浮遊 1
海から吹くのは、十二月の寒風。周囲に誰もいない屋上では、実際の気温以上の寒さがある。いや、寒いのだから以下、と言うべきだろうか。日本語の難しいところだ。
十六年この国で生き、この国の言葉を使っていても、それを十全に使いこなせたと思える瞬間はなかった。そも、意思疎通のツールとしてはいささか以上に不便なのだ、言葉や声というものは。
かつて天にも届く塔を建てようとした人類は、神の怒りを買い言語を分たれたと言う。その時点で既に、いや恐らくはそれよりもっと前から、人と人との正確緻密な意思の疎通というものは、不可能だったろう。
かく言う俺は、他人との交流はおろか、自身が今現在抱く思いというものであっても、明確な言語化が出来ないでいた。これはなにも俺自身に教養が足りないわけではなく、さりとて自分の感情が分からないなんて斜に構えたことを言うつもりもない。
ただ、言葉にするのは難しい。それでも強いて表すとするのならば。
「ここから落ちたら死ねるかな」
これに限った。
フェンス越しから見下ろす地上の景色は、何メートルあるだろうか。地上五階に位置するここからだと、嫌に遠く感じる。
なにも自殺願望があるわけではない。死にたいだなんて思ったこともなく、しかし好奇心というにも少し違う気がする。
飛び降り自殺、なんてのはどこかしらで見た覚えのある言葉だが、実際にそうした誰かを見たことはない。だから、本当にここから飛び降りたら死ねるのかと、疑問に思った。ではなぜその思考に至ったのか?
その根源となる感情を、あるいは願いを、俺は言語化することができないのだ。
ただ、でも。飛び降りる、というその言葉は、どこか甘美に思えてしまう。
幼い頃から、俺は自分がどこか他人とは浮いている、と感じることがあった。
これもまたうまく明言、言語化できるものではない。自分が特別だと勘違いしている痛い野郎、つまりは思春期特有のある心の病とは違って、ただ漫然と、漠然と、他人とはなにかが違うと、輪の中にいてもなぜか浮いている様な気持ち悪さがあった。
いや、事実痛い野郎ではある。だって俺は外見だけで言えば、特別でもなんでもない。中肉中背、顔は平凡そのもの。成績は平均を上回ることもなく、かといって下回ることもなく。運動は苦手ではないが、好きと言うほどでもない。誰がどこからどう見ても、面白みのない普通を具現化した男。
だから自覚は持っているし、高校生にもなっていまだこんなことを考えているのだから、やっぱり厨二病のお仲間なのだろうけれど。
浮いている。外れている。ふわふわと、地に足がつかない。現実に対して現実味がない。必然的に他者とのコミュニケーションが苦手となった俺は、自己認識に頼らずとも学校という狭いコミュニティの中で浮くことになった。
いや、勘違いしないでもらいたいのは、虐められてるわけではないということだ。こんなところであんな戯言をほざいていては、勘違いされるのもおかしくはないけれど。
繰り返すようだが、俺は痛い野郎、厨二病と呼ばれても差し支えない馬鹿なのだから。
「天宮青空」
誰かが、俺の名前を呼んだ。
聞き覚えのある声だ。女子にしては低く、小さな、そのくせこの夕空の下に透き通って聞こえる、綺麗な声。
たっぷり時間をかけて振り返ったのには、僅かな抵抗の意思があったからか。もしくは、驚愕していたからか。多分その両方だと思う。だってここは立ち入り禁止の屋上で、俺はここに来た時に鍵をかけた。
他に人が来れるはずもない、と思っていたばかりに驚愕して、咎められるまでの時間を少しでも引き伸ばそうと無駄極まりない抵抗を試みたわけだ。
「ここは立ち入り禁止ですよ。内側から鍵をかけてまで、なにをしているのですか」
「出灰翠……」
同じクラスの中でも、特に目立つ女子三人組の一人。生徒会副会長。日本人離れした灰色の髪と赤い瞳の、無表情無感情なクラスメイト。
今も全く動かない表情と赤い瞳で俺を見つめ、抑揚のない声を発する。
「質問に答えなさい。ここで、なにをしているのですか」
「別に……」
他者とのコミュニケーションが苦手な者は、大別して二種類いる。
会話ができる者とできない者だ。
幸いにして俺は前者だった。クラスメイトとも事務連絡程度なら普通に話すし、授業中に当てられたところで取り乱すことはない。
ただこの時に限って言えば、俺にとって想定外のことが起きていたため、まともな返事を返すことができなかった。
出灰は何を言うでもなくじっとこちらを見つめたままで、それは俺の明確な答えを待っているのだろう。
