、いや専門家を呼ぶべきだ。だから一緒に逃げようと。


 言いたくても、言えなかった。

 出灰の右手には、いつの間にか長柄の武器があったから。

 槍と斧を一体化させたようなそれは、たしかハルバードと呼ばれる武器だ。鈍く光る金属は、どう見ても本物。

 生物の命を刈り取る道具。


「ただの魔物じゃない……赤き龍の魔力も混じってる……?」


 ぶつぶつとなにごとか呟いているが、その意味までは理解できない。まるでゲームの攻略法でも呟いているようにしか聞こえないが、この状況がそうではないことの証左だ。


 チラリと後ろを見てみると、ただでさえ常識外れな化け物が、もう一体。扉の前に降り立った。


「出灰、後ろに二匹目が……」

「……仕方ありませんね。天宮さん、絶対ここを動かないでください」


 返事をする間もなく、彼女の姿が俺の隣から消える。気がつけばその背中に灰色に輝く翼を背に六枚伸ばした出灰翠は、化け物の懐に潜り込んでいた。

 その得物で、狼の首を斬り落とす。あっという間に沈んだ化け物に一瞥もくれることなく、即座に切り返して俺へ向けて大きな口を開けていた二体目へ肉薄した。


 綺麗な灰色の翼がはためく。

 開いた口に斧槍を突きつけ、狼の頭を貫く。得物を抜いて血を払い、二体目の狼もあっけなく事切れた。


 一瞬の出来事だった。

 未だ脳が状況を理解しきれず、いや理解を拒んでいると言ってもいい。


 ただ、それでも。視界の中で、首を斬り落とされたはずの一体目が動いているのは、見えてしまって。


「出灰!」

「……っ!」


 油断していたのか、出灰の反応は遅れている。マズい、と。そう思ったその瞬間、彼女と化け物の間に、大量の紙のようなものが降り注いで壁となった。

 アニメやゲームなどで見たことがある。いわゆる陰陽師と呼ばれるようなやつらが使っている、ヒトガタという紙だ。


 続けて、首なし狼の体が縦に真っ二つに切断された。血を撒き散らして再びコンクリートの地面に沈む死体。


「翠さん、無事ですの⁉︎」

「油断大敵! 翠、そっちもまだ動くよ!」


 空から降りてきたのは、クラスメイトで出灰の親友である二人だ。土御門明子と桐生朱音。

 土御門はさきほどの紙を一枚、桐生は短い剣をその手に握っている。


 その二人から呼ばれた当の本人はというと、頭を貫いた死体の背中に再び斧槍を突き刺していた。

 そこになにか、光り輝く円が現れて、発火。死体を焼く。


「問題ありません」

「一体なにが……」


 なにが起きているのか。

 説明を求めて三人のクラスメイトを見るも、土御門と桐生はあちゃー、みたいな顔をしている。なんだその、やっちゃったみたいな顔は。

 残る出灰に視線を向ければ、彼女はこちらに歩み寄ってきて、申し訳なさそうな顔をした。

 ほとんど無表情と変わらないけれど。この二日で、ある程度表情の動きを読み取れるようになった。


「すみません、天宮さん。今日のことは、全部忘れてもらいます」

「は? 忘れてもらうって、どういう……」

「今日のことだけでなく、念の為昨日からの記憶を、改竄させてもらいます。こちらに巻き込まないためです」

「ちょっと待ってくれ! 昨日からってことは、お前、俺と友人になるって、今朝言ったばかりだろ!」

「そうですね……あなたとは、本当に友人になりたかった」


 何の説明もされず、出灰の腕が俺の頭に伸びてくる。

 額に触れた途端、意識が遠くなった。

 言いたいことも聞きたいことも全部吹き飛んで、そうして俺は、なにも分からないまま、彼女と友人になれることもないまま。


 全てを、忘れた。

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