初めての——
目の前は暗黒。
空も暗黒。
そしてしっかりと見えていた足元も遂に暗闇に飲み込まれた。
誰もいない。誰も存在しない。どこにもいない。
何を探しているのか分からない。
自分が何者なのかも分からない。
足元に闇が絡み付いてきた。
「『闇の者よ』」
声が聞こえてきた。
可愛い少女の声が仰々しい老人みたいな話し方で接してくる。
「誰かいるの?」
どこに話しかけているのか分からない。目線は真っ直ぐなのに声が掛かってきたのは後ろな気がしてしまう。この空間においてソフィアの認知力は皆無に等しい力しか無かった。
「『闇の者よ、いつ私を迎えに来る』」
ぶっきら棒な言い方は偉そうな人物——皇帝らしさを感じさせる。
闇の者と言っている辺り、ソフィアが闇の領域に住んでいる魔族というのは分かっているみたいだ。
「あなたは誰?」
「『……』」
少女の声が聞こえない。代わりに足元に蠢いている闇が腰まで来ていた。
一瞬の隙に飲み込まれてしまいそうな闇にソフィアは背筋が凍る。
本来は、慈悲深き、慈愛に溢れる闇なのに今では光の使者——暴虐の限りを尽くす天使のように怖い。
「や、やめて!」
手を振って拒絶しようとしたが動かない。
いや、手が闇に埋まって動けなかった。
「『私は』」
声がゆっくりと囁かれる。
問いかけたのはソフィアなのに聞きたくない、聞いてしまったら戻れない恐怖心に埋め尽くされる。
「い、いゃ……」
闇が口にまで達していて、遂には喋れなくなった。
一切の身動きが出来ない。それどころか呼吸の仕方を忘れてしまった。
窒息死。
ソフィアに死の匂いが漂ってきた。
(やめてやめてやめて!)
心中で何度も嘆いた。けれども、ソフィアは途中から何に対して嘆いているか分からなくなった。
(あ、あれ? 私はなんで苦しかったのかな)
呼吸が出来るようになっていた。突然の変化は、再度繰り返す。
「ソフィア様?」
女の声が聞こえた。
この声は一度も忘れた事がない。
何度だって最後に見た光景、会話を忘れようとしたのに、忘れられない声がした。
——なのに、名前が出てこない。
(いや、いや、いや! 忘れたいのに忘れたくて仕方ないのに! なんで大切な名前が出てこないの!)
矛盾で脳みそが溶ける。
そう感じた時、ソフィアの横腹から血が流れた。
「私は、ソフィア様に殺されました。なのに、ソフィア様は、もう私の事を忘れたんですか」
——その手で殺したのに。
(わ、私じゃない! わ、私は……)
「見殺しにした? そうですよねソフィア様」
女が後ろから抱きしめる。
少し痛いくらいに抱きしめるとソフィアの目を隠す。
そして呼吸が耳元で聞こえてきた。とても近く、唇が触れてしまいそうな距離に。
「『闇の者よ、私の名は』」
目から離れる手はゆっくりと首元に動き……絞められる。
(く、苦しいっ!)
首を絞められて、暴れて離れようにも闇に溺れて動けない。
「『ソフィア』」
少女がそう言った。
名前を呼ばれて気がついた。
少女の声はずっと”自分”と同じ声だった。
つまり——。
「『闇の者よ、私の名前は女王”ソフィア”だ』」
★★★★★
「……はっ! え、え?」
勢いよく起きたソフィアは辺りを見渡した。そこは見慣れた焼け焦げた広場だった。
悪夢を見たのだと理解してため息を吐く。
真夜中、目を覚ませたソフィアは隣で眠っている子犬姿のズーズンを抱きしめる。
「クゥ」
「起こしちゃった、ごめんねズーズン」
ズーズンは何かを察したのか舐めてきた。
意味の分からない恐怖が襲ってくる怖い夢だったとソフィアは覚えている。細かくまでは覚えていないが決して侵してはいけない間違いをした事だけは覚えている。
「ん……ぐっ。忘れてないよナーシャ」
涙が溢れ落ちてきた。
忘れてはいけない人の名前を忘れてただけでなく、否定をしてしまった。
「私が殺したのに……私のせいなのに!」
ソフィアが弱かったからナーシャは斬り殺された。ソフィアが日頃から怠けていないで、もっともっと【竜皇気】の質を上げていれば……もしそれが可能だったならばナーシャは助かったかもしれない。
一人だけこんな場所に逃げ延びないで、どこか別の国で二人で生きていたかもしれない。
ソフィアは弱っちい自分が大嫌いになっていた。
「なんでなのかな……」
ゴガガを目の前にして自分は怯えてしまった。勝てないと心の底から思ってしまった。
言い訳ばかりが頭の中に浮かぶ。
アシュバを助けられたから、ズーズンを手懐けられたから浮ついた気持ちになっていた。
決して自分の実力ではなくたまたま【権能】の相性が良かっただけなのに、調子に乗ってしまった。
ソフィアがお願いしなければアシュバとズーズンに危険を及ばさなかった。
「……それだったのかな」
悪夢が見せたのは後悔の色だったかもしれない。ソフィアはそう思って目を伏せた。
ずっと隣で身体を寄せてくれていたズーズンが再度、ソフィアの顔を舐めに来る。
「ありがとうねズーズン」
手前で手を出して止める。そのまま顎の下を撫でると気持ち良さそうな顔をしていた。心地よいのかズーズンの瞼が何度も下に落ちていた。
