胸の奥に深く 4
体を霧に変え、最短ルートで最下層のブリッジへと向かう。
嫌な予感が止まらない。胸がざわついて仕方ない。まさかあの魔女に限って、と冷静な自分が諭してくるけど、それ以上に。
本能とも似た部分が告げるのだ。早く向かわなければ手遅れになるぞ、と。
焦りながらも辿り着いた最下層。その奥にあるブリッジの扉を、緋桜は躊躇いなく蹴破る。
「桃!」
その中に広がっていた光景は、まさに地獄と呼ぶべきものだった。
あちこちで燃え盛るどす黒い炎が緋色の花びらを散らし、艦のクルーらしき者たちは血の池に沈んでいる。
豪華なドレスを赤で汚したエウロペ・ティリスは、血まみれになったスーツ姿の少女の首を掴み上げていた。
「まあ、来てくれたのね緋桜。待っていたわ」
無邪気な笑顔がこちらに向く。
美しいその表情も、背後で燃える黒い炎とその顔を汚す赤い血があれば、狂気にしか感じられない。
魔女ほどの実力者がどうして。そんな疑問が過ったのは一瞬未満。緋桜の胸の内に、ふつふつと怒りや憎悪が湧き上がってくる。
「この子が、あなたの言っていた女よね? ごめんなさい、うっかり殺してしまうところだったわ」
ぐったりとしたままに首を掴まれている桃は、意識を失っているようだ。体の至るところに生々しい傷が見える。今も床に血が落ちていて、瞼が開かれる様子もない。
「わたくしはあなたに相応しくないと言い出したものだから。つい意地になってしまって、少しやり過ぎてしまったの。殺人姫や探偵賢者からの報復が怖いけど、あなたはわたくしを守ってくださるわよね?」
「桃を離せ……」
言えば、華奢な体が乱暴に投げ捨てられた。急いで駆け寄って治癒を施してやれば、薄い胸元がゆっくりと上下し始める。
よかった、生きてる。死んでない。
その温もりを確かめたくて頬に手を添えると、違和感に気づいた。
彼女がいつも身につけていた、桜の花を象った緋色の髪飾り。それがない。
あの髪飾りは、旧世界で緋桜が贈ったものだ。そして、桃が緋桜と同じ術を使えている理由でもある。
髪にも、付近にも落ちていなくて、まさかと思いエウロペに視線をやれば、色を失った桜が手元で弄ばれていた。
「これが気になるのかしら? その子が随分と大切にしていたみたいだから、頂いてしまったの。ふふっ、どうかしら? わたくしの方が似合うでしょう?」
「返せ……」
髪につけて、笑顔で聞いてくるエウロペ。
桜の色が黒く染まっていく。
そこが、緋桜にとって怒りの限界だった。
「その桜は桃に贈ったものだ、お前が付けていいものじゃないッ!!」
怒号と共に、桜の花びらが噴出する。刃となって敵へ放たれる夥しい数の花びら。緋桜の感情に呼応して、その数はどこまでも増していく。
しかし、怒りのままに放たれた攻撃は、エウロペが取り出した長柄の旗を一振りするだけで掻き消えた。いや、吸収された?
