第一話
ずっと、あの人のことが好きだった。
でもあの人にとっては私は友人の妹で…ただ、それだけだった。
「結婚おめでとう!」
そんな言葉が飛び交うのは、教会での式を終えて移った祝賀パーティーの会場だ。あの人の友人が祝福の言葉を述べ、今は友人同士での楽しい歓談中の様子。
そんな中でこの場に相応しくない思いを抱いている私は、泣きそうになるのを堪えてただ見ていることしかできなかった。
「どうした、クレア。いつもおしゃべりなお前にしては口数が少ないな」
会場の隅であの人を見つめていると、よく見知った男性が近づいてきた。当たり前のように隣に並んだ男性…私の兄に、少しだけ救われた気分になる。
「…だってお兄様、ついにあのエドガー様が結婚なさるんですよ?感極まって泣きそうになってしまいます」
「ああ、確かにね。俺も仕事一筋だったあいつが、まさか恋愛結婚するなんて聞いたときには驚いたよ」
「魔法バカで、いつも魔法のことばかり話していらっしゃったエドガー様の口から女性の名前を聞いたときは、驚きすぎて声も出なかったですわ」
「俺もクレアも大口を開けてまじまじとあいつの顔を思わず見ちまったもんなぁ」
「私はお兄様と違って大口は開けておりません」
「おや、そうだったかな?」
「そうです!」
「ははっ。…いつもの調子が出てきたな」
「…ええ」
二人の間に沈黙が流れる。それは決して居心地の悪いものではなくて、気持ちを整理するのにちょうど良かった。
◇◇
あの人…エドガー様とは、小さな頃に兄の紹介で知り合った。太陽の光のように眩い金髪が眩しくて、青空みたいに澄んだ瞳が美しくて…きっと、あれは一目惚れだったのだと思う。
他にも何人か兄の友人を紹介されたのだけれど、人見知りが激しかった私は一目惚れしてしまったエドガー様にしか懐かなかった。だからか、他の兄の友人とはそれからあまり会っていない。兄は遊びに来たエドガー様を私の元へと連れて来ては、よく三人で遊んだ。
幼少の頃は体が弱くて外に遊びにいくことはなかなか許してもらえず、友達もいなかった。きっと兄は私を気遣って友人を紹介してくれたのだと思う。そのことに関しては本当に感謝している。
その気持ちの名を知らぬ頃、エドガー様に構って欲しくて、私は鬱陶しいくらいに彼にくっついた。彼はそれでも嫌な顔一つせず、私と一緒に遊んでくれて。そんなところも、とても好きだった。
エドガー様は頻繁に私の屋敷に遊びに来ていたが、何も私の相手をする為だけに来ていたわけではない。私の父は魔法省に勤める有名な魔法研究家で、魔法に並々ならぬ興味があったエドガー様が父に弟子入りしていたからというのは、後から聞いた話だ。兄に紹介された他の友人達も、父の弟子達だと兄が教えてくれた。
確かに屋敷に人の出入りが妙に多い気がしていた。それが気のせいではなかったのだと知ったのは、ちょうど10歳になったばかりの頃だった。
魔法に全然興味のなかった私はいつも熱心に魔法について語るエドガー様を見て、いつしか自然と自分でも学ぶようになって。エドガー様と魔法を語り合えるようになると、彼はそのことをとても喜んでくれた。
とても嬉しくて、幸せで。私がエドガー様を好きだと気付いたのもそんな頃だった。
この関係が壊れてしまうのが怖くて、気持ちを伝えられぬままに彼への想いだけが募る日々はあっという間に過ぎて行き。私は16歳となり、エドガー様と兄は20歳になっていた。
