胸の奥に深く 6
雲の上から降ってくる鉄屑が、頭上に広げられた紅い炎に受け止められている。一つも取りこぼすことなく、海の上には決して落ちてこない。
やがて鉄屑が全て落ち切ったら、今度は巨大な穴が開いた。空間を斬り裂くことで開かれ、また別の空間へと繋がる穴だ。紅炎ごと呑み込んですぐに消えたそれは、緋桜たちをこの海上へ移動させたものと同じ。
「あんたらは……どうしていつもいつもそんなにメチャクチャなんだ……」
背中に魔女をおぶり片手で支えて、もう片方の手でエウロペの首根っこを掴んでいる緋桜。彼が今いる場所は、元いたクルーズ船の近く。その海上に立っている。
恨みがましく見つめる先には、三人の男女が立っていた。
「無事だったんだから文句言うな」
「そうそう、ボクたちが来てなかったら、今頃日本全土は火の海だったよ?」
頭上に広がっていた紅炎の使い手である剣崎龍と、緋桜たちをこの場に移動させてくれたルーク。
そして、魔導戦艦を粉々に破壊した張本人。現在は異世界にいるはず破壊者。いつ見ても全身真っ黒コーデが特徴的な、アダム・グレイスだ。
「存外に呆気なかったな。ドラグニア世界の超兵器といっても、所詮はこの程度か」
「お前の基準で図るなよ」
龍の突っ込みもどこ吹く風。アダムは退屈そうに首を鳴らして、ふとこちらを見やった。視線は緋桜ではなく、背負っている桃へ。
「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな、魔女。十六年ぶりか?」
「エルドラドの時以来だから、わたしにとっては三十四年ぶりだけどね」
「アリスを容赦なく攫ったお前が、随分と丸くなったじゃないか」
初耳の情報に、緋桜は背負ってる桃へ胡乱な目を向ける。こいつはなにをやってるんだ。いや、たしかに昔の桃ならやりかねないけど。
「そんな目で見ないでよ……有澄ちゃんにはもう謝ったんだから」
「だからってお前……よくあの人に喧嘩売ろうと思ったな……」
「小鳥遊のこと? 当時は別に最強でもなんでもなかったよ。むしろわたしより弱かったし、そこの破壊者の方が断然警戒対象だったね」
まともに魔力も練れない今の状態で、自分の方が強かったと言われても。説得力に欠けるから、せめて自分の足で立って欲しい。
まあここは海の上だから、結局魔力が元通り使えるようにならなければダメなのだが。
「ところで、織くんと愛美ちゃんは? ついでにグレイも見てない?」
「あいつらはクルーズ船の方に戻った。後処理を任せてある」
「念のため凪さんも連れてきたから、心配しなくてもいいと思うぜ」
あの吸血鬼、全然戻ってこないと思ったらいつの間に離脱してたんだ。
後処理というと、恐らくは乗員乗客の記憶を消したり、船を修理したり、死体を片付けたりだろうか。それならたしかにグレイがいた方が手っ取り早いが、なぜなにも教えずに消えるのか。
どいつもこいつも、報連相の大切さを分かっていなさすぎる。
「で、お前たちはこれからどうするつもりだ? 旅行自体は何事もなく続くはずだが」
「そう言う気分でもなくなったし、素直に帰るとするよ」
「えー、わたし最後まで楽しみたいんだけど」
「お前が一番消耗してるんだぞ。せめて自分の足で立てるようになってから言えよ」
ぶーぶーと後ろから文句を垂れ流しているが、どう言われたところで緋桜の意見は変えない。なんなら織と愛美も反対するだろうし。
「そいつはボクたちが預かるよ。一応同じ転生者だし、顔見知りではあるからね」
「なら頼みます。でも、あんま手荒な真似はしてやらないでください。治癒はしたと言っても、重傷には変わりませんから」
「お優しいことで。女たらしは相変わらずみたいだな」
「やめてください龍さん……」
実際エウロペは、理由はどうあれ自分に好意を持ってくれた人間だ。そんな相手をあまり無碍にはしたくない、という思いが多少はなくもない。
だからあまり強く否定できなかったのだが、背負ってる奴からの視線が痛いのであまり指摘しないで欲しかった。