神聖さすら帯びた白い旗は、その下部から少しずつ黒く染まっている。
ただ、それがなんであろうと関係ない。衝撃すら伴う一歩を踏み出し、瞬く間に懐へ潜り込む。花びらが手元に収束して、同じ色の刀を作った。
逆袈裟に振るおうとして、魔力は刀の形を失う。まただ。また、あの旗に吸収された。旗はその分黒の面積を増す。
流石に無視できなくて距離を取れば、鈴を転がしたような笑い声が耳に届く。
「ふふっ、可愛い人。そんなに大切なら、壊しておけばよかったかしら」
「テメェ……!」
「ジャンヌダルクに魔は通用しない。主より聖なる加護を受けたわたくしの旗は、あらゆる魔術を吸収するの」
聖女ジャンヌダルク。
百年戦争の立役者。理不尽な裁判で火刑に処された、神の声を聞いたとされる聖処女。
なるほどこれは、たしかに魔女と相性が良さそうだ。桃がここまでボロボロにやられたことにも納得できる。
けれど、万が一の保険としてあの吸血鬼を向かわせていたはずだ。この肝心な時に、あいつは一体どこへ行ったと言うのか。
「あなたではわたくしに勝てないの。さあ、理解できたならわたくしの元へ来なさい。他の誰でもないあなたが、わたくしの最期を飾るの」
「何度も言ってるだろ。俺はお前の下にはつかないし、旦那だなんてのは以ての外だ」
「魔女がいるから?」
「それ以外に理由が必要かよ」
手元に収束する桜の花びら。緋色の和弓を形作り、力一杯弦を引き絞れば矢が現れる。
「俺は、どこまでもこいつと一緒にいる。こいつについて行く。それが異世界だろうがなんだろうが関係ない」
「そう、残念」
「緋桜一閃」
短い詠唱。放たれた矢には、感情のままに昂る魔力をありったけ込めて。
迎撃する聖女は、当然のように旗を振るう。そこへ吸収される矢だが、しかし緋桜はニヤリと口角を上げていた。
「狂い咲け、絶花の徒」
矢が着弾した場所から、桜の花が旗を食い破って咲き誇る。ズタズタに裂かれた旗は無惨にも床に落ちていき、エウロペは驚愕の表情を隠せていなかった。
「わたくしの旗が……⁉︎」
「お前の旗は、魔力を吸収するだけだ。魔導収束のように術式を瓦解させる力まではもってない。それが仇になったな」
術式が残るなら、魔力が吸収され切る前に起動すればいい。
通常の魔術ならこうはいかなかっただろう。魔術とは術式に魔力を通して魔法陣を形成することで発動される。魔力を吸収された時点で、魔法陣も術式も全て崩れてしまうから。
ただし、緋桜の魔術は通常のそれと異なる。これは以前より改良を重ね、小鳥遊蒼から魔導収束を教わったことで完全になった魔術だ。
着弾した相手の魔力を使って、緋色の桜を咲かせる。矢はたしかに魔力でできているが、あくまでも単なるトリガーに過ぎない。
旗に着弾した、その一瞬。矢を通して旗に干渉した緋桜は、旗が吸収した魔力で術式を起動した。
短すぎる時間のうちになし得るのは、彼の卓越した技量があるからだ。
魔女と聖女という相性さえなければ、桃だって同じ攻略法を取っていただろう。
「どうしても死にたいって言うなら、俺がここで手を下してやるよ」
「魅力的な提案だけれど、そういうわけにもいきませんの。わたくしは、このふざけた世界と心中するのよ!」
再び刀を作って肉薄すれば、柄だけ残された旗が槍に変化した。鍔迫り合うその槍は、見覚えのあるものだ。
本能的に恐怖心が湧き起こり、花びらで牽制しながら距離を取った。
「世界と心中とは、また大きく出たな」
「わたくしはそのために、赤き龍から力を受け取った。この魔導戦艦で、世界なんて壊してしまうの!」
「チッ……ただの自殺志願者じゃねえのかよ……!」
巻き込まれるのが緋桜だけなら良かったが、まさかこの新世界までと言い出すとは。
