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無重力のδ

作者: 村崎羯諦

 私の好きだった男の子は怪物になって、結局挽肉にされてしまいました。それからというもの、私はお肉が食べられません。


 無重力のδ(デルタ)は言いました。人間が怪物に()()んじゃなくて、怪物が人に()()()()んだ、と。無重力のδはいつも、すぐには理解できないような、小難しい言葉を使って説明します。曖昧さを排除しようとしたら、そのような言葉を使うしかないのさ。無重力のδは口癖のように、そんな言葉を繰り返します。


 やっぱりよくわからないですと私が伝えると、隣にいた物知りのγ(ガンマ)()()()()というのは受動態という種類の言葉なんだよと教えてくれました。私は横にいた物知りのγの顔を見上げます。物知りのγはこの惑星に存在する人間の中で一番背が高い人間です。右頬から額にかけて大きな火傷の痕があって、皮膚はカルトラ湖の底のように赤黒くただれています。いつもお腹から声を出すけれど、笑う時だけ風船のように胸が膨らんで、しぼみます。私は理屈っぽい無重力のδよりも、優しい物知りのγの方が好きです。私がそれを伝えると、無重力のδは笑って、物知りのγは悲しげな顔をしました。どうして悲しい顔をするんですか? 私の問いかけに、それは私にもわかりませんと物知りのγが答えます。物知りなのに変なのと私が笑うと、無重力のδがまた難しい言葉を使って哲学を語ります。


「知らないことが多いという意味では、物知りの方が僕達なんかよりも遥かに無知で、無力的なのさ」


 そして私たち三人が基地でお話をしている時はいつも、木曜日のα(アルファ)は青緑色をしたユネ湖の底で眠っています。そこで彼女は夢を見ています。彼女の夢は、私たちの過去でもあり、未来でもあります。私や木曜日のα自身も結局は彼女の夢の中の幻想でしかなく、目覚めると同時に消えていく泡のような存在なのかもしれません。木曜日のαはいつも寝てばかりいるのですが、それでも私は彼女のことが大好きです。長い眠りから目覚めた木曜日のαは腰まで伸びた灰色の髪から水を滴らせ、裸足のまま基地の中を歩きます。その姿は美しくて、神秘的で、まるで見てはいけないものを見ているような感じがして、思わず息を飲んでしまいます。木曜日のαは私に気がつくと、曜日によって色が変わる瞳を大きく見開き、それから可愛らしいウィンクをしてくれます。そのまま彼女は穏やかな微笑みを浮かべて、私の方へ近づいてきます。彼女の濡れた髪には時々、ユネ湖の底に生えている虹色の藻が絡まっていて、白昼色の照明を反射してキラキラと輝いています。それに気がついた私はそわそわしてしまって、もらってもいいですか? と彼女に尋ねるのです。


「欲張りさんね。まるで冬眠から目覚めたばかりのリスみたい」


 そう言いながら木曜日のαは髪に絡まった虹色の藻を取り、私の手にそっと握らせてくれます。彼女の手は濡れていますが、不思議と冷たくはなくて、温もりを感じます。それから私たちは、壁の近くに座ってお喋りを始めます。彼女の声は鈴の音のようによく響いて、そんな綺麗な声を聞くと私は、どうしようもなく泣きたくなるのです。


「どうしてあの男の子は怪物になってしまったんですか?」


 私は無重力のδに尋ねます。すると無重力のδは音を立てずに笑い、私の目をじっと見つめながら答えてくれました。


「理由なんてないさ。僕や君が怪物になる可能性だってあったし、ひょっとしたら誰も怪物にならない可能性だってあったのかもしれない。だけど、それは誰にもわからない。結局は確率の問題だから」

「確率って何ですか? 神様みたいなもの?」

「神様よりもずっと良いものだよ。徹底的に中立で、公正で、そして何より僕たちに変な期待を抱かせないからね」


 無重力のδの言うことはやっぱりよくわかりません。でも、それは今に始まった事ではないので、仕方ないのです。自分が気に入らないという理由で誰かを変えてしまうことは、あまり褒められたことではないからです。