「おいエウロペ、起きてくれ」
「うぅ……」
龍たちに引き渡すにしてもまずは起きてもらおうと思い声をかければ、エウロペは意外とすぐに目を覚ました。
魔導戦艦の中で一度覚醒していたし、あの破壊と移動の衝撃で気を失っていただけだからだろう。
瞼を開いたエウロペは、どこか落胆したように呟く。
「わたくし、まだ生きているのね……」
「死んでもらってちゃ困る。とりあえず、お前の身柄はそこの人たちに預けることになったからな」
「そこの人たちって……」
首根っこを掴まれたままのエウロペが、ゆっくりと顔を上げる。眼前に立っているのは、にっこり笑顔を浮かべたルークだ。
「やあやあ、久しぶりだねエウロペ・ティリス。ボクのこと、覚えてるかな?」
「る、ルージュ・クラウン……」
「おっと、その名前でボクを呼ぶなよ。うっかり殺したくなるじゃないか」
明らかにビビり散らかしてるお姫様。転生者同士色々とあるのだろうが、緋桜は気にしないことにした。
しかし引き渡して大丈夫なのか不安になってきたな……。
手を出して催促してくるので、縋るように見つめてくるエウロペは無視して素直にルークへと差し出す。
「んじゃ、ボクたちはお先に失礼するね」
「また困ったことがあれば呼べよ」
ルークが持っていた西洋剣を振るい、空間が裂ける。そこへ飛び込んでいった二人と一人を見送って、残った黒ずくめの男に視線を向けた。
「それで、あんたはなんでここにいるんだ? ドラグニアにいたんだろ?」
「魔導戦艦がこちらの世界に盗み出されたことは、かなり問題になっていてな。完全に破壊することになったんだが、そうなれば俺が適任だろう」
「それもそうか」
「安心しろ、ここら一帯の魔力を魔導収束で吸収すれば、俺もあちらに帰る。体質の影響は出ない」
枠外の存在。
アダムを始めとして、イブや蒼、赤き龍など。そう呼ばれる存在はただそこにいるだけで、世界全体にまで影響を及ぼしてしまう体質を持っている。
アダムの場合は破壊。最もわかりやすく影響が出るものだ。あまり長くこの世界に留まっていれば、せっかく織と朱音が作ったこの新世界も破壊されてしまう。
どうやらドラグニア世界ではその影響がかなり少ないらしく、彼らの殆どは現在そこに定住しているようだが。
魔導戦艦がかなりの装甲を有していたのは、緋桜も把握していた。ブリッジの壁や天井でも、あの銭湯でほとんど傷がつかなかったのだ。オーバーロードした桃であっても、破壊には至らなかった。
外部からの衝撃を防ぐ装甲は、更に強固なものだったろう。
それも、枠外の存在であるアダムの破壊体質を前にすれば、紙も同然だが。
「なんにせよ助かったよ。いや、一歩間違えたらわたしたちごとだったけどさ」
「こっちも仕事なんでな。ついでにお前たちの顔も見ておきたかったし、別に大した問題じゃない」
ぶっきらぼうな口調。怜悧な雰囲気も相まって勘違いしそうになるが、今の言葉にはアダムの持つ優しさが滲んでいた。
旧世界ではそこまで深い関わりがあったわけではなかったけど、それでも会話をする機会くらいいくらでもあった。出来れば、もう少しこの男と親交を深めたかったなと、今更ながらに思う。
いや、今からでも遅くはないのか。
緋桜の望みが叶えば。
「お前たちも船に戻れ。旅行から離脱するにしても、少し休んだ方がいい」
「そうさせてもらう。おい桃、いい加減回復しただろ、自分で歩いてくれ」
「やーだー」
まるで駄々をこねる子供のようだが、オーバーロードの反動で幼児退行でもしてるんだろうか。
仕方ないから背負ったままで、アダムにもう一度礼を言ってから少し離れた位置にあるクルーズ船へ向かう。緋桜もそれなりに消耗しているから、転移は使わない。
せっかく海の上に立っているのだから、少しここを歩きたい気分だった。
潮風が海面を波立たせる。先程までの壮絶な戦いが嘘のように、海の上は静かだ。
ちゃぷ、ちゃぷ、と水を蹴る音だけが優しく耳朶を打ち、背中の少女はなんの衒いもなく体重を預けてくれている。