いや、転生者であるなら、その願いはおかしなものじゃないのか。死んでも果たしたい後悔があるからこそ、転生者は転生者たり得る。この新世界では、その願いが叶わない。力を失い記憶だけを引き継いで、後悔は残ったまま生きて行くしかない。
剣崎龍やルーシュ・クラウンのように、割り切れてしまえる方が少数派だ。
「どうしてこの世界を巻き込もうとする⁉︎ お前ら転生者を苛む、後悔の原因すらもなかったことになったこの世界を!」
「いいえ、それは違うわ。わたくしたちの中には残っている。かつて受けた痛みを、苦しみを、屈辱を、絶望を、後悔を! 決してなかったことになんてしない!」
前方の手を翳すエウロペ。そこから放たれるのは、ブリッジを燃やしているのと同じ、黒い炎。
透明な炎はどうしたのかと思うが、考えるのは後だ。恐らく、桃を倒したのもこの炎があったからだろう。いくら聖女の力とはいえ、それひとつで魔女を圧倒するなんて不可能だ。
緋色の桜で迎え撃ち、互いの中心でぶつかる。だが激突は一瞬にも満たなかった。あっという間に桜は黒く染め上げられ、そのまま枯れて地に落ちる。
炎は勢いもそのままに緋桜へと迫り、ギリギリで横に跳んで躱した。
「転生者の炎は一人につき一色じゃないのかよ」
「わたくしはジャンヌダルクの転生者。激動の時代を生き、世界の変革に直面した聖女。赤き龍とは相性が良かったみたいですの」
「聖女様よりも、そっちの槍の方が原因だと思うけどな……」
「あら、バレてましたのね」
悪戯を企てる子供のような笑みで、腕が振われる。連動するように黒い炎が襲いかかり、原理が不明ゆえに防御もできず、ただ躱すことしかできない。
「赤き龍の『変革』で炎の色が変わったってわけかッ、力まで変わってるってことは、また別の後悔でも重ねたか⁉︎」
「ええ、ええ、まさしくその通り。わたくしは、ただ死を望むだけの矛盾した転生者だった。この人生でも、どうやって死ぬのかだけを考えていた。けれど世界は、人間は、いっそ滑稽なほどに何も変わらない」
低く冷たく、深い憎悪の籠った声。これまでのエウロペとは様子が違う。
緋桜を追い回していた炎も、エウロペの笑みも消える。
「旧世界で異能研究機関ネザーがなにをしていたのか、あなたはご存知かしら?」
「なに?」
予想外の名前が出てきて、緋桜は眉を顰める。たしか、旧世界でのエウロペはネザーに出資していたのだったか。しかしこのタイミングで出てくる名前ではない。
緋桜はたしかにネザーに所属していたが、やつらがやっていたことはなにか、と聞かれても。思い当たる節が多すぎて逆に分からない。
「人体実験にクローン。彼らが行った非人道的な実験で食い潰されてきたのは、まだ幼い子供たちだった。戦争孤児や捨て子、難病を抱えた子のような、消えても問題のない子供をたくさん使っていたのよ」
「……」
耳の痛い話だ。それらは全て、緋桜がこの目で見てきていながら、止めることのできなかったものだから。
当然、緋桜とて全てを把握していたわけではない。当時のネザートップであったミハイルには緋桜の正体がバレていたから、多くの実験を伏せられたままでいた。
プロジェクトカゲロウの延長で生み出された大量のクローンは、未だ記憶に新しい。
「わたくしは聖女。主の声を聞いて、常に清廉でいようと努めたバカな女。だから、ネザーが児童支援のためと謳っていたから、迷わずにお金を注いだ」
それが、異能研究機関の嘘だとも知らずに。
異能とはある種万能な力にも思える。身体に障害を残す子や、帰る場所のない子、多くの子供たちにとっては救いとなる力だった。だからエウロペは、ネザーを信じて支援金を多く投じた。
その結果として生み出されたのは、多くの死体と人形のようなクローンだけ。
「死を望むだけのわたくしも、もう一度人を救いたいと思えたのよ。それを、やつらは弄んだ! あの時と同じなの、百年に渡る戦争をひたすらに駆け抜けたあの時と!」
