エイプリルフール
「父さんなんて大嫌い!」
朝、事務所二階の居間にて。
桐生織は、全身を稲妻に貫かれたような衝撃に見舞われた。愛すべき後輩、黒霧葵の雷撃でも、帝釈天の神具でもここまでの衝撃は受けまい。
膝から崩れ落ちた織は、目の前で仁王立ちする娘、桐生朱音へ縋るような目を向ける。
「あ、朱音……? 突然どうしたんだ? なにか、俺がダメなことでもしたか? だったら遠慮なく言ってくれ、すぐに直すから!」
「え、ダメなところ? えっと、うーん……あ、そうだ、丈瑠さんに対する当たりが強い、とか?」
「いやそれはあいつが強くなりたいって言うから」
明らかにおかしな受け答えなのだが、織には気付く余裕がない。
この世でたった一人の娘から、嫌いだと宣言されたのだ。余裕なんて持てるものか。
「とにかくそう言うことだから! えーっと、父さんの服と私の服、一緒に洗濯しないでよね!」
「なん、だと……っ」
ついには畳の上に手をつき、完全に項垂れてしまう十九歳の青年。
可愛い娘を持つ父として、いつか言われるかもしれないと思っていた一言だ。覚悟はしていたが、耐えられるかどうかはまた別。物理的な痛みは一切ないのに、胸の中がとても痛い。こんな痛み、旧世界での戦いの中ですら経験したことがなかった。
「じゃあ母さん、出かけてくるね」
「ええ、いってらっしゃい」
お茶を飲みながら父娘のやりとりを見ていた愛美は、柔らかな微笑みで娘を見送る。その視線を、立ち直れないダメージを負ってしまった未来の旦那様へと移し、ため息を一つ。
「今日が何の日か、完全に忘れてるわね」
そんな愛美の声も、今の織には届かない。
本日は四月一日。エイプリルフールだ。
◆
涙で居間の畳を濡らしても、仕事をサボるわけにはいかない。
例え娘に嫌われたのだとしてもだ。
本日は簡単な失せ物探し。棗市北側の住宅地に住む老夫婦が、結婚指輪をどこかで落としてしまったらしい。この程度なら愛美の手を煩わせる必要もない。
依頼人から聞いたルートを辿って街を歩く織の隣には、背の低いツインテールの後輩が。
「へえ、朱音ちゃんがそんなことを」
「愛美は気にしすぎだって言うし、朱音は言うだけ言ってすぐに丈瑠のとこ行くし……俺はどうしたらいいんだ……」
女々しくめそめそする先輩を半ばドン引きしながら見上げる黒霧葵は、かなり重症だな、と呆れる。
この四月から高校三年生になる葵は、数ヶ月前から生徒会長に就任していた。散歩ついでに生徒会の備品を買いに来たのだが、そこを織に捕まってしまったのが運の尽き。
嫌いと言われたその瞬間を思い出してしまったのか、織は鼻を啜ってるし、なんならまた泣いてる。
当然葵は、朱音の言葉の真意を理解している。今日はエイプリルフールだから、ちょっとした遊び心のつもりだったのだろう。
それを織に教えてもいいのだけど、ちょっと面白いし暫くはこのままでいいや。内心でほくそ笑み、女々しい先輩を形の上だけ慰める葵は、やはりしっかりと今は亡き妹の悪いところを受け継いでいた。
「まあまあ織さん。朱音ちゃんだって年頃の女の子なんですから、いつかはこんな時も来てましたって」
「でも、でもさぁ…….昨日まではいつも通りだったんだぞ? それなのに急に……」
「今年から高校生ですし、思春期の女の子は難しいんですよ。朱音ちゃんも、本心で言ったわけじゃないかもしれませんよ?」
「うぅ……でも嫌いって言われたし……」
鬱陶しいなこいつ。
思わず声に出しかけ、口を噤む。今の織にそんなことを言ってしまえば、立派な凶器となって胸に突き刺さり、見事トドメを刺す羽目になってしまう。愛美から怒られるのはごめんだ。
「ほら、そんなことより仕事中なんですよね! 結婚指輪、ちゃんと探してあげないと!」
「おう……」
仕事に対する意欲が完全に失われている。
父親に負けない探偵になるといつも息巻いていた、あの織が。それほどまでにショックだったのだろう。多分、今赤き龍に攻められたら負ける。そう確信させるだけの落ち込み具合だ。
まあ、たった一人の愛する娘から嫌いだなんて言われてしまったのだ。気持ちはわからないでもない。葵だって大好きな妹からあの無表情で淡々と嫌いと言われてしまえば、首を吊りたくなってしまう。
なんて考えていると、噂をすればなんとやら。雑踏の向こうに、その妹の姿が見えた。向こうもこちらに気づいたようで、てくてくと小走りで近寄ってくる。
今は葵と一緒に住んでいる出灰翠は、葵に声をかけようとして、隣でゾンビみたいに生気を失った織を一瞥し、可愛らしく小首を傾げた。
「姉さん、桐生織はなにが……?」
「あー、ちょっとね。色々あったんだよ、今はそっとしといてあげて」
