黒霧葵の受難 1
海に近い棗市では、十一月ともなると潮風が流れ込んできてかなり冷え込む。意外と寒がりな元生徒会長は早速マフラーを取り出してるし、桐生探偵事務所ではもこもこの冬毛に衣替えした白狼が見れることだろう。
防寒具を着用しているのはなにも大好きな先輩だけではなくて、クラスメイトたちも各々が来る寒さに備えている。
それは黒霧葵も例外ではなく、むしろ今日この日に限っては、寒さ対策をしていない者などいないだろう。
「まだ真っ暗じゃん……」
「そりゃ朝の五時だからな。この時期は普通だろ」
棗市北側に位置する住宅地。多くの一軒家の中の一つ、その門扉の前に立っているのは、葵とカゲロウの二人。そして二人を見送るために、葵の父親である黒霧紫音と、母親の朱莉、愛すべき妹の出灰翠の三人が玄関口にいた。
「二人とも忘れ物はないか? 財布と携帯は? 服もちゃんと四日分入れたか?」
「もう、お父さんは心配しすぎだって。忘れ物しててもちゃちゃっと取りに帰ってくるし、なんなら作るし」
昨日からずっとこんな調子の紫音は、娘が四日間も家を出ることにかなり心配しているようだ。昨日は家を追い出された兄からも似たようなラインが届いたし、黒霧家の男どもは心配性すぎだ。
その兄、黒霧緋桜だが。現在は実家を追い出され、桃と一緒に住んでいる。その代わりに二人で暮らしていた翠とカゲロウが黒霧家に住むことになって、可愛い妹と一つ屋根の下で暮らすことが叶った葵としては万々歳。ついでにいらないのがついてきたけど。
「姉さん、お土産期待してますね」
「任せといて!」
可愛い妹に頼まれれば、なんでも頷いてしまうのがお姉ちゃんというものだ。最高で最強なお土産を用意するしかあるまい。
「楽しんできなさいね、葵」
「うん。それじゃ行ってきます!」
朱莉に元気よく返して、カゲロウと二人で学校へ。
今日から三泊四日。葵たちは高校生最大のイベントと名高い、修学旅行に向かう。
◆
修学旅行の行き先は京都だ。学校からバスに乗り、最寄りの新幹線の駅へ。と言っても、棗市は地方都市だから駅まではそれなりに時間がかかる。
無事に駅へ着いた二年生たちは、新幹線に乗り込み一路京都へ。
「葵、ポッキー食べる?」
「もらうもらうー。はいこれ、お返しにぼんち揚」
「手汚れちゃうじゃん! ていうかおじさん臭い!」
「えー、甘くて美味しいのに?」
新幹線の車内は、何両か丸々貸切の状態になっていた。クラスごとに分かれて座り、その中で葵は、友人の周防恵と隣あって座っている。
旧世界の魔術学院ではクラスメイトとはいい関係が築けず、むしろ排斥されていると言ってもいいような状況だったけど。この世界では葵も、普通の女子高生だ。当然クラスメイトとは仲良くやっているし、親しい友人だっている。
まあ、愛美から生徒会に誘われてほいほい入ってしまったせいで、多少無駄に名前が売れてしまっているけど。おまけに現在は生徒会長になってしまったのだから、黒霧葵の人気は留まるところを知らない。
「ところで、糸井くんのところに行かなくてもいいの?」
恵からもらったポッキーをぽりぽり食べていると、不意にそんなことを言われた。咥えながら首を傾げるが、恵は肩をすくめてやれやれと言わんばかりに首を振る。
なんだその反応、ちょっとムカつくぞ。
「葵さぁ、糸井くんと付き合ってるんだよね?」
「う、うん……」
「ぶっちゃけ、どこまでいったわけ?」
「どこまで、とは……?」
「しらばっくれるんじゃない!」
物凄い形相で詰められて、恐怖のあまり短く悲鳴をあげる。後退りしたいところだったが、新幹線のシートに座っているためそれも叶わない。
今まで戦ってきたどの敵よりも怖いよ……。
「二人見てるとさ、たまに熟年夫婦みたいな雰囲気を感じるわけ」
「そうかなぁ」
「でもまた別の時に見ると、こいつらはよくっ付けよ、って思っちゃうくらい初々しい時があるわけ。もうくっついてるくせに」
「そ、そうかな……?」
「つまり、これはヤッたな、って思っちゃうのが普通じゃん?」
「そうかな⁉︎」
たった一言だけで異なる反応を三つ返せた自分を、誰か褒めてほしい。
「で、実際どうなの? ほれほれ、白状しなちゃいなよ!」
「そ、そういうのはわたしたちにはまだ早いから!」
真っ赤になって言い返す葵だが、でも吸血行為は普通にしちゃってるしなぁ、と頭の片隅に思う。
当然そんなことを素直に暴露してしまえば、ちょっと変わった性癖の持ち主、つまり変態の烙印を押されること必至。
違うんだよ、たしかに蓮くんの血は美味しいけど、そういうんじゃないんだよ。
どうやら揶揄われただけのようで、慌てふためく葵の反応を見て、恵はクスクスと笑みを漏らす。
「もうっ、めぐちゃん!」
「まあ、葵は結構潔癖っぽいもんね。それに、生徒会長が進んで不純異性交遊とか笑えないし」
「ははっ、そうだね……」
前生徒会長に聞かせてやりたいよ、その言葉。
「でもでも、こーんなに可愛い子に手を出さないとか、糸井くんも結構奥手だなぁ。私が食べちゃいたいくらいなのに」
「めぐちゃん、目が怖いよ?」
どう見てもガチの目だ。怖すぎる。
「なんてね! 冗談冗談、恋人がいる子に手を出すほど、私も野暮じゃないよ」
恋人がいなかったら手を出されてたの?