待ってくれると言うなら、思考に時間を費やせる。冷静になるまでに時間を使える。
まず、なぜ彼女がここにいるのか。屋上に続く扉はひとつしかなく、そのための鍵も今は俺が持っている。担任の久井聡美先生から、たまに貸してもらえるのだ。その代わり、彼女の雑用を手伝わされるが。
可能性があるとすれば、マスターキー。あるいは他の教師が管理していた二つ目の鍵。
まさか立ち入り禁止の場所へ向かうための鍵がひとつ、なんて杜撰な管理はしないだろう。ここは神聖なる学び舎だ。生徒の安全を考えれば、二つ以上鍵があってもおかしくない。
いや、ここへ来た方法はそうだとしても、出灰がここへ来る理由の方が思い当たらない。
が、ふと思い出したことがある。たしか、久井先生は生徒会の顧問ではなかったか? 嘘、俺教師に売られた? 考えたくはないけど、あのぐうたら教師ならあり得る。マジであの人はなんで教師になれたんだってくらい物臭な性格だから。
だからって、同じく立ち入り禁止である生徒の出灰に頼むのはどうかと思うが。
仮説は成り立った。出灰翠がこの場にいる説明は、今ので十分につくだろう。
そうであれば、なにも焦ることはない。優等生な生徒会の副会長様が、不良生徒の指導にやってきたのだ。
十秒以上たっぷり使ったはずなのだが、出灰の表情にやはり変化はなく、引き続きこちらをジーッと見ている。そこまで見られるとなんか照れ臭くなってしまって、つい視線を逸らしてしまった。
「別になにもしてない。ただなんとなく、ここでぼーっとしてただけだ」
「変なことは考えていないと?」
変なこと、とは。まあここから飛び降りるなりなんなりってやつだろう。全く考えていないといえば嘘になってしまうが、しかしそんなことをするつもりは毛頭ない。
「こちとら根っからの小市民なんだ。そんなことする理由もないし、度胸もない。なんならこのフェンスを乗り越えられる自信もないからな」
「では、なぜわざわざ屋上に? あなたの言葉が真実であるとして、屋上でなければならない理由はなんですか」
「久井先生が鍵貸してくれたからだよ。文句ならあの人に言ってくれ」
これも嘘。屋上を選んだ理由は、ある。けれど例によって、その理由とやらを俺は言語化できない。言葉というツールを用いて出力できない。
ていうかマジで、文句は久井先生に行くべきだ。責任を追及されるべきはあの教師であり、なんなら俺は被害者とも言える。
俺の言葉に対する答えや返事のようなものはなく、一瞬の静寂が降りた。その間を嫌った俺の口から出たのは、先程自分自身で仮説を立てた問い。
「出灰こそ、なんでここに来たんだよ」
「……」
考えるだけの、間があった。五秒か、十秒か。あるいはそれより短かったかもしれないし、長かったかもしれない。
ともかく、出灰が思考を巡らせるだけの、明確な間。
ただ理由を話せばいいだけなのだから、考える必要も特にないと思うが。けれど実際、俺も同じような質問に同じような時間を取って返したのだ。なんともスローペースな会話である。
「あなたが屋上に向かうのを見た、という生徒がいましたから」
「へえ、わざわざ追いかけてきてくれたんだ。別に教室で話すわけでもないのに」
「クラスメイトであることに変わりはありません。それにわたしは、生徒会の副会長でもあります。校則違反を犯した生徒を指導する義務があります」
「真面目だな……」
今時こんなに真面目なやつもそうそういない。四角八面とでも言うべきか、真面目と言うよりかたくるしいと言った方が似合いそうだ。
そういうやつは、割と嫌いじゃない。ルールに沿って動くからだ。常識というものを守り、想定外の行動を取ることもない。つまり、先の言動が読みやすい。
「で、真面目な副会長様は俺をどうするつもり? 職員室に連行でもして教師に言う?」
「しませんよ、なにも。ここでわたしが厳重注意した、ということにしておけば、教師もなにも言わないでしょう」
これには驚いた。四角八面のかたぐるしい副会長様かと思えば、なんとも柔軟な対応をしてくれるじゃないか。
「わたし自身も面倒です。幸いにして、あなたがここにいたことはわたしたちしか知りませんから」
「面倒って……俺がここに来るのを見たってやつは?」
「……まあ、問題ないでしょう」
目の前のクラスメイトに対する印象が、一瞬で瓦解した。
教師にチクることを面倒だと言ったり、適当で投げやりな返事だったり、入学した四月から今日に至るまでの出灰翠という少女の像と、あまりに一致しない。
こいつ実は、意外と話しやすいやつなのでは?