 私の身近な人が怪物になってしまったのは、これが初めてではありません。私がまだ小さくて、基地の地下にある二人部屋に住んでいた頃、同じ部屋に住んでいた女の子が怪物になってしまいました。無重力のδの言葉を借りるのであれば、確率の問題によって。


 その女の子は私より三歳年上で、笑うと右頬にエクボが浮かび上がるのが特徴でした。右耳には十字架の形をした小さなピアスをつけていて、緊張している時、嘘をついている時、無意識のうちにそのピアスを触るのが彼女の癖でした。私たちの部屋には二段ベットが置かれていましたが、私たちは一段目の狭いベッドで、同じ毛布に包まって寝ていました。眠れない夜にはよく、私は横で眠っている彼女のピアスをじっと見つめていました。十字架の先端についた丸いガラスが、カーテンの隙間から差し込んでくる星の光をキラキラと反射しているのを見ると、まるで暗い夜空に一人ぼっちで浮かんでいる星を見ているみたいで心が落ち着きました。眠たくなると私は彼女を起こさないようにそっと身体をくっつけて、両手で彼女の身体を抱きしめます。彼女は私よりも頭一つ分背が高いのに、抱きしめた体は私の両手が届くくらいに細くて、そして、冷たかった。


 彼女が怪物になったのは、星が青白く輝いていたある夜のことでした。目を開けると、部屋の中はまだ暗くて、一緒に寝ていたはずの女の子がいなくなっていることに気がつきました。もう一度寝ようと思って目を瞑りましたが、なぜか眠れなくて、私はそのまま身体を起こします。そして、浴室へと続く扉の隙間から明かりが漏れているのに気がつくと、私はそっとベッドから抜け出して、誘われるようにそちらへ近づいて行きました。裸足で歩く夜の廊下は冷たくて、耳を澄ますと足の裏と床が擦れる音が聞こえてきたことを、私は今でも思い出します。


 扉を開けると、眩しい照明の光が目を刺しました。軽いめまいを覚えながら脱衣所に入り、浴室の扉を開けると、そこには怪物になった女の子がいました。彼女の身体は水で濡れていて、シャワーの縁からは水が滴っていました。切れかかった浴室の照明は明滅していて、私の視界から怪物になったその子の姿が現れたり、消えたりしていました。私は呼吸を止めて、ただ怪物になった女の子の姿を見つめました。空気は冷たくて、毛布の温もりが少しずつ身体から抜けていくのがわかりました。


「見ないで……」


 怪物になった女の子はそう言いました。低く落ち着いた彼女の声ではなくて、怪物の声で。私はただ頷いて、後退りをしながら浴室から出て行きました。それからベッドの中に潜り込み、自分は夢を見ているのだと思い込むことにしました。身体全体が震えて、いくら息を吸っても酸素が足りなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになって何も考えることができませんでした。しばらくすると、部屋の外が騒がしくなり、扉が勢いよく開かれる音がします。私は顔を上げ、そちらへ視線を向けました。武装した三人の大人たちが中に入ってきて、そのまま一人ずつ浴室へ消えていきました。そして、浴室からタップを踏んだような乾いた銃声が聞こえてきて、それからまた部屋全体が静まり返ります。それから二人の大人が、射殺された怪物を引きずりながら出てきました。私は黙ってその光景を見つめることしかできませんでした。そして、二人は怪物とそのまま部屋の外へ出て行きます。床に残された真っ赤な血の跡が、青白い月明かりに照らされてとても綺麗でした。