恐ろしい友人から視線を逸らして、その先に見慣れた姿を見つけた。
地毛の茶髪をワックスで整えて、制服もオシャレに着崩している男子。葵の恋人、糸井蓮。友人と談笑している彼は、そこらにいる普通の高校生にしか見えない。
そんな蓮が、不意にこちらを向いた。互いの視線がぶつかって、彼はパチリと少し驚いたようにしている。
そして、ふわりと微笑んで手を振ってきた。
「おい蓮! 俺たちといる時くらいイチャイチャすんのやめろよ!」
「別にそんなんじゃないって」
「このリア充め!」
「爆発しろ!」
が、彼の友人が茶化したことによって、視線はすぐに外れてしまう。
ほんの一瞬。数秒にも満たない時間。たったそれだけの出来事で、葵の顔は茹で上がってしまうのだから、我ながらチョロすぎる。
◆
京都といえば。
そう問われた時、真っ先に出てくる答えが魑魅魍魎の百鬼夜行な自分が、つくづく情けなく思う。
ぬらりひょんの転生者と戦ったのは記憶に新しい。妖怪の総大将が果たして京都と関係あるのかは知らないけど、他にも葵たちの仲間には、安倍晴明の子孫だっていらっしゃる。
そう考えると、葵の中で京都のイメージは怪盗アルカディアにまで派生するか。
お金に目が眩み、先輩たちに助けを求められて依頼に向かった京都で、見事に依頼失敗。それもこれも怪盗アルカディアの仕業で。
どの道、全てが魔術絡みだ。織に言わせるなら、もうそういうのは気にせず、考えず、普通の高校生として日々を過ごしてほしい、らしいのだけど。それがどれだけ難しいのか、彼はわかっているのか。
葵は今現在、身をもって思い知ってるところだ。
そんな京都は清水寺に、京都駅からバスで移動してきた二年生一行。
クラス別に写真を撮って、そこから先は班行動となる。仲のいいクラスメイト数名で固まって、清水寺内を散策。ここでも蓮とは別行動だ。カゲロウはそもそもクラスが違うので、彼は彼で楽しくやってることを願っててやろう。
「おおー! すごい景色!」
有名な清水の舞台で、恵が身を乗り出して景色に魅入る。たしかに中々の絶景だ。視界一面に紅葉が広がり、京都の神社仏閣が見下ろせる。
清水の舞台から飛び降りる、なんて言葉もあるが、真下を覗けばそれなりの高さがあった。ここから飛び降りたら、普通死んじゃうけど。まあ、それくらいの覚悟でことに当たる、って言う感じの言葉だったはず。
「ここから飛んだら、気持ちいいだろうなぁ」
「いやいや、普通に死ぬでしょ」
「うひゃー、すっごい高いじゃん」
つい声に出てしまった言葉を聞き咎められ、友人達は笑っている。
あ、危ない……たしかに普通は死ぬけど、わたしは翼もあるし飛べるんだよ、とか言えるわけがない……。
そうだよねーあはは、と曖昧な笑みで返してから、葵は今更ながら思う。
吸血鬼って、お寺とか神社に入っても大丈夫なんだろうか。
そもそも宗教的なあれこれが違うけど、この清水寺だって仏様が祀られる場所、つまりは吸血鬼伝承におけるキリスト教の教会と変わらないのでは。
一度考えれば、徐々に不安が増してきた。人間の遺伝子の方が多い葵はともかく、カゲロウは完全なハーフだ。もしかしたら彼は、なにかしらの影響を受けてるかもしれない。
いや、この新世界での葵たちの肉体は、ただの人間だ。ほんの少し吸血鬼の要素が残っているだけで。だから大丈夫だろう。そもそも、せっかくの修学旅行なんだから、そういうのは考えないようにしたい。
「そうだ、あそこ行こうよ! 音羽の滝!」
「恋愛成就のやつ?」
「いいね! 私たちも葵に負けてられないもんね!」
言うが早いか、友人たちは早速音羽の滝へと足を向ける。葵も苦笑しながら三人に続くと、音羽の滝の前には蓮の姿があった。彼も班のメンバーと来ていたようで、列に並んで騒いでいるクラスメイトたちを、少し離れた位置から苦笑しながら見守っている。
葵も恋愛成就にはもう用がないので、恵達三人と一度離れ、蓮の方へ。