「だから、この世界ごと自分も死のうってか? 随分と発想が飛躍するんだな」
「簡単に理解されてしまっては、転生者の名折れですもの」
かつての人生でも、今の人生でも。何度も何度も人間に裏切られたエウロペ・ティリスという転生者は、そうやって生まれ変わった。変革が訪れた。
最初に抱いた後悔すらも塗りつぶすほどの、新たな後悔を以って。
「だからわたくしは、この世界を呪う。わたくしの憎悪で染め上げる。世界が作り替えられようとも、人の醜さはなにも変わらないもの」
緋桜には、彼女を否定してやることができない。似たような女を間近で見ていたから。
桃瀬桃と、魔女と同じなのだ。
復讐を願いはすれど、彼女が復讐すべき相手は、ミハイル・ノーレッジはこの世界にも存在しない。異世界で死んだ彼は、再構築の恩恵に与れなかったから。
けれど魔女とは違い、その矛先を世界へ向けた。復讐を完全に失った桃の、あるいはひとつの可能性とも呼べる姿。
それがエウロペだ。
「この黒炎は、わたくしのうちに秘めた呪いの具現。わたくしが憎悪するこの世界全てに、永遠の呪いと破壊を齎す炎!」
「だったら尚更解せないな。お前、そんなこと言うくせに、どうして俺を旦那にするなんてことを言った?」
「あなたなら、わたくしの側にいてくれると思ったからよ」
迷いのない即答。
短い付き合いの中で、緋桜の本質を見抜いているからこその。
「例えわたくしがどれだけの黒い感情を持っていても、あなたは決して目を逸らしてくれないでしょう。否定することもないでしょう。魔女を見て確信しましたわ。あなたは、自分と同じ人間を見捨てられないの」
「同じだって……? 俺とお前が?」
「ええ、そうよ。プロジェクトカゲロウによって生まれた三人。彼らを自分の弟妹だと、耳にタコができるほど周りに吹聴していたのはなぜかしら?」
「そんなの……一つしかないでしょ……」
別の声が、会話に割って入る。
緋桜の背後から放たれた魔力の槍。容易く防がれてしまったが、エウロペの表情は忌々しげに歪んでいる。
「こいつが、重度のシスコンだから。それ以外に理由なんてないよ」
「桃……」
ボロボロの体を押して、治療することもなく立ち上がる魔女。痛々しい傷はそのままに、おさげに結っていた髪は解けている。額から流れる血が、右目を塞いでいた。
誰が見ても満身創痍だ。戦えるような状態ではない。
「知ったような口を聞いて、本当はなにも分かってないんだね。こいつはただのシスコン。妹のことを誰よりも大切に想う、どこにでもいる馬鹿な兄貴だよ」
「なにも分かっていないのはあなたの方よ、魔女! いえ、あなたなら分かるはずでしょう? わたくしたちと同類であるあなたなら!」
「勝手に同類扱いしないで欲しいなぁ」
呆れたようにため息を吐く桃が、緋桜の隣に並び立つ。自分より20センチ近く小さい華奢な体を見下ろし、心配するような言葉を出そうとして、やめた。
どうせ返ってくる答えは分かりきってる。なにを言ったところで、こいつが今更退くわけない。
「戦えるんだな?」
「当然。なんか、目が覚めた気分なんだよね。やりたいことが見つかった感じ」
「そいつはよかった、後でちゃんと聞かせてくれよ」
「うん、あのお姫様を倒したらね」
構えて、チラとその横顔を盗み見る。
たしかに数時間前とは違うようだ。吹っ切れたのか、悩みが解決したのか。どのような過程を経たのかは知らないが、彼女の迷いが晴れたのならそれでいい。
どのような答えが出るのかは、後の楽しみに取っておこう。
◆
灰色の景色が流れる。
レンガ造りの建物や空に伸びる蒸気、霧がかった街並み。とっくの昔に記憶から消えてしまった、二百年前のロンドンの景色だ。
色を失ったその中に、桃瀬桃は立っている。
なぜかはわからない。魔導戦艦とか呼ばれるものの中で、エウロペと戦っていたはずだ。そして黒く変色した炎をまともに受けてしまい……その後の記憶は曖昧になっている。