 それから部屋に残っていたもう一人の大人が浴室から出てきて、ベッドにいた私に気がつきます。その人物は少しだけ躊躇った後で、ゆっくりと私の方へと近づいてきました。暗闇に慣れた目でじっと見つめていると、その人が逆さまのβ(ベータ)だということがわかりました。逆さまのβはベッドの横で膝をつき、そっと私の頬に手を当てました。彼の手は大きくてゴツゴツしていて、硝煙の匂いがしました。服の裾には血が斑点模様のようについていて、革のベルトの表面が所々剥がれていました。


「あの子はどうなっちゃうんですか?」


 逆さまのβはこの惑星にいる人間の中で一番強くて、可哀想なほどに優しい人でした。だから、何も知らない私の残酷な質問にも、逆さまのβは何も言わず、ただ私の額にそっとキスをしてくれました。それから逆さまのβは静かに立ち上がって、部屋を出て行きます。逆さまのβは教えてくれませんでしたが、怪物になった女の子はこの基地の慣例通り、挽肉にされてしまいました。その時の私はそのことを知りませんでしたし、それを誰も咎めることはできませんでした。


「惑星が枯れつつある時、こういうことが起きるんだ。いや、起きると言ったら語弊がある。こういうことが起きる確率が跳ね上がる。そう言うべきだね」


 無重力のδはそう言いました。惑星が枯れるとはどういうことですか? と私が尋ねる前に、無重力のδが言葉を続けます。


「惑星は生きている。そして、寿命がある。惑星は生まれた瞬間から、死に向かって枯れ続けていく。そして途方もない時間をかけて惑星が枯れ切った時、悲しみから夜が涙を流す。夜が流した一雫の涙は砂漠に落ちて、それが新しい惑星の種となる。いずれそこから芽が出て、新しい惑星が生まれる。それを繰り返しながら、この宇宙は今の形を保ち続けているんだ」

「授業で、人類は昔地球という惑星に住んでいたと聞いたことがあります。地球がなくなってしまったから、私たちはいまこの惑星にいるということも。その地球も他の惑星と同じように枯れてなくなってしまったということですか?」

「よく勉強してるね。偉いじゃないか。でもね、地球は枯れてなくなったわけじゃないんだ。枯れることができるのは、美しく清らかな惑星だけ。汚されて、ぐちゃぐちゃになった惑星は枯れることができない。そういう惑星は枯れるんじゃなくて、腐っていくのさ。惑星が腐って死んでしまっても夜は涙を流せない。涙が流せないのだから、新しい惑星が生まれることはなく、宇宙から惑星が一つ、永遠に消えて無くなってしまう。悲しいことにね」


 時間をカチコチに凍らせてしまって、惑星も人間も今の姿のまま、未来永劫変わらなくしてしまいたいと考えることがあります。けれど、時間はそんなことなどお構い無しで、螺旋を描くように同じ毎日を繰り返します。


 木曜日のαは夢を見て、逆さまのβは怪物を殺します。物知りのγは本を読み、無重力のδは哲学を語ります。そんな毎日の中で、私は今日も怪物になった男の子のことを想います。そして時々、同じく怪物になってしまった女の子と、枯れることもできずに消えていった地球という惑星のことを想います。


 確率によって定められた運命の中で、今日も私は私でいることができてとても幸せです。悲しい気持ちが尽きることはないですし、お肉を食べることはまだまだできそうにないです。それでも、部屋に飾った虹色の藻を見つめていると、この世界はどうしようもなく美しいことを思い出すのです。


 今日が終わって、明日がやってきたら、そのことを心からお祝いしたいです。そしてそれから、木曜日のαと一緒にユネ湖へ行こうと思います。青緑色の湖に潜って、虹色の藻をポケット一杯に詰め、それを物知りのγに自慢するつもりです。優しい逆さまのβにはおすそわけをするけれど、屁理屈な無重力のδには一本だけしかあげません。時間が過ぎていくのは恐ろしいけれど、明日が来るのは楽しみです。


 きっと私はこれからも、そんな風に生きていくんだと思います。今も枯れつつある、この惑星の上で。

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