黒霧葵の受難 2
京都市内のホテルに移動したのは、十五時を少し過ぎた頃だった。そこから班ごとに割り振られた部屋へ移動し、夕食の時間になる五時までは自由時間。とはいえ、葵たち修学旅行生以外にも、一般の宿泊客はいる。そちらへの配慮も忘れてはならない。
葵も三人のメンバーと部屋に入り、取り敢えず荷物を置いて一息つくことに。
「はぁ〜、歩き回ったから疲れたねぇ」
「めぐちゃん、制服シワになっちゃうよ」
ホテルの部屋は和室だ。畳の上に制服のままで寝転がる恵に注意すれば、駄々をこねる子供のように起こせと手を伸ばしてきた。
仕方ないなとため息を漏らしながら、恵を起き上がらせる。
「葵、なんかお母さんみたいだね」
「葵ママ……ありかも……」
「なしだよ!」
断じてなしだよ。同級生に母性を見出さないでよ。
ホテル内では制服の着用も義務付けられておらず、それぞれが持ってきている私服に着替える。どうやら葵と恵以外の二人は、ここぞとばかりにオシャレしてやるつもりらしい。ワンピースだのスカートだのをカバンから出して、どれを着ようかと二人で頭を悩ませている。
一方で葵は、動きやすさを重視したスラックスとTシャツだ。ツインテールもそのままで、洒落気のないその格好に、友人たちが反応した。
「え、葵もしかして、その格好で行くつもり?」
「糸井くんに愛想尽かされるよ⁉︎」
「それはないと思うけど……動きやすさ重視だよ。ていうか、めぐちゃんなんか学校のジャージじゃん」
そう、同じタイミングで着替えた恵は、葵よりもなおひどい格好だ。ヤボったい学校指定のジャージ。顔は整っているし、ちゃんと着飾れば綺麗になるのに。
「私はいいの。自分が着飾るよりも、葵を着せ替え人形にしたいから!」
「しないからね?」
「まあまあそう言わずにさ。ほら、くまさんパーカーとか持ってきたよ?」
「ひえっ……なんでそんなの持ってきてるの……」
「葵に着てもらうために決まってるでしょ! ほらほら、せっかくだし髪型も変えてみよっか!」
「それはダメッ!」
綺麗に左右対称で結ばれたツインテールに手を伸ばした恵を、強く拒絶してしまう。思わずその手を振り払ってしまい、恵はなにをされたのか分からないように、呆然と葵を見つめていた。
「ご、ごめんねめぐちゃん? でもほら、この髪型はさ、私なりの拘り? みたいなものだから」
きっと、恵には話しても理解してくれないようなことだ。
この髪型は、あの子たちが生きていた証のひとつだから。私の大切な、二人の妹が遺してくれた、数少ないもののひとつだから。
葵の髪の毛はそれなりに長い。愛美ほどとは言わなくても、十分にいろんな髪型を試せるほどには。ただそれでも、黒霧葵として、出来るだけ長くこのツインテールを貫いていたい。
拒絶され呆然としていた恵は、少し間があってから、それでもニヤリと口元を歪めた。
「ふふふ、でもこっちのパーカーはなんとしても着てもらうよ! ほら、二人も見てないで手伝って!」
「しょうがないなぁ」
「ま、わたしもそれ着た葵を見てみたいし」
「えっ、ちょっと嘘でしょ本気なの⁉︎」
「よいではないかーよいではないかー」
三人がかりで拘束され、葵は呆気なくTシャツの上からくまさんパーカーを羽織らされるのであった。
◆
注目を集めることには、ある程度慣れているつもりだった。
例えば、旧世界での魔術学院で。葵はその強力な異能や自身の出自故に、クラスメイトから遠巻きにされていた。好奇心と畏怖が混じった視線に晒されるのなんて日常茶飯事。
あるいは、世界が夜に包まれ、魔術師の存在が明るみに出た時。街中に現れる魔物の相手をする時も、周囲の人々から似たような視線を集めてしまったものだ。
でも、今回のこれは違う。
恵たちに無理矢理着せられたくまさんパーカーを羽織り、しっかりくま耳のついたフードも被って、食堂までの道を歩く。
同級生たちは、可愛らしいパーカーを着た葵を見て、コソコソ内緒話。それがまたこっちにまで聞こえてくる。
高校生にもなってだとか、あれは流石に痛いでしょとか、そういう心ない声が。