つまり、そこで意識を失ってしまったか。
『懐かしい景色じゃないか。貴様と初めて出会った時のことを思い出す』
頭の中に直接響く声は、まさにこの時代で因縁ができた灰色の吸血鬼のもの。しかし姿はどこにも見えず、それどころか自分の意思で声を出すこともできない。
『これは記憶の再現だよ。かつて起きたことを繰り返しているだけ、そこに今の貴様の意思は介在の余地がない』
その説明で余計に混乱する。どうしてそんなことが起きている? 桃本人ですら忘れてしまっているのに。
しかし、グレイの言葉を裏付けるように、桃の体は勝手に歩き始めてしまった。
街を抜けて郊外まで。そこに立っている屋敷の中に足を踏み入れる。途中で視界に入った鏡には、金髪碧眼とチャーミングなそばかすが特徴的な田舎娘が映っていた。
ああ、そうか。昔の自分はこんな姿だったのか。それすらも忘れていることに、桃はどこか寂しい気持ちになった。
屋敷に入った桃の体は、迷わずに地下へ続く階段を降りる。その先の扉に手をかければ、中はかなり広い空間となっていた。この時代はまだパソコンも普及していないし、魔術師はみんなアナログ人間ばかり。手書きの紙が至る所に積み重なって、数人の魔術師がまた新しい紙になにかを走り書きしていた。
彼らの視線は、最奥の魔法陣へと向けられている。正確には、その上で浮いている半透明の石に。
「やあ、来たね■■」
魔術師の一人がこちらに気付いて、桃を呼ぶ。けれど名前にはノイズが走って、聞き取ることができなかった。
この時はまだ、桃瀬桃なんて名前ではなかった。これは小鳥遊が勝手につけた名前で、生まれた時に親から授かった名前は別にあったのだ。
でもそれだって、今となっては思い出せない。聞き取ることもできないから、ここで知ることも。
「こんにちは、ライド。賢者の石は今日もご機嫌斜めかな?」
「いい加減懐いてくれてもいい頃合いのはずだけど、そう上手くはいかなそうだ」
流暢な英語は、最初自分の声だと思えなかった。それすらも今の桃と異なっていて、やはりこの頃の、夢や希望ばかりを抱いていた自分はもういないのだと痛感する。
「分かっているのは、膨大な魔力を内包していることと、それらを半永久的に生み出していることだけ。未だにその二つしか分かっていないのだから、先の長い話よね」
「でも、この賢者の石を上手く扱えれば、無限のエネルギー源として使える。でしょ、アーシャ」
褐色の肌をしたアーシャは、まるで夢物語にも思える発言に肩を竦めるのみ。
この賢者の石があれば、人々の暮らしはもっと豊かになる。悪用を企む輩も出てくるだろうけど、その時は自分たちが守ればいい。
なにより、この小さな石に秘められた未知が、若い魔術師たちの好奇心をどこまでも刺激する。
青臭すぎる自分の発言に、桃は悶えそうになるのを必死に堪えていた。とはいえ、ここでは自分の意思が行動に反映されないから、堪える必要もないのだけど。
『随分と可愛らしい願いじゃないか。今の貴様からは想像できんな』
くつくつと喉を震わせる吸血鬼。それは桃自身が一番よく分かってるからちょっと黙ってて欲しい。
灰色の景色が急速に移り変わり、場面が変わる。屋敷の地下に広がる研究室ではなく、ロンドンの街にある茶屋だ。
同僚のアーシャと向かい合わせで座っている。
「ねえ■■、あなたは今の研究が終わったら、やりたいこととかないの?」
「やりたいことかぁ……世界中を冒険してみたいかな」
「なにそれ?」
首を傾げるアーシャと同様、若い自分の発言が理解できない桃。自分はこんなにアグレッシブな女だったろうか。
「この世界には、まだ未知のものがたくさんある。だから、世界中を冒険して見つけるんだ。わたしの知らない、たくさんのものを」
弾んだ声と輝かせた目。
本気で言っているのだと、聞いた誰もがそう感じるだろう。