ふむ、と頷き、なにかに気づいたように頤を上げる。どうやら、翠にもなんとなく察しがついたらしい。もしかしたら朱音から、今日の悪戯について事前に聞いていたのかもしれない。
相変わらず朱音と仲が良さそうでなによりだ。でもたまには朱音と明子とだけでなく、お姉ちゃんとも遊んでほしいなー、とか呑気に思っていると。
「姉さん」
「どうしたの?」
「大嫌いです」
「え」
その一言を聞いた瞬間、葵の体は凍ったように動かなくなった。サーニャの氷結能力を遥かに凌ぐほどに冷たい声音で、葵は思考も言動も、全てを凍らされてしまったのだ。
それだけ言ってこの場を去る翠。
残されたのは、動かなくなったツインテールの少女と、生気を失った探偵の二人のみ。
二人とも、さっきまでは覚えていた葵すら、頭の中にエイプリルフールという言葉は存在してなかった。
◆
「で、どうして我のところに来るのだ」
「だってサーニャなら朱音のこと分かるだろ!」
「そうですよ! 翠ちゃんもよく一緒にいるじゃないですか! 最近二人になにかなかったんですか⁉︎」
某大学の研究室にて、大きなため息を吐く銀髪の女性が一人。
愛する娘と妹に嫌いだと言われたバカ二人が押しかけてきて、普通に仕事中だったサーニャは軽く目眩を覚えた。
織が朱音を、葵が翠を溺愛しているのはもちろん知っていたが、まさか嘘だと見抜けないとは。
葵に至っては、直前まで頭の中にあったエイプリルフールのことも完全に飛んでいる。
「別に、変わったことなど特にない。二人ともいつも通りだった」
「嘘だ! じゃないとあの朱音が、いきなりあんなことを言い出すなんて……」
「そうですよ! 翠ちゃんは私のこと大好きなのに!」
「貴様らな……」
これでいつか本当に、本気で嫌われたらどうするつもりだ。そのような未来はあり得ないとは思っていても、心配せずにはいられない。
「というか桐生織、貴様は仕事中なのだろ。戻らんか。朱音だけでなく、嫁にも嫌われるぞ」
「いや愛美が俺を嫌うはずが……」
「そうやって慢心しているから、朱音に一言告げられただけでそんな体たらくなのだ」
ぐうの音も出ない言葉に、織の言葉が詰まる。愛美が織を嫌うのもあり得ない話ではあるけど、まあ確実に怒られる。殺人姫は怒らせたら怖い。
さすがに職場に押しかけられたのは迷惑でしかないので、サーニャもさっさと種明かししたいところではあるのだが。
そこは世話焼きでお馴染みの吸血鬼だ。面倒なことこの上ないが、本人たちで和解させるべきだし、その仲介くらいはしてやるかと、二人を連れて棗市北の住宅地にある公園へ転移する。
そこには予想通り、朱音と翠の姿が。
二人は本日の戦果について、楽しそうに話している。
「ばっちり作戦通りだったよ翠!」
「わたしも咄嗟に言ってしまいましたが、姉さんの珍しい表情を見れました。ほんの少し罪悪感もありますが……」
「あー、うん、まあ、ね……可哀想なことしちゃったかなーとは思うけど……」
「しかし、嘘だと見抜けない二人にも責任はあります。わたしたちが本気で嫌うはずがないのに、信じられるのは少し悲しいです」
「うん、だよね」
どうやら、少しは悪く思っているらしい。これなら拗らせずに済むだろうと思い、サーニャは安堵の息を吐く。
そして朱音がこちらに気づき、やばっ、と顔を引き攣らせた。
「さ、サーニャさん……」
「二人とも、随分と面白い遊びに興じているようだな」
「あ、あはは……」
「ちなみに、我に同じ手は通じぬぞ」
「ですよね……」
朱音の口から、乾いた笑みが漏れる。
サーニャは例え朱音から嫌いだと言われたところで、後ろのバカ二人のようにはならない自信がある。まあ、ほんの少し、若干、寂しく思うかもしれないが。イラッと来るかもしれないが。
サーニャが介入したからか、あるいはべっこべこに凹みまくってる織と葵を見たからか、朱音も翠も、素直に頭を下げた。
「父さんごめん! 嫌いって言ったの嘘だから! ほら、エイプリルフール! 本当は父さんのこと大好きだよ!」
「すみません姉さん、わたしも朱音に便乗してしまいました。姉さんのことは尊敬していますし、嫌うことなんてありません」
「そ、それが嘘ってことはないよな? な?」
「そうなったら私たち本気で泣くよ⁉︎」
「そこで疑ってどうする」
真顔のツッコミは誰も聞かず、朱音が織に、葵が翠に抱きついた。
こんな簡単に解決するくせに、人を巻き込みやがって。文句のひとつでも言ってやろうと口を開きかけたサーニャだったが。
「もちろんサーニャさんも、大好きですよ!」
「……そんなこと聞いていないだろう」
「えへへ」
織に抱きついている朱音から出し抜けに言われてしまい、文句を言う気も失せてしまった。