「また寝ようね」
慰めてくれるズーズンに感謝した。けれども、後悔は色濃く残る。
間違えは死に直結する暗黒宮で甘えているのは自分だけだ。そう何度も思わせる悪夢だった。
【竜皇気】を持っていても自分は国王ではない。ソフィアは単なる世間知らずのお姫様でしかない。そのちっぽけな存在がここでは無力でしかない。国民を重んじ、全てを決めていた魔王では無い。
「私は弱いよ……」
また涙が込み上げてきた時、隣で音がした。
「そんな事は無いですよソフィア様」
アシュバが起きて、ソフィアの方を見ていた。その顔色は少しばかりか心配という色が付いていた。
「私にとってソフィア様は最強な御方です」
「そうじゃないよ。私は……私は……」
ふと此処に来た理由を話そうとしてしまった。
このまま言っていいのか悩んだ。だが、ここで言わないとアシュバに心配だけ掛けてしまう最低の主人の様な気がしてしまう。
手をグッと握って、誰かに背中を押してもらいたい気持ちを堪えて、ソフィアはゆっくりと口を開いた。
「私はね……メイドを見殺しにしたの! 一国を背負う王族が、姫が! 民を見殺しにしたの! そんなの……魔族失格だよ……」
全てでは無いがソフィアにとって最も大切な部分を話した。
これでアシュバは、落胆するだろう。
アシュバは見捨てられてショックを受けているのに、新しく付き添っていた主人も臣下を見殺しにしていたんだから同罪だ。
「……本当にそうなんですかソフィア様。何か事情があったからとかじゃないんですか」
「本当なの……私だけ、私だけが逃げた。私だけが【転移魔法】でここまで逃げてきたの……」
大粒の涙を流して、呼吸も思い通りに出来ないソフィアの手をアシュバは優しく握った。
「ソフィア様。ずっと辛かったんですね。ずっと謝っていたんですね。だから——ずっと泣いていたんですね」
罵られると思っていたのにアシュバから掛けられた声は優しい物だった。
「私の事……嫌いに……ならないの?」
「こんなにも優しいソフィア様を誰が嫌いになりましょうか。私は、ソフィア様が魔法が使えない事を知ってますよ」
確かにソフィアは魔法が使えない。しかし、魔法を込めた魔法具を使えば、例え魔力が無くたって誰だって使えるようになる。
「私が、魔法具を使ったって——思わないの?」
「はい、ソフィア様なら決して逃げず立ち向かうと思います……貴女様は、心優しき人です。本当は【転移魔法】を掛けたのはメイドでしょう?」
ゆっくりと頷いた。
「前を向いて下さいソフィア様」
涙を拭いても拭い切れない。
けれども、頑張って前を向くとアシュバとズーズンが跪いている。
「私はソフィア様に全てを捧げます」
「そんなの!」
——ただ命を助けただけなのに。とソフィアが言おうとした時、アシュバが言葉を続ける。
「それは暗黒宮で死ぬしかなかった私を守ってくださったからではありません」
ソフィアが言おうとしていた事をアシュバに言われてしまった。
「ソフィア様という人は、全てを捧げるに相応しい程の強く優しき心を持った君主だからです」
「……優しくない」
「ワンワン!」
ズーズンの声が響いた。
突然の大声にソフィアが肩を浮かせる。
「ズーズンもこう言ってます。ソフィア様の強さは力じゃなくて弱者を放って置かない心だと、だから涙を拭いて……と」
鼻水を啜ってもう一度涙を拭った。
「何を言っても私はソフィア様について行きます」
アシュバとズーズンが頭を下げた。
ソフィアは、ゆっくりと口を開く。
「うそじゃない……?」
ソフィアは今にも後悔で押し潰れそう。だから、声も震えている。
こんな自分について行けばまた仲間を失うかもしれないと……。
「この魂に契約します。ソフィア様の主人は考えられません」
「ムン!」
悪魔が己の魂を賭けた。それがどれだけ凄い事なのかソフィアは知っている。しかも、魔皇帝を主人にしているアシュバが闇の領域のトップを裏切ってでもソフィアを選ぶと言っている——というのと同義だった。
「……ほんとうに?」
「はい、私は現魔皇帝の下僕を辞め、ソフィア様に仕える事を契約します」
アシュバが言葉に表した。
そうなればソフィアが否定するのは王族として、魔族として如何なる物か。
「……うん、私でよければ……二人ともお願いね」
「はい! それに悪いのは人間族ですよ! こんなにも美しいソフィア様に何度も涙を流させるなんて外道です! いつかこのアシュバが懲らしめます!」
「キャンキャン!」
「お前では力が足りないと言いましたか犬! ならば、配下の者で殴りに行くまでです!」
「ヌンヌ!」
「そうですその勢いです!」
アシュバとズーズンが勢いよくソフィアに訴えていると何だか面白くなってクスっと笑ってしまった。
「本当にありがとうね、二人とも」
13歳にして一人ぼっちになったソフィアは、やっと心から信用しようと思う二人に出逢えた。
タイトルの中に入る言葉は思った単語を入れて欲しいと思っています。
次の更新は明日!