無表情がデフォルトなせいで分かりにくいが、先ほどのやり取りにも人間味がある。いや、人間なのだから当たり前だが。
「さあ、分かったなら暗くなる前に帰りなさい」
「それを女子に言われると複雑だな」
暗くなって危ないのはそっちだろうに。綺麗な顔してるんだから、変な輩に絡まれたらどうするんだか。
と言っても、この棗市は治安のいい街だ。大通り、人の多い道を使えば、変質者が出ることもないしナンパみたいな真似をされることもないだろう。だからと言って、女子を暗くなった夜道にひとり返すのは、男としてなしだ。どうにも俺が帰らない限りは出灰も動き出しそうにないし、素直に従って屋上を出ることにした。
出灰を追い越して扉の方へ向かえば、なぜかそこにはカバンが挟まっていた。中途半端に扉が開いた状態になっていて、見ればあるはずのドアノブがなかった。
いや、いやいやいや、有り得ない。俺が来る時はたしかにあったはずだ。なければそもそも扉を開けないし、俺も出灰もここにいない。
あまりにも不可思議な現象に唖然としていると、あっ、という声が背後から。
振り返ると同時に出灰は俺の隣を通り過ぎて、挟まっていたカバンを手に取った。どうやら、彼女のものだったらしい。
「わたしが来た時に壊れてしまったんです。どうやら、老朽化していたみたいですね」
「そ、そうか……」
背中から、それ以上はなにも聞くなと言わんばかりの圧を感じて、俺は頷くだけにとどめた。
屋上を出て、階段を降りる。特に会話なんぞなく一階、下駄箱まで辿り着いて、なぜか一緒に校門を出た。
「いつもの二人はどうした」
「二人ともデートだそうですよ」
いつもの二人。一年にして生徒会長の土御門明子と、同じく生徒会書記の桐生朱音は、俺たちのクラスメイトであり、出灰の友人だ。
学年、どころか校内でもトップクラスに顔のいい三人は、いつも一緒にいる。男子からの人気も高いらしく、教室内で三人仲良くしている様はどこか近寄り難く、それでいて注目を集めていた。
そんなクラスのアイドル的な三人のうち、二人にデートするような相手がいるとは。クラスの男子どもが知ったらどうなることやら。
「てか、いつまで着いてくんの?」
校門から出てしばらく歩いていたが、出灰は未だに俺の隣を歩いている。なんか流れで一緒に帰るみたいになっちゃってるけど、どこまで着いてくるつもりなのだろう。
「随分と嫌そうな声ですね」
「嫌ってことはないけどさ……」
ただ、隣に誰かがいる帰路に、慣れないだけだ。いつも一人で登下校しているから。
いやもっと言うなら、他人とこんなに長く時間を共にしたのは、果たしていつ以来だったろうか。屋上で捕まって今この時まで、時間にしては三十分にも満たないと言ったところ。それでも俺にとっては、十分長い。
「あなたとわたしの家が同じ方向、もっと言えばご近所さんと言うだけです。特に分かれて帰る理由もありませんし、こうなるのは必然では?」
え、こいつなんで俺んちの住所知ってんの? てかご近所さんだったの?