一方で、可愛い可愛いと黄色い声を上げる人もいるけど、それはそれで恥ずかしい。
注目を集めることに慣れているつもりだったけど、こんなに羞恥心を煽られるのはまたちょっと違うじゃん。
「うぅ……恥ずかしい……」
「恥ずかしがる葵も可愛いねぇ」
顔を真っ赤にして歩く葵の隣には、ご満悦な表情の恵が。脱ごうと思えば脱げるのだけど、その度に恵がこの世の終わりみたいな表情をしては諦めるのだから、我ながら友人に甘すぎる。
「いやぁ、持つべきものは親友だね! 可愛い葵を見れて私も嬉しいよ!」
「親友……」
恵はよく、葵のことを指してそう言う。
否定するわけではない。クラスで一番仲のいい友人は誰かと聞かれると、葵も恵の名前をあげるだろう。親しい友と書いて親友だ、そういう意味では間違っていない。
だけど葵の中では、もっと理想的で美しい親友同士の二人を知っているから。
親友というのは、まさにあの二人のためにあるのだと、そう思ってしまうくらいに。
桐原愛美と桃瀬桃。
あの二人に比べれば、葵と恵はまだほんの一年と少しだけの付き合い。葵は恵のことを詳しく知っているわけじゃないし、逆も然り。まさか親友と呼んでいる相手が、吸血鬼もどきだなどと思うわけがない。
けれど親友というのなら、やはりそれら全てを曝け出せるような相手になるだろう。
荒唐無稽だと笑い飛ばさず、恐ろしいと遠ざけ遠ざかることもなく、それでも受け入れてくれるのなら。
なんて、たかが親友という言葉一つに、少々夢を見過ぎているか。
「お前、なんて格好してんだよ」
「俺は可愛くていいと思うけど」
思考の海から浮上したのは、背後から聞き慣れた兄の声がしたから。振り返った先にいたカゲロウは、白い目で葵を見下ろしドン引きしている。その隣には蓮が立っていて、ニコニコと何故か凄い笑顔を浮かべていた。
どうやら、この恥ずかしい格好は蓮のお気に召したらしい。それだけでも恥ずかしい思いをした甲斐があった。
親友といえば、この二人もそうか。
愛美と桃のような、劇的なドラマがあったわけではない。でも蓮とカゲロウは、互いが互いを認め合い、共に何度も大きな戦場を潜り抜けてきた仲だ。
「めぐちゃんに無理矢理着せられたんだよ……私だって好きでこんな格好してるわけじゃないのに……」
「可愛いでしょ糸井くん! でも残念、このくま耳葵は私のだから!」
「そもそも葵は誰のものでもないと思うけど……女の子同士の間に割って入るほど、俺も野暮じゃないよ」
やたらと押しの強い恵に、蓮は苦笑して後ずさる。どうにも恵は、葵の彼氏に対抗意識のようなものを燃やしているらしい。
まあ、仲のいい友人にいきなり彼氏ができたら、こうなるものなのだろうか。葵だって翠が男を連れてきたらこうなるかもしれない。いや、もっと酷くなるだろう。
とりあえず私の雷撃を避けられるくらいの男じゃないと。
翠は友達じゃなくて妹だけど、それはさておくとして。
「とりあえず写真撮っとくぞ」
「なんで!」
「翠に送って緋桜に売る」
「翠ちゃんはいいけどお兄ちゃんには売らないでよ!」
文句を聞いてるのかいないのか、カゲロウは躊躇うことなくパシャパシャとスマホで二回撮影。昼も写真撮って翠に送っていたようだし、この二人、意外と仲良くやってるんだよね……。
つい先日まで二人で暮らしていたのだから、仲がいいのは当然だけど。
「カゲロウ、俺にも送っといて」
「蓮くんまで……」
「だめかな?」
そんなはにかんだ笑みを見せながら言われたら、断れるわけがない。
赤くなった顔を隠すように俯きながら、首肯だけを返した。
◆
ビュッフェ形式の夕飯を済ませ、班員と温泉にも入った後、葵は一人部屋を抜け出して、ホテル二階にある喫茶店のテラスまで来ていた。
夜の十時まで営業しているらしいのだが、まだ閉店まで二時間近くあるにも関わらず客は一人もいない。葵たち修学旅行生も特別使用禁止を言い渡されたわけではないが、使うにはやはり勇気がいるのだろうか。
ハメを外したやつらが何人かいるものだと思っていたけど、これはこれで好都合。人払いをしなくて済む。