「蓮くん」
「葵、そっちもここに来たんだ」
「うん、て言っても、私は別に用はないんだけどね」
「まあ、もう成就してるし、今更神頼みしてもって感じだよね」
神というか、仏だけど。
音羽の滝は三本の筧から水が流れてきていて、それぞれに延命長寿、学問上達、そして恋愛成就のご利益があるとされている。
葵の場合、そのどれも必要のないものだ。なにせ吸血鬼の要素が体に残っているため、ご利益をもらわずともある程度は長寿になる。学問上達に関しても、情報操作の異能を扱うために、ネザーで特別な脳を作られた。新世界でも異能を正常に使えているから、そこも変わっていないだろう。
恋愛成就に関しては、いわずもがな。
だが、蓮は前者二つのご利益を貰わなくてもいいのだろうか。学問上達はともかくとして、彼には長生きしてほしいから。
「そもそも、本当にご利益とかあるのかな」
「それ言ったらおしまいじゃない? まあ、旧世界なら神氣なり魔力なりが水にこもってても不思議じゃないと思うけど、今はそんなのもないんじゃないかな」
旧世界でのいわゆるパワースポットっと呼ばれるような場所は、実際に魔力がその場に溜まっていたり、龍脈の上に建てられていたり、魔術的には納得のいく理由があった。この音羽の滝も、そんなひとつだったろう。
だが、ここは魔術の存在しない新世界。当然龍脈もないし、パワースポットもただそう信じられているだけ。なんの力もないはずだ。
まあでも、もし本当に魔力なり神氣なりが紛れ込んでいたら、それはそれで問題ありだ。一応視ておこうと思い、異能を発動する。
情報操作の異能。その副作用による、情報の可視化。
あらゆる情報を映す葵の目には、やはり予想通り、あれがただの水だと映る。
「やっぱり、あれただの水……」
「葵?」
異能を切ろうとした瞬間、一瞬だけ、視界の端に妙な情報が映ったような。
音羽の滝に並んでいるクラスメイトたちへ、咄嗟に視線を移す。しかし葵の勘違いだったのか、そこからはおかしな情報が見えない。
「なにか視えた?」
「気のせい、だと思うんだけど……」
ノイズ混じりで、正確に捉えたわけではない。大丈夫だろうと思いたいが、旧世界での経験が葵の中に警笛を鳴らす。
こういうのは放っておくと、ろくなことにならないのだ。念のため蓮に相談すると、彼は腕を組んで考え込んだ。
「葵の目でも正確に捉えられないとなると、赤き龍……? でも、魔力の反応は周囲に全くないし……」
「本当に私の勘違いかも」
「でも、注意しておくに越したことはないよ。カゲロウにも後で伝えとこう」
今この場には、なにか起きた時に対処できるメンバーが三人しかいない。葵と蓮、カゲロウ。翠も朱音も、織たちだっていない。
頼りになる先輩たちは不在だ。だから、もし転生者や赤き龍が出現したら、葵たちだけで相手をしなければならない。
こんな衆人環視の中で動くとは思えないけど、今この時間、昼に動かれると困る。目撃者の記憶を改竄することだって、楽ではないのだ。
これが杞憂に終わればいいが、もしもということがある。準備は万全にしておかなければ。
「あー! 葵がまたこんなところでイチャイチャしてる!」
「蓮! 俺たちというものがありながら! この裏切り者め!」
列に並ぶクラスメイトたちに見咎められ、楽しそうな声が届いてきた。
実際はイチャイチャしてたわけではなく、結構大切な話をしてたんだけど、まさかそれを彼ら彼女らに聞かせるわけにもいくまい。
二人して曖昧に苦笑して、その場は適当に流すのだった。
◆
清水寺を出て、その後は周辺の散策に。昼食は班ごとで自由にしていいので、葵たちの班は二寧坂のスターバックスへやって来た。
カウンターでコーヒーとサンドウィッチを購入し、班員の三人と二階へ上がる。このスターバックスは二階に畳の個室がある、世にも珍しい店舗だ。唯一と言ってもいい。
内装も実に京都らしいものになっていて、築百年の建物を使っているのだとか。
