第二話
エドガー様の結婚式から数日後、父に呼ばれて父の書斎に向かった。
なんとなく、呼ばれた理由は分かっている。
「クレア、お前に結婚の申し込みが来ている」
やっぱり来たか。それが最初に思ったことだった。
前から何件か婚約の申し込みは来ていたけれど、私は全て断りを入れていた。
『魔法バカであるお兄様とエドガー様が結婚するまでは、私は婚約も結婚もしないわ』
そう、父には伝えていた。
私の国は魔法の研究が進んでいるのもあって医療体制が整っており、国の人間の平均寿命が長い。それに加えて女性の働き口が増加していて都市を中心に晩婚化が進んでいる。だから二十代中盤までは結婚しない人も多く、私のように十代のうちは婚約や結婚を選択しない人もそれなりにいた。
もちろんそれが許される環境に身を置いていた場合の話で、女子は未だ早いうちから嫁がされることが多いのは確か。幸運なことに私は前者だった為、我が儘が許されていた。
女性の働き口が増えたとは言っても、まだまだ職場での女性の扱いというのは良くないらしく、兄のように魔法省に就職したいと言ったら両親は良い顔をしなかった。
それでも我が儘を許してくれたのは、私がエドガー様を想っていることに気付いていたからだろうと思う。私の家族は皆魔法にのめり込む癖に、家族のことをよく見ている。
だから婚約と結婚の問題を引き伸ばしてくれたのも、両親なりの優しさなのだと思う。私はその優しさに甘えて、ただエドガー様を想う時間をずっと許してもらっていた。
だけど兄は一年前に結婚しており、エドガー様ももう結婚してしまった。父も母も私には働くより嫁いでほしいという気持ちの方が強いことには気付いていたので、覚悟はしていた。
父は厳しい顔をしているが、目の奥には優しさがある。たぶん、もう叶わない想いは諦めろということなんだろう。これはいい機会だと。
だからエドガー様の結婚式から数日しか経っていない今、この話を私にしているのだ。
エドガー様への想いを昇華させるのには、ちょうどいいのかもしれない。
エドガー様以外の人と結婚するなんて考えられなかったけど、もう仕方ないのだ。諦めるしかないのだ。
「…どなたからですか?」
「アグレル家のニコラスだ。前に一度お前も会ったことがあるだろう」
記憶を辿ってみるも、全然思い出せない。
そんな私の様子に気付いた父が苦笑する。
「エドガー君の結婚式にも参加していただろう。ヨハンとエドガー君の同僚だよ」
そこでふと、式会場で妙に目立っていた真っ黒な髪に病的に白い肌の、女性のように細い体をした不健康そうな男性を思い出す。
「…もしかして、魔法狂いのニコラス様?」
「覚えているじゃないか。まあ、ニコラスに限らずあの研究室にいるのはどいつもこいつも魔法狂いだがな」
昔、一度兄に友人として紹介されたことがあった気がする。彼もエドガー様同様父に弟子入りしていた魔法一筋の人だったように思う。記憶が曖昧なのは、昔の私にはエドガー様しか目に入らなかったからだ。
「…何故、彼が私に結婚を?」
「結婚を持ちかけたのはニコラスから、というよりも私からなのだがね」
「え?」
父が私の縁談をニコラス様へ持っていったということ?何故?
「私は元々弟子達の中からお前の結婚相手を選ぼうかと思っていたのだが、あいつを見ているとな…。お前はヨハン達ほどではないにしても、魔法省に入れるくらいには魔法にも詳しい。魔法しか目に入らんあの男を支えてやれるのはお前しかいないと思ったのだ。私とアメリアも魔法がきっかけで…」
続く父の言葉は耳を通り過ぎていく。今、父はなんと言ったか。
『弟子達の中からお前の結婚相手を選ぼうかと思っていたのだが』
では…では、エドガー様にあのまま好きな人が出来なければ、私はエドガー様と結婚していたのかもしれないということ?