ああ、なんだ。わたしはこの頃から、なにも変わっていないんだ。
復讐のために二百年を生きても、新世界で十八年過ごしても、なにも変わっていなかった。
未知への好奇心。あるいは探究心。
桃の原動力は、いつだってそこにある。
「ふふっ、いいじゃない。でもあなた一人はオススメしないわよ?」
「むっ、たしかにわたし、腕っ節はないけどさぁ」
「違う違う、そうじゃないって。冒険って聞こえはいいけど、楽しいことだけなわけがないでしょ? もしもなにか脅威に出くわした時、心が折れそうな時、■■はひとりで抱え込む癖があるから。長い付き合いの私は知ってるのよ?」
バツが悪そうにそっぽを向いて、今の桃自身にも当てはまることだった。
一人で抱えているわけじゃない。朱音や愛美にだって色々と打ち明けた。でも、それでも桃の心が晴れることはなくて。同時に、異世界への移住をやめる気にもならなかった。
「だから、もしもあなたがどこか遠くへ行く時は、信頼できる誰かを連れて行った方がいいわ」
「アーシャじゃダメなの?」
「私にだってやることはあるの。あなたの冒険に付き合う暇なんてないわよ」
「じゃあライドとか教授かなぁ」
「誰でもいいのよ、あなたが本気で信頼できて、一緒にいたいって思える人なら」
「一緒にいたい……冒険に行く相手を選ぶ基準としてはちょっとおかしくない?」
「だって、長い時間を共にするのよ? ずっと一緒にいることになるかもしれない。それでもいいと思える相手の方がいいわ」
そんな相手、当時の自分には思い当たらなかったけど。今の桃なら、ひとりだけ頭に思い浮かぶ。
けれどそれを本人に言えていたのなら、今の桃はこうなっていないだろう。
気分の沈む桃に、アーシャの言葉が続けられる。
「あなたがそう思えた相手なら、きっと相手もあなたのことを同じように思ってるはずよ」
「根拠は?」
「だってあなた、人を見る目があるもの」
自信満々に言ってのけるものだから、つい吹き出してしまう。アーシャも釣られて笑いだし、二人分の楽しげな声が店内に響いた。
そして、また景色が変わる。
屋敷の地下の研究室に戻る。ただし、先ほどとは大きく違っていた。そもそも地上の屋敷自体が捲れ上がり、地下の研究室は夜の闇に晒されていたのだ。
桃が立つすぐ後ろには、魔法陣の中で神秘的に月の光を反射させている石。そして眼前には、仲間の魔術師たちが灰色の髪を持つ男と対峙していた。
どこかで一緒に同じ光景を見ているグレイからは、なにも声がない。
「賢者の石を寄越せ。そうすれば、命だけは取るまい」
「ふざけるなよ、吸血鬼。あの石はここにいるわしらが、学院より任されたものじゃ」
「ふむ、そうか。ならば致し方ないな。貴様らには退場してもらうとしよう」
啖呵を切った教授、桃を魔術の道に導いてくれた恩師が、襲ってきた吸血鬼を撃退するために術式を組み上げる。当時の桃には真似できない精巧な術式構成は、しかし魔法陣を描く前に掻き消えた。
術者である教授の胸に、どこかから飛来した槍が突き刺さっていたから。
「教授っ!」
「ダメだ■■、君は賢者の石を持って逃げろ!」
「でも!」
「あいつの足止めは私たちが引き受けるわ! その間に、早く!」
「どうして! わたしも、みんなと戦う! 教授の仇を……!」
ライドとアーシャの二人と言い合っているうちに、同僚の魔術師たちが次々と殺されていく。胸を、あるいは頭を槍に突かれ、腹を裂かれて臓腑を落とし、全身を串刺しにされている。
そんな光景を前にして、恐怖が沸き起こるけど。逃げると言う選択肢は、選べるわけがなかった。
「いいから、よく聞いて■■。この前私が言ったこと、覚えてる? あなたは、冒険に出たいと言った。今がその時よ」
「ち、違う……違うよアーシャ、今じゃなくても、わたしは……」