カウンターで先に注文を済ませ、ホットのコーヒーを飲みながら星を眺めていると、ようやく待ち人が来た。
「ごめん、待たせたかな」
「つーか寒いだろ、なんで外出てるんだよ」
蓮とカゲロウの二人は風呂に入ったばかりなのか、髪の毛が少しだけ湿っているように見える。ちゃんと乾かしていないのだろう。
対して葵は、未だあのくまさんパーカーを着ているが、さすがにフードを外していた。こちらもお風呂上がりなのでツインテールは解き、長い黒髪が背中に広がっている。二人と違ってちゃんと乾かしてるし、当然手入れも完璧だ。
「ここ、結構星が綺麗に見えるんだよね」
「ほーん、たしかに棗市よりは綺麗だな」
さみいさみいと腕を摩るカゲロウが、椅子に腰を下ろして空を見上げる。昼は雲ひとつない晴れ空だったか、夜もこうして星が綺麗に瞬いている。
中学の時は三人揃って天文部だったから、星座の知識はそれなりにあるつもりだ。
ここから見えるのは北の空。夏の大三角がまだ辛うじて西の方に見えて、地平線の近くには北斗七星が。北極星から上にはカシオペア座やペルセウス座が。
空の元素を使えるわけでもないけど、こうして見上げた星座を理解できていれば、やはり楽しいものだ。
「あの北斗七星が、あんな恐ろしいもんになるんだもんなぁ」
「死兆星、だっけ? 北斗七星に隠れた星。たしか、見えたら死ぬとか言われてるらしいけど、桐原先輩にぴったりだよな」
「なにせ殺人姫だしね」
北斗七星を形作る星の一つ、ミザールの脇に隠れた星、アルコル。その名の意味はかすむもの。あるいは、忘れられたものや拒絶されたものと言った説もある。
美しく舞う七つの刃と、霞んで消える拒絶の体現者。
まさしく、桐原愛美に相応しい星だ。それを独力で多重詠唱すら用いた魔術へと昇華するのだから、あの先輩には一生勝てない気がする。
「さて、それじゃ早速行こっか。場所の目星はついてるんだよね?」
コーヒーを飲み干して立ち上がる。三人で集まったのは、なにも天体観測をするためではない。
れっきとした仕事であり、今日この場においては葵たち以外に任せられないことだ。
「ある程度はな。山から降りてくるだろうから、多少の誤差はあるかもしれねえぞ」
魔物、京の都風に言い換えれば、妖怪。
魔術や異能の存在しない世界。
この新世界の謳い文句だが、それも今や過去の話だ。今年の春に起きた赤き龍の一件によって、魔術という概念はこの世界に紐付けられてしまった。
旧世界と違い、基本的に魔物が自然発生することはない。あるとすれば、それはあの日赤き龍が位相の扉を開いた場所、棗市だけでの話であって、京都にまで派生することはあり得ないはずだった。
だが今日ここに来ているのは、魔物の最上位とも言える吸血鬼。
それそのものではない上にハーフに過ぎないが、それでも葵とカゲロウはたしかに吸血鬼の要素を持っている。
周囲に影響を与えるには十分だ。
しかし一方で、魔物の元となる魔力が京都に存在しないこともたしか。
カゲロウは昼の間に魔物の存在を察知していたが、魔力が存在しないことには魔物も現れない。
つまり、葵が昼に見た妙なノイズやカゲロウの直感は、間違っていなかったことになる。
この京都に、何者かが潜んでいるのだ。
とは言えとりあえず、カゲロウが昼の間に目星をつけてくれている魔物の駆除が最優先だ。飲み終わったコーヒーのカップを返却し、認識阻害を念入りにかけ、三人は夜の京都へと飛び立った。
葵とカゲロウはそれぞれ黒と白の翼を広げ、蓮は飛行魔術で追従してくる。昼間は清水寺からホテルまでの移動にも時間を有したが、空を飛べばあっという間に到着だ。
恵たちとも訪れた清水の舞台に降り立ち、そこには既に敵の姿が。
虎の胴体に猿の顔、蛇の尾を持った魔物。いや妖怪が、三人に気づき奇怪で不気味な声を上げる。
「■■■■■■■!!!」
「キミの悪い声だなオイ!」
「キメラみたいな見た目だけど、これも妖怪の一種なんだよね……」
「安倍先輩から聞いた通りなら、京都の妖怪の中でもかなり強い部類に入るはずだ。二人とも気をつけて」
蓮が黄金の聖剣を、カゲロウが白銀の大剣を、葵が漆黒の大鎌を手に持ったのを見て、鵺が動いた。