なんて、なんて神様は残酷なのか。そんな可能性、知りたくなどなかった。私とエドガー様が結ばれるかもしれない未来があったかもしれないなんて、そんな。
「クレア、聞いているのか?」
「は、はい」
「クレアには急かもしれんが、半年後にはニコラスの元へ嫁ぐこととなる。…お前の魔法省に就きたいという願いを叶えてやれなくてすまない」
「い、いえ…」
魔法省に就きたい、と言ったのは半分本当で半分嘘だ。魔法は好きだけれど、これは本音の副産物に過ぎない。私はただ、エドガー様と少しでも一緒にいたかっただけなのだ。
最初はこれっぽちも魔法に興味なんてなかった。彼と沢山話したくて覚えただけ。でもいつしか確かに私は魔法に興味を持つようになって、私も兄達のように研究したいと思うようになった。
でも私には兄達ほどの熱意はやっぱりなくて、魔法省に就職したとしても精々魔法書管理室の司書や事務官といったところだろう。
でも、それでもよかった。エドガー様にいつでも会える距離にいられるから。
だけど、エドガー様は決して私のものにはならない。
彼は別の女性の夫になった。魔法省に就職したら、距離が近いことでより苦しくて仕事どころではなくなってしまいそう。
だから本当に、これはいい機会なんだ。彼を忘れる為に…。
「もし、どうしても働きたいというならニコラスと相談してみなさい。彼は話せば分かってくれる男だ」
「はい…」
「そういうことだから、学園は中退して花嫁修行に入ることになる。…お前は望まぬ結婚かもしれんが、ニコラス君はとてもいい子だ。きっと、お前を幸せにしてくれるよ」
幸せに、なれるのだろうか。
こんな未練がましく別の男を想っている相手を、幸せにしたいなんてニコラス様は思うだろうか。父の口振りからして、ニコラス様が悪い人ではないというのは分かる。父は人を見る目がある人だ。
きっと、父がそう言うなら良い関係を築いていけるのだろう。
だけど問題は私で。
私はエドガー様を…いつか忘れられるのだろうか。
◇◇
花嫁修行に入ると、相手の男性とは結婚するまで会うことが許されなくなる。昔からあるこの国の風習の一つだ。だから私は花嫁修行に入る前にニコラス様と一度会うことになった。
花嫁修行前の最後の逢瀬は女性の家でと決まっているので、その日はニコラス様が私の屋敷に訪れた。
現れた男性は夜闇のように真っ黒な髪をしていて、長い前髪の間から覗く目も髪と同じ色をしている。身長は高くて細いのでひょろ長く、頼りなさげに立っている姿がどことなくモヤシっぽい。
その身長で身につけている衣服を着こなしているはずなのに、衣服に着られているようにしか見えない。私より白い肌は、むしろ白いと言うより青白い。
個々のパーツを見れば顔は整っていることが分かるはずなのに、不健康そうな見た目が邪魔をして全然そんな風に見えない。何か病気でも患っているのだろうか。
それが私がきちんとニコラス・アグレルという人物を認識して抱いた、正直な感想だった。
父は良い人だと言っていたが、物凄い不安に駆られる。この人と結婚して大丈夫なのだろうか。
応接室に通され、コトンと置かれたティーカップの音を最後に沈黙が流れる。
目の前の人物はピクリとも動かず、私も同じように動けずにいた。どうしよう、彼全然口を開かない。いや、口を開かないどころか動きすらしない。あまりに動かな過ぎてそういう趣の絵画を眺めている気すらしてきたわ。
「クレア殿…」
「はい!」
急にかけられた声に驚いて、返事の声が裏返らなかったことだけが幸いだ。
「急に結婚を申し込んだりして申し訳ない」
「い、いえ。…父からはこちらの方からニコラス様に持ちかけたようなものだと聞いております」
「いや、そんなことはない。あまりに私が……きっと、ヴィクトル殿が痺れを切らして持ちかけてくれたのだろう」
「…はあ」
「私は魔法以外には疎いし、興味がない」
まあ魔法省の研究室の中でも一番魔法の研究にのめり込んでいるらしい、というのは事前に聞かされていたので驚きはない。そもそも研究室に入るようなのは魔法バカばかりだし、その研究室の室長である父の弟子なのだから想像に難くない。
「プレゼントも何を選んでいいのか分からないし、流行りの菓子なども知らない」
魔法一筋ですものね、世間に疎いんだわ。研究室の人って皆魔法以外興味ないのかしら。…エドガー様もそうだったもの。
針を刺したような痛みが胸に広がるも、無視して続きを聞いた。
「でも」
俯いて喋っていたニコラス様は顔を上げ、夜闇のような双眸が私を射抜く。
「あなたが安らかに過ごせる日々を、約束します」
幸せにします、と一般的には言うものだと思うけれど。
その言葉はちくりと痛む胸の傷に、優しく触れた気がした。
安らかに過ごせる日々、か。本当にそんな日々が訪れたらいいのに。
太陽に思い焦がれて焼けてしまったこの身が、癒される日は来るのだろうか。
目の前にある黒い瞳を覗き込めば、そこには闇がある。青空みたいな瞳のエドガー様とは違うその黒い瞳は私の傷も、想いも、全てを覆い隠してしまうような闇だった。
眩しさに焼かれたこの身を、太陽から守ってくれる。
何故か、根拠もなくそんな風に思えた。
この人となら、うまくやっていけるかもしれない。
そう思えるこの人を選んでくれた父に、私との結婚を選択してくれたこの人に、私はただただ感謝した。