「違わない。あなたは今から、世界を巡る旅に出るの。この小さな研究室のことなんてさっさと忘れて、賢者の石もどこかに封印しちゃって。そうして旅の先で、大切な誰かを見つけなさい」
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!」
足元に、魔法陣が広がる。転移のものだ。今の彼女はその魔法陣に抗う術を持たない。賢者の石もその上に放り投げられて、そして次の瞬間には屋敷から離れた場所に転移していた。
遅れて、大きな爆発音。東から黒い煙が上がっているのが見える。
どうすればいいのかわからなくて、とにかく石を持ち少しでも遠くへ逃げた。きっと悪い夢だ。仲間の誰かが悪戯をして、わたしに夢を見せているんだ。
けれど、走り出して一分も経過しないうちに、現実が追いついてきた。
「無駄な抵抗をするなよ、女。その石は私がもらう」
この吸血鬼が追いついてきたと言うことは、抗戦を試みた仲間たちは、既に……。
この時の心境を、こうして振り返っている今でも、桃は上手く言語化できない。
ただ、やらねばならないと思った。いやもしかしたら、なにも考えていなかったのかもしれない。完全に無意識の行動だったのかも。
なんであれ、結果として。
力のない魔術師の一人に過ぎなかった少女は、賢者の石を口に入れ、あろうことか飲み込んだのだ。
「貴様、なにをっ⁉︎」
「うッ、ぐぅ……あああああああああああああああああああ!!!!!」
絶叫と共に世界が白く染まり、そして。
魔女が、産声を上げた。
「……改めて見てみると、酷いものだな」
「なにが?」
グレイの声が耳に届くものであると判断して、声を発する。今の桃は当時の自分からではなく、まるで霊のように俯瞰から、倒れた自分と一瞬で荒れ果てた大地を眺めていた。
「この地は今後二百年に渡り、草の根一つ生えない異界と化したことだ」
「わたしたちのせいじゃん」
魔女が生まれたこの場所は、賢者の石の暴走により誰も立ち入れない異界となった。
二百年が経っても多少マシになった程度なのだから、それだけでも、賢者の石の恐ろしさが窺える。
「ていうか、これなに? なんで昔の景色なんか見せられてるわけ?」
「さてな」
「どうせグレイの仕業じゃないの?」
「私はなにも知らんよ。ただまあ、丁度良かったのではないか?」
悔しいがグレイの言う通り。
今見せられていたのは、本当は忘れたくなかったはずの、けれどもう記憶のどこにもない思い出だ。
二百年の中で摩耗して、擦り切れて。
もしもいつか、彼や彼女のことも、忘れてしまったら。
「それは嫌だな……」
かつての同僚の言葉が過ぎる。
わたしは一人で抱え込みすぎるから、冒険に出るなら大切な誰かを見つけろと。
今ならその意味が、少しだけ分かるような気がする。
不意に、視界の端を緋色が舞った。
完全に死滅したこの荒野には、あるはずのない桜の木。気がつけば眼前に聳え立っていて、花びらを散らしている。
この桜は緋桜の使う心想具現化の恩恵。
心想具現化とは、文字通りにその者の心を具現化する魔術。だから本来、桃の心想具現化はまた別のものになるはずだけど。
この桜が、世界で一番綺麗なこの魔術が。胸の奥深くまで根ざしているのなら。
「グレイ、外の様子は分かる?」
「緋桜が戦っているな。しかし、貴様の体はボロボロだぞ? あの髪飾りも奪われている。心想具現化は使えんな」
「上等、奪われたんなら奪い返すまで。やられっぱなしで終わるなんて、魔女の名前が泣くからね」
過去の記憶を見たからだろうか。自分という存在の根っこを思い出したからか。あるいは、魔女の始まりを回想したからなのか。
胸のつっかえが取れた気分だ。もう迷うことはない。
久しぶりの晴れ晴れとした気持ちで、桃は桜の木に触れた。
そして、現実へと帰還する。
彼の、黒霧緋桜の隣に立つために。
 