まあ、どこかで見られたと考えるのが妥当か。
「いや、そうだろうけどさ。気にならないのかよ、周りの目とか」
問いかけには、心底分からないといったような顔が返ってきた。キョトンと小首を傾げた様は、不覚にも愛らしいと感じてしまう。
「周りの目を気にする必要がありましたか?」
「あー、いや、出灰が気にしないならそれでいいよ」
まだ学校からそう離れていない。周りにも同じ制服を来たやつらはチラホラと見える。
出灰翠は、控えめに言って校内でかなりの有名人だ。一年ながら生徒会副会長であることもそうだし、なにせ顔がいい。日本人離れした髪と瞳の色をしているのだから、やはり注目を集めてしまう。
しかも、普段からつるんでる土御門と桐生にしても、それぞれ方向性は違えど共に美人だ。
その二人がデートするような相手がいたことにも驚きだが、悲しいかな、俺が隣にいることで出灰自身も似たような噂を立てられるかもしれない。
「あなたが嫌だとおっしゃるなら、別行動にしますが」
「や、俺は気にしないって。出灰が言った通り、同じ方向なのにわざわざ別々に帰るのも変だろ」
そう、俺は別に気にしない。ただ隣に誰かが、それも顔のいい女子がいるという状況に慣れてはいないが、存外に悪くはないとも思えている。
他人といる時は、いつも自分が目の前の人たちとは違うのだと、どこか浮いていると感じていた。うまく言語化できないけれど、言うなればその状況をどうしても客観的に、自分自身でさえ他人事のように感じていたのに。
出灰翠との会話は、お互いに返事をするまで時間をかけてしまうスローペースなものだけど、心地いいとすら感じてしまう。
同じクラスになってかなり時間が経つのに、今までどうしてまともに話したことがなかったのか不思議なくらい。
我ながら童貞の痛い勘違いみたいでかなり気持ち悪いが、三度言うように俺は元々痛いやつだ。自己嫌悪にも慣れた。
「てか、ご近所さんって言ってもどの辺だよ」
「あなたの家の三つほど隣です」
「マジで? 俺、今まで全然気づかなかったんだけど」
「仕方ないと思いますよ。わたしも一年前に引っ越してきたばかりですから。元々は姉さん、正確には従姉妹なのですが、彼女がそこに住んでいて、わたしとカゲロウが引っ越してきたんです」
「黒霧葵さんだっけ? たしか、前の生徒会長だよな。そのカゲロウって人は?」
「兄です。不本意ながら」
「不本意なんだ」
ゆっくり、ゆったり。互いに急かすこともなく、落ち着いて遅いペースでの会話が続く。声音も表情も殆ど変わらない出灰だが、注意深く聞いて見ていれば、ほんの僅かではあるが感情の動きはあった。しかも、意外と豊かというか、一度気づけばコロコロと変わっている。
そうこうしていると茜色の空は暗い闇色に染まり始め、俺たちの足も家のある街の北の住宅街へ入っていた。
人通りが全くないわけではないけれど、それでも歩いているやつよりは車や自転車の方がよくすれ違う。
やがて俺たちの家が近づいてきて、先に到着したのは出灰の家だった。表札に黒霧と書かれた、立派な一軒家だ。
まあ、見た目の大きさならうちも似たようなものではあるけど。
「マジで近所だった……」
「越してきたのは一年前とは言いましたが、今までよく気づきませんでしたね」
「いや、中学も一緒だったし、このへんかとは思ってたけどさ。まさかこんなに近いとか考えないだろ」
「逆に中学の頃はもう少し繁華街寄りに住んでいましたよ」
ここからでも俺の家は見えるし、今までが奇跡的なニアミスをしていたのだろう。いや、出灰は気づいていたみたいだから、俺が鈍かっただけなのか。
あるいは、それだけ他人に興味を持っていない証拠なのか。
ともあれ、ここでお別れだ。
なんだか奇妙な放課後、奇妙な時間だったけれど、それも今日だけだろう。
「あ、翠ちゃん!」
と思っていると、背後から声がかかった。俺たちが来た方向とは逆側、つまり俺の家の方から、ツインテールの少女が駆け寄ってくる、同じ制服に身を包んだ彼女は、俺たちよりも二つ先輩、先程も話に上がった黒霧葵さんだった。