こうも穏やかな時間が来てしまえば、無駄な思考が過ってしまう。考えなくてもいいことだと分かっていても、それが出来ないタチだから。
同類だと、エウロペに言われた。
復讐という目的を見失った彼女らと、自分は同じなのだと。
きっと間違いではない。かつての緋桜は、両親をグレイに殺されたのだという事実とは異なる記憶を植え付けられていた。だからあの吸血鬼に復讐してやろうと考えていて、あるいはやつから妹を守るために、その異能を消そうと企んでいて。
しかし、その記憶が偽りのものだと知った時、緋桜の復讐心はどうなったのか。
本当にエウロペの言う通りなのだとしたら。それはきっと、向けるべきではない相手に向けられていたのではないか。
「また難しいこと考えてるでしょ」
すぐそばから聞こえる声で、ハッと我に帰った。むにむにとほっぺたを抓ってくる桃は、呆れた様子を隠そうともしない。
「昔から言おうと思ってたんだけどさ、緋桜ってそこら辺分かりやすいよ? 最近はあからさまにタバコ吸い始めるし」
「考えちまうもんは仕方ないだろ」
「エウロペに言われたこと? あんなの気にしなきゃいいのに」
そうやって否定してくれるだけで、どれだけ救われた気になるのか。
手持ち無沙汰に緋桜の髪を弄り始めた桃は、きっと理解していないのだろう。
「気にするなって言われても無理な話だ。なにせ自覚があるからな」
「んー、多分だけどさ。緋桜もエウロペも、復讐ってものに対する考え方が、わたしと違うんだよ」
「考え方?」
「うん。考え方っていうか、意識というか向き合い方というか、まあ違って当たり前だとは思うんだけどね。緋桜はさ、復讐ってなんのためにするものだと思う?」
「それは……」
答えようと思って、言葉に詰まった。
改めて問われれば、なんと答えるべきなのかが見つからない。正解なんてものはないのだろう。桃が聞いているのは、緋桜の考えだから。
答えあぐねた緋桜を見て、かつて復讐に身を費やした魔女は、優しい笑みを浮かべる。
「分からないでしょ? だから緋桜は、わたしたちとは違う。復讐者っていうのは、その答えをみんな持っているから」
「お前は?」
「わたしは、自己満足のためだった。死んでいった仲間の誰一人も、復讐なんて望んでいないことはわかってた。最期にそういうことを言われたからさ。それでもわたしは納得できなくて、あいつへの憎しみがなかったら、生きることを諦めてたかもしれなくて。だから、生きるためでもあったのかな」
全て過去形で語られているのは、彼女がその呪縛から解き放たれたからだろうか。
復讐心がなければ生きていけない、しかしそれさえあれば二百年の時を生きていける少女が、全く違う生きる理由を見つけたからか。
「多分、朱音ちゃんとかエウロペに聞いても、全然違う答えが返ってくるよ。だからね、その誰もが同じなんてことはないの」
「その答えを持ってない俺は、そもそも復讐心なんてものも持っていなかった、ってことか……」
「さっきも言ったでしょ、緋桜はただのシスコン。だから、恨んだり憎んだりするのは、わたしだけにしときなよ」
「なんでお前なんだよ」
いつもの軽口かと思って、笑み混じりの声を返す。けれどそこに続くはずの冗談はない。訪れた一瞬の静寂が、背中の体温を如実に感じさせた。首に回された腕に、少しだけ力が籠る。互いの距離なんて元よりゼロなのに、それ以上に近づいた気がして、心臓が早鐘を打っている。
永遠にも思える須臾。
打ち破るのは、謳うような言葉。
「わたしがこれから、緋桜の人生をめちゃくちゃにしちゃうからかな」
これまでの人生を、桃瀬桃一人に振り回された覚えなどない。影響を与えられたといえばそうなるが、しかし黒霧緋桜の人生は、常に妹の存在が中心となっていた。
シスコンだと揶揄されるほどに、彼はいつも葵のために動いていた。
けれどこれからは違うと。
桃瀬桃が、黒霧緋桜の人生をめちゃくちゃにすると。曲げるのでも歪めるのでもなく、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて、原型も分からないくらいに変えてしまうのだと。