幸いにも畳の小部屋が一つ空いていて、一人が席の確保に向かってくれた。残りの三人はミルクやシロップを取りに窓際のカウンターへ向かったのだが、そこには見慣れた灰色の髪の毛が。
スマホを構え、見下ろせる街並みをカメラに収めているのは、葵の兄、新世界では従兄弟ということになっているカゲロウだ。
「なにしてんのカゲロウ……」
「おう、葵か。写真撮って翠に送ってやってんだよ」
「班の人たちは? もしかして一人なの?」
「ご覧の通りだな。それぞれ他の班の仲良いやつと合流するんだとよ」
「ぼっちじゃん」
「ほっとけ」
カゲロウも蓮と合流すればいいのに。変なところで気を遣う半吸血鬼の少年は、そんなことより、と葵の耳に顔を寄せた。
身長差があるからカゲロウがかなりしゃがむ形になっている。それを見て、後ろの友人たちが黄色い声を上げた。
いや、そういう反応されるような関係じゃないから。従兄弟だって知ってるでしょ。
「どうにもキナ臭い感じがする。なにか気付いてるか?」
「カゲロウも? 私も清水寺で、変な情報が見えた気がしたんだよね……一瞬だけだったし、気のせいだと思ってたんだけど……」
「オレは今から、そいつの正体を探る。ラッキーなことに、オレはぼっちだからな」
「うっ、ごめんて……」
「冗談だ。ともかく、お前らは気にせず楽しんどけ。なにかあったらすぐに連絡寄越すからよ」
顔を離したカゲロウは、安心しろとでもいう様に破顔している。本当に大丈夫なのか視線だけで尋ねても、彼の答えは変わらなさそうだ。
「んじゃな、ちゃんと楽しんどけよ」
「あ、ちょっとカゲロウ!」
静止の声にも振り返ることなく、カゲロウは店を出て行った。思わずこめかみを抑えてため息を漏らしてしまう。
どうして一人で背負おうとするのか。と思っても、どうせ彼は葵の兄として、とか考えてるに違いない。
いつだか聞いた、カゲロウの戦う理由。
ラブ&ピースのため。青臭く鼻で笑われるような理由ではあるが、彼はなにも世界平和なんてものを考えているわけではない。
彼の身近にいる人物だけ。
黒霧葵、糸井蓮、出灰緑、桐生朱音。
カゲロウと一定以上の関係を気づいた者たちのそれだけを、彼は守ろうとしている。
だからって、カゲロウ自身の時間を犠牲にしていい理由にはならない。
どうして葵の兄は、二人ともバカなのだろ。せめて無茶しないようにと祈りつつ、葵はミルクとスティックシュガーを手に取り、友人たちと個室へ向かった。
「葵の周りって、よく考えるとイケメン多いよね」
「乙女ゲーみたいじゃん!」
「そ、そう?」
やはりというかなんというか、話は葵のことになる。しかも、その周りにいる人たちの話。
仲間内の男性陣を思い浮かべてみるが、まあ、たしかに顔はいいんだよね、顔は。
「まずはカゲロウくんと糸井くんでしょ? あと葵のお兄さん!」
「あーね。お兄さんめっちゃイケメンだもんね」
「あとほら、一年の大和くん。あの子も整った顔してるよ」
「でもやっぱり、一番は桐原先輩だね!」
恵の力強い言葉に、他二人もうんうんと頷いている。
うん、まあ、異論はないけどね? これじゃあ男どもの立つ背がない。
「愛美さんはほら、特別だから」
「私、桐原先輩になら抱かれてもいい!」
「わたしもー!」
「でもあの人、恋人いるんじゃなかったっけ? この前文化祭で男と歩いてたって」
「嘘ぉ!」
どうやら、愛美に彼氏がいることはそれなりに広まっているようだ。それがどんな男なのか、までは詳しく噂されていないようだけど、織も愛美も普通に二人で街を歩くから、あの探偵が噂になるのも時間の問題だろう。
「葵! そこんところどうなの!」
「桐原先輩が彼氏持ちとか嘘だよね!」
「いやぁ、ははっ、想像にお任せしますってことで……」
これ以上話を続けるのは面倒そうだから、曖昧な笑みで受け流した。
愛美さん、あなたのファンは強火な人が多いですよ。