「姉さん、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
出灰の表情が、綻ぶ。これまでとは違って、注意して見なくても、誰が見てもそうだと分かるくらい。花の咲いたという表現がこの上なく適切な笑顔。
それがあまりにも可愛く見えて、自分に向けられたわけでもないのにドキリと心臓が鳴る。いやしかしかわいいな。
そして駆け寄ってきた黒霧先輩はというと、俺と出灰の顔を交互に見て不思議そうにしていた。
「友達?」
「クラスメイト兼ご近所さんですよ」
「天宮青空っす。そこの家の」
「わっ、ホントにご近所さんだ。うちの翠ちゃんがお世話になってます、黒霧葵です」
「姉さん……」
ぺこり、とお辞儀した黒霧先輩は、失礼ながらあまり年上には見えない。顔立ちはまあ、二歳程度ならあまり変わらないが、言動の雰囲気が、なんというか、幼いというか。いや、本当に失礼だなこれ。
さすがに家族からそんな風に言われるのは恥ずかしいのか、出灰はほんの少し頬を染めていた。しかも相手は普段ろくに関わりのない俺と来た。マジで友達でもないし、単なるクラスメイト兼ご近所さんでしかない。
「姉さん、早く家に入りますよ」
「はいはい。じゃあ天宮くん、今後も翠ちゃんと仲良くしてね!」
出灰に背中を押された黒霧先輩は、先に家の中へ入っていった。別れ際の彼女の言葉に返事を出来なかったのは、今後も仲良くできる保証がないからだ。むしろ今日一日が異常、非日常なのであって、明日からはいつも通り、ただのクラスメイトとして同じ教室にいるだけの仲に戻るだろう。
「では天宮さん、また明日、学校で」
「ん、ああ、おう」
不意に言われて、うめき声じみた返事しかできなかった。
彼女の言葉におかしなことはなにもない。クラスが同じである以上、明日も顔を合わせる。ただしかし、同時に、別れ際のその挨拶は、まるで明日以降も会話をするような、あるいは友人と交わすような挨拶だ。
それがあまりに想定外というか、予想外というか。さようならの一言で終わるだろうと思っていただけに、ちょっとした衝撃があった。
そんな俺の思いを露とも知らず、出灰は家の中に引っ込んでいく。
その背中を見送って、十秒くらい立ち尽くした後、すぐそこにある自宅へ帰った。
結局今日も、あの屋上で答えは見つからないままだったが。なんとなく、悪くない一日だったように思える。
◆
明くる日の朝。
自分で言うのもなんだが、俺の登校時間はかなり早い方だ。
理由としては、まず通学が徒歩ということ。そして早い時間なら、通学路に人が少ないことの二つが挙げられる。
特にこだわりがあってそうしているわけでもないのだけど、高校入学からずっと変わらないルーティンのようなものだ。
だから今日も朝早く、具体的に言えば七時には家を出た。ちなみに、朝のホームルームは八時四十分からである。
よくよく考えてみると、出灰と会わないのも当然だ。彼女がいつも教室に入ってくるのは、早くても八時過ぎ、遅ければ時間ギリギリの時もある。
意外と朝に弱いのだろうか、なんて考えの答えは、驚くべきことに家を出てすぐに現れた。
「なんでいるんだよ」
「ふわ……おはようございます……」
三つ隣のご近所さん。あくびを噛み殺し、実に眠たそうな出灰翠が、そこにいた。
「姉さんに言われまして……せっかくご近所さんなんだから、仲良くしなさいと……」
むにゃむにゃとまだ夢現な声音は、昨日までなら考えられなかったものだ。
「無理して朝早く起きる必要もないと思うけど。めっちゃ眠そうじゃん」
「めっちゃ眠いです……」
なんなら目も半開きというか、今にも瞼が落ちそうだ。別にそこまでして仲良くする必要はないと思うのだが、彼女の姉はなにを思ってそんなことを言ったのか。ここまで眠そうだと可哀想に思っちゃう。
「とりあえず行くか、そのまま立ってたら寝そうだし」
「……」
「おい」
「なんでしょう」
いま完全に落ちてたぞおい。
思わずため息が漏れてしまう。よくもまあ、大して交流のない男子を前にそんな無防備でいられるものだ。
学校へ向けて歩き出しながら、思う。
今日からしばらく、非日常が続きそうだ。
 