そのための宣言。
あるいは、宣戦布告のようでもある。
「一生一緒にいてくれるんでしょ?」
「なんで知ってるんだよ……」
「さあ? なんでだろうね」
クスクスと揶揄うような笑みが、至近から鼓膜を震わせる。沸き起こる羞恥心はさすがに誤魔化しきれなくて、赤い顔でそっぽを向いた。
けど、ここまで言われてしまったんだ。ここで応えないという選択肢はない。
「ちょっと場所を変えるか」
言葉の意味を測りかねてか、桃は小首を傾げている。見てろよ、とだけ言って、残っているありったけの魔力を解放した。
瞬間、景色が変わる。
陸地の気配もしない彼方まで広がる海の上にいたはずが、気がつけば満開に咲き誇る桜並木の中にいた。
視界一面を覆う桜。前も後ろも、どこを見渡しても緋色の花びらが吹雪いている。
「綺麗……」
完全に目を奪われて、思わずと言った風に呟いた桃をコンクリートの地面に下ろした。そこにも花びらが積もっていて、しかし靴で踏んでも鮮やかな緋色が汚れることはない。
「心想具現化の奥義、みたいなもんでな。俺の心の奥深くに眠ってる景色を、現実に侵食させるんだ」
「侵食ってことは、空間を切り取って限定的に世界の再構成を行ってるってこと?」
「擬似的にな。とは言っても、俺のは戦いに向いてるようなもんじゃない。ここにある花びら全部をいつもみたいに操れるけど、言ってしまえばそれだけだ。特別なパワーアップとか、この空間限定の力とか、そういうのは全くないからな」
話に聞いただけだが、両親のものはかなり戦闘に使える類のものらしい。黒霧家に残されていた文献の中には、緋桜以上に戦闘に向かないものもあった。むしろ、戦う力を完全に失うようなものまで。
この魔術はそれでいい。心想具現化とは、術者の心を映す魔術だ。この胸の奥深くに眠るものを、現実に投影する魔術。
あるいは、今のように。
己の心全てを晒して伝えるには、うってつけの魔術かもしれない。
「なあ、桃」
呼べば、振り返ってくれる。
春特有の柔らかくて優しい風が吹き抜けて、黒い髪を靡かせた。桜の背景は、信じられないくらい彼女に似合っている。ともすれば、自分よりもよほど。
「お前、異世界に行くんだってな」
「うん」
「向こうに永住するつもりだって聞いた」
「うん」
「だったら、俺も連れて行ってくれ」
言葉は思っていたよりも滑らかに出て、自分でも少し驚く。一方の桃に驚いている様子など見られず、ただ、緋桜からの言葉を噛み締めるように聞いていた。
手元に花びらが収束して、作られたのはひとつの指輪。メタリックな光沢を持つ中に、緋色の桜が小さく咲いている。
あの時に贈った髪飾りは取られて壊されたから、その代わり。いや、あの時以上の想いを込めて。
「もしもお前が明日死ぬなら、俺の命も明日まででいい。でもその代わり、その日が来るまでは絶対に離れない」
左手を取って、許可もされていないのに薬指に指輪を嵌めた。許可を取る必要なんてなかった。彼女の浮かべる満開の笑顔が、答えの代わりになっていたから。
「やっぱり、恨めるわけないよ。こんなに大好きなんだから」
「誓いのキスでもしておくか?」
冗談半分、つまりもう半分は本気でそんなことを言ってみれば。
目の前の笑顔がその質を変える。喜色満面という言葉がこの上なく似合うものから、悪戯を思いついた子供のようなものへ。
不意に桃がふわりと浮かび上がる。桜並木に伸びる二つの影が重なったのは、ほんの刹那のことだった。
「そういうのはわざわざ言わずにやるものだよ、ばーか」
唇を押さえながら、目の前のはにかんだ笑顔に見惚れてしまっている自分は、なんとも間抜けな顔をしていたことだろう。
でも、桃になら見られたって構わない。どうせこれから先の長い人生で、カッコ悪い姿も情けない姿も、たくさん見せてしまうだろうから。
「約束だからね。一生一緒に。最後の最後まで、ずっと」
「ああ、約束するよ」
桜の雨が降る中で。
強く抱き合った二人は、きっと破られることのない誓いを交わした。