二人は魔法省の研究室に入り、今は父同様魔法を研究している。仕事を屋敷に持って帰って来ては、昔よく一緒に遊んだ中庭のガーデンチェアに座り二人で魔法談義をする。そして私はどんなに頑張ってももう二人の話にはついて行けず、二人の話をただ聞いて、たまに少し話すのが精一杯だった。だけどそんな私に気付くと、いつも二人はハッとしたような顔をして、決まってエドガー様が「ごめん、ごめん」って言って昔みたいに私を話に混ぜてくれた。私は彼と話したくて、いろんなことを話した気がする。
魔法一筋のエドガー様が興味を持てる話題ではなかったと思うけど、それでも少しでも彼の気を引きたくて必死だった。
話の最後に決まってエドガー様は私の頭を撫でてくれて、
『クレアはいろんなことに興味を持ってていいな。俺なんか魔法のことしか話せないし、魔法以外あんまり知らないから、クレアがいつも俺の知らないことを話してくれて楽しいよ』
そう、眩しい笑顔で言ってくれる。
その度に私はエドガー様がますます好きになって、でも怖くて気持ちが伝えられなくて。だけどそんな日々がとても愛おしかった。ずっとこんな日々が続いていくのだと、そんな訳はないのに夢を見ていた。
いつものようにエドガー様と兄と私の三人で、お気に入りの中庭で机の上に魔法書を広げて魔法談義をしていた日。急に押し黙ったエドガー様に、兄と顔を見合わせて彼が口を開くのを待っていると、魔法書を睨んでいた彼は少し顔を赤くなった顔をあげた。
今まで一緒にいて一度もエドガー様のこんな表情は見たことはなかった。私にとって良くないことを言われる。そんな嫌な予感がして、そしてその予感は当たってしまった。
『あのさ、俺…好きな人、できたかも』
その時の衝撃といったら。まるで心臓を握り潰された気分だった。
兄があれこれ面白がって聞いて、それに照れながらエドガー様が答えて。変わることのなかった幸せな日常の中に突如として現れた非日常は、目の前で起きていることが夢なのではないかとすら思わせた。
だって、女性の噂なんて全然なくて魔法にしか興味がないエドガー様が、魔法以外のことを三人でいるときに話すなんて、信じられなかった。信じたくなかった。
エドガー様が帰った後、部屋に戻って私は静かに泣いた。
エドガー様は私のことを妹のように思っている。それは知っていたし、気持ちを伝える勇気のない私はそれで満足していた。していたと思っていた。
実際は全然満足なんてしていなくて、彼に想ってもらえる女性が羨ましくて仕方がない。悔しい、どうして私じゃないの。そんな思いばかりが浮かんでは消えていく。
こんなことになるのなら、気持ちを伝えれば良かった。そしたら、あんな顔で他の女性の話をするエドガー様を見なくて済んだのに。こんなに苦しくならなかったのに。
ひとしきり泣いて、私は自分の淡い恋心に蓋をすることにした。6年間も患い続けた恋の熱が冷めるのに、きっと途方もない時間がかかるだろう。でも、それでもいい。
あの人が笑ってくれるなら、妹を演じ続けよう。
あの日からエドガー様は魔法の他に、意中の女性の話をよく織り交ぜるようになった。そして私は彼に好きな人に送るプレゼントの相談をされたり、甘いものが好きらしいその人の為に流行っている菓子店のことを聞かれたりした。
彼の身近にいる歳の近い親しい女性であり、妹のように思っている相手なのだから、相談相手としてはこれ以上はないだろう。
だから私は笑顔を貼り付けて彼に親身になって助言した。想い人を思う言葉も、その表情も、全てが残酷なまでに私の心を何度も踏みつける。ズタズタになる私の心と貼り付けた笑顔の乖離はどんどん進んでいき、私はいつしか自分がきちんと笑えているのかすら分からなくなった。
地獄が本当にあるのならば、きっとこんな感じなんだろう。
それでも幸せそうな彼の顔を見れば、私はどれだけ辛くとも構わなかった。