青白い尾が視界を掠め、敵の姿が消える。ハッとして背後に振り返ると、鵺の大きな前脚が振り上げられていた。
咄嗟に散開して、鋭い一撃は地面の石畳を砕く。鵺は体に雷を纏っており、それがあのスピードの秘密だ。
旧世界において、関西の魔術師の元締めであった安倍家。この妖怪に対して、晴明の直系子孫である彼らでも手を焼いていた理由は、たった今見せた目にも止まらぬ速さだ。
姿を捉えられず、なにが起きたのか分からないうちに食い殺される。
なるほど、たしかに脅威だろう。
速さとは即ち、物理的な運動量に繋がる。そこに鵺の巨体が持つ重量まで加われば、立派な凶器だ。
しかし、相性が悪過ぎた。
「雷を纏うのが自分だけだと思わないことね!」
より激しい稲妻が迸り、葵の全身を駆け巡る。雷は葵の十八番だ。ことこの元素において、負けるつもりは毛頭ない。
「雷纒!」
鵺の反応よりも、より速く。一筋の稲妻と化した少女が駆ける。
漆黒の鎌が首を落とそうと振るわれたが、しかし手応えが浅い。首筋に僅かな傷を入れたのみで、刃はまともに通らなかった。
「こいつ、結構硬いよ!」
「ならオレの出番だな! 蓮、足を止めろ!」
「オーケー、任せてくれ!」
黄金の魔力を帯びた糸が放たれ、鵺の足に絡まった。身動きを封じられた妖怪の前に、白銀の翼をはためかせた少年が躍り出る。
「オラァ!」
「■■■!!」
力一杯振り下ろした大剣は、しかし降り注ぐ雷撃に阻まれてしまった。舌打ちして一度下がるカゲロウ。入れ替わるように再び葵が肉薄し、雷撃を全て吸収する。纏いは対応する元素に限り、吸収して己の力へと変えることができるのだ。
大鎌を槍へと変形させ、吸収した雷を魔力に変換、穂先に収束。喉元目掛けて渾身の突きを放つ。
「■■■■■!!!」
奇怪で不気味な悲鳴。突き刺さった槍は抜けなくなってしまったが、ここがチャンスだ。
「蓮くん!」
「分かってる!」
糸の制御を手放した蓮が、聖剣から黄金の斬撃を放つ。足に絡まっていた糸から解放された鵺は、しかし斬撃を躱すほどの余裕がない。横っ腹に直撃して地面に倒れ、そこに再びカゲロウの大剣が振り下ろされた。
「■■■■■■■■!!!」
虎の胴体に大剣が突き刺さり、悲鳴を上げながらのたうち回る。出血は多量だが死ぬ気配はない。
喉元と違って胴体は柔らかかったのか、突き刺した大剣を抜いたカゲロウが暴れる鵺から距離を取る。
「トドメ!」
手元に新しい大鎌を作り出し、刃が魔力で肥大化した。雷速で駆け抜ける漆黒の少女。
猿の顔が胴体から斬り落とされ、鵺はようやく息の根を止める。
「硬いし速いし、やっぱり結構厄介な敵だったな」
「おまけに雷撃が鬱陶しいったらありゃしねえ。葵がいてよかったぜ」
「二人とも、まだ来るよ」
一体倒したことで気を抜いている二人に言えば、全く同じ妖怪、鵺が多数現れた。
石畳の上に、寺の屋根に、鳥居の下に。既に囲まれている。一体だけなら難なく倒せたが、同じ強さの個体がこうも多いとなると、少し骨が折れそうだ。
「ったく、人気者は辛いなぁオイ」
「葵、血は?」
「いや、それだとやり過ぎちゃうし、出来れば温存しておきたいかな」
仮に全ての鵺を倒したとしても、その後どうなるか分からない。もしかしたら、こいつらを差し向けてきた犯人と相対する可能性だってある。
その時のことを考えれば、出来る限り切り札は温存しておくべきだし、崩壊の力、黒雷はあまり使いたくないという気持ちもある。
なにせ問答無用の力だ。清水寺を跡形もなく破壊するわけにはいかない。
「とにかく、周りの被害も考えて立ち回るように。お寺を壊すとか論外だからね」
「めんどくせえけど、仕方ないか」
「俺たち三人ならやれるよ」
三人背中合わせに立ち、武器を構え直す。勝てない相手ではない。たとえ数がいようと、この三人なら問題はないはずだ。
せっかくの修学旅行だというのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。己の不運を内心で嘆きながら、葵は妖怪へと襲いかかった。