時は過ぎて、私は18歳になった。意中の女性を射止めたエドガー様は、ついに今日結婚する。
“初恋は実らない”
昔読んだ詩集の中にあった言葉は、私の溢れ出そうになる気持ちに、きつく蓋をした。
◇◇
「寂しいか?」
その声に意識が浮上する。
「…もちろん。だって私にとっての、もう一人の大切なお兄様でしてよ?」
「そうだよなぁ。クレアあいつに懐いてたもんなぁ」
兄と揃ってエドガー様を見れば、彼は屈託のない笑顔で今日から彼の妻になる女性を見ている。女性の方も幸せそうで、私が入り込めそうな余地なんて少しもない。
少し冷たい手が頬に触れ、するりと目元をなぞっていく。それが兄の手だと気付いた時、離れた兄の指先が少し濡れているのが視界に入り、私は自分が泣いていたことに気付いた。
「…お兄様、エドガー様とっても幸せそうね」
「ああ」
「幸せ、なんだよね」
「ああ」
「あんなに、幸せそうに…わら、笑って、いるもんね」
「…ああ」
隣にいた兄が私の前に立ち、そっと私を背に隠してくれた。会場の中心にいる主役二人に皆夢中で、きっと兄の背に隠された私には誰も気付いていない。背が高くてガタイのいい兄の背に、私は縋り付くように声を殺して泣き崩れた。
兄はきっと、薄々私の気持ちに気付いていた。だからこそ、こうして来てくれたのだと思う。今はそれがありがたい。
自分では止められない涙が次々こぼれてきて、兄の背と地面を濡らした。こぼれた涙の分だけ、エドガー様を想う気持ちがなくなればいいのに。そうすればこんなに苦しまなくて済むのに。
蓋をしたはずの想いは全然なくなってはくれなかった。
涙がやっと止まった頃、聞き慣れた愛しい声がした。
「なんだヨハン、こんなところにいたのか。一番の親友がなかなか祝いに来てくれないから探したぞ」
「悪い悪い、妹を匿ってたのさ」
「ん?…なんだ!後ろにクレアもいたのか。クレアは小さいからお前の背に隠れると全然見えないな」
「ちょうどいい壁ですよ、壁」
「なんだ、なんで壁になってるんだ?」
その言葉にびくりと体が震える。きっと今目が真っ赤だ。
どうしよう…どうやって誤魔化せばいいんだろう。
「いやな、魔法バカだったお前が立派に人を愛してこれから素敵な夫婦になっていくんだと思ったら感動したみたいでな」
「俺はそんなに魔法バカか!?確かに魔法好きだけど、ニコラス程じゃないだろ!」
「いやまあ…ニコラス程ではないが」
「でもそうか…泣くほど感動してくれたのか。嬉しいよ。クレア、可愛い君の顔を見せて」
兄のフォローに感謝しつつ、兄の服をぎゅっと掴む。大丈夫、ここには兄がいる。
いつも通りを装って、私は妹を演じた。
「…嫌です。エドガー様が魔法以外に興味を持って、しかも結婚までするなんて感動し過ぎて涙が止まらなかったから目が真っ赤なのです」
「せっかくの祝いの席なんだ。そう言わずに可愛い妹の顔を見せてよ」
声が震えないようにため息をつきながら、半分だけ兄の背から顔を出す。
「よし、いい子だ。その調子で出ておいで」
「エドガー様、私を動物か何かだと勘違いしているのでは?」
「そんなことないさ。まあ確かにクレアは小動物みたいで可愛いけどね」
ちくりと痛む胸を押さえ、兄の隣に並ぶ。
兄を見上げると、兄はちいさく頷いた。
「エドガー、結婚おめでとう」
「エドガー様、結婚…おめでとうございます」
声は震えていないだろうか。
きちんと笑えているだろうか。
「ありがとう、二人とも」
そんな私の心配をよそに、そう言ってエドガー様はいつもみたいに眩しく笑った。
“初恋は実らない”
頭の中で繰り返される言葉に「そんなの知っている」と脳内で呟いてみても、その言葉は消えることはなかった。