偏差値教育の最大の弊害
「偏差値教育の弊害」、なんて言葉で話題にされることがありますけれども、テストの点数で子供達を測れば、あまり点数の取れない子供達は悲しい。点数を取る子が褒められるのを眺める立場からすれば、あなたは社会にとっての価値が低いですよ、と言われているような意味合いが感じられる。自分ってこの世界の主人公ではないな、主人公寄りですらなくて、かなりのところ脇役だなと感じられる。最悪自分がいなくなってしまっても、世界に何ら問題はないとまで感じられてしまう。
仮に点数が取れたとしても、良い点数を取った時に、「良い点数を取りましたね」と褒められるだけなら、「自分の価値って点数でしょうか」なんて気分になる。肯定されているのは、自分自身を構成するごく一部の、「点数を取る性質」ってことになる。自分自身の、その他の部分まで肯定されているわけじゃない。同じだけ良い点数を取れる人間なんて、世界中見ればいくらでもいるから、やっぱり自分は主人公じゃないんだなと思い知らされる。
それは、学校の成績についての話ですけれど、学校の成績に限った話ではない。
大人になって、お仕事でどれだけの収入を得られるかでだって、画一的に測られうる。
例えば女性が外見を褒められる時だって、その固有の雰囲気を肯定されている場合もあれば、メディアで大量に消費される女性像のイメージがあって、典型的な美人像からの単純な距離をもって、「かわいい」と呼ばれているのかもしれない。美容外科だって普通、より個性的にしようとはしない。
つまりは、それらは、交換可能な価値だから、自分じゃなきゃダメってわけではない。
そんな、抽象的な表面的な価値で測られることは、仮にその尺度で大いに肯定されたとしてさえ、十分な満足をもたらさない。
だって、愛されているのは、自分が生むお金だし、化粧で整えたお人形さんだから。
だから、そんな性質全てを一言で表して、「能力」と呼んでみましょう。
「能力」の逆には、「人格」がある。英語で言えばキャラクターですね。
社会においては、知らない人との出会いが多いから、表面的な「能力」でまず測られることは仕方がない。
どんな経歴で、どんな学校で何をして、どんな資格を持っていて、どんな仕事の経験があって、所属はどこで、なんて大いにカテゴライズされてしまう。名門の学校を出たポンコツもいれば、経歴以上の英才もいるけど、若く頭が柔らかい時代に多く常識を得ておくことは大切だから、例外は所詮例外で、学歴は実に有効な指標となる。様々な指標がそうやって実用されることは、仕方がない。
社会において遠い人からは、そう評価するしかない。ならば逆に、それぞれの人の細かい部分を見る、つまり人格を見るのは、近い人の役目だと言える。
つまりは、親が子供を愛することが、子供の基本的な自己肯定感を形成する。
そのような意味で、家族というのは、とても代替が効きません。
「毒親」なんて言葉があります。
過干渉、放任、虐待、精神病。そういった性質のいずれかによって、子の生涯の幸福に大いに悪影響をもたらす親のことです。広義の虐待と捉えれば、どれも「虐待」の一語で済む。
しかしまあ、家族が例えクズだったとしても、学校へ行き、友達や恋人を作る中で、多くの人が多くのことを解決しています。社会には家族以外の人がたくさんいるから、出会って、コミュニケーションして、やがては自分自身の家族を作ればいいのです。
でも、友達や恋人を得るって、そう簡単にはいかない場合もある。
例えば、過干渉な親が子供の価値観を制御して、子供自身の好き嫌いの感情を破壊しつづけた場合には、子供は自分の幸せを探して能動的に動き回ることすらできなくなる。「社交不安障害」や「回避性パーソナリティ障害」が形成されて、良い友人を得る間もなく学生時代を終えてしまう場合もある。
子供は、両親の笑顔を望む生き物だから、いつか愛されることを望んで、いくらでも自らを犠牲にする。
自己肯定感の弱い人達は、自分自身の幸せを追い求めるのに不得手です。
自分自身を守る機能を持たないから、大人の社会の残酷性に翻弄されて苦しみやすい。
親は親の価値観を子供に強制するけども、社会だって社会の価値観を個人に強制します。
「客観的」ってたいていは、単に「社会的」の言い換えであって、「客観的な人間の価値」とは、その時代がその人に指図したものにすぎない。
世間の価値観で自分自身を測ってみて、それで自己宣伝することは世間に通用するけれど、自分自身の本心に対してそれは、決して完全ではありえないはずなのです。
「俺は人よりも稼いでいる」
「私は誰からも美人と言われる」
それが悪いわけではないけれど、そんな考え方は、しばしば虚しい。
客観的な「能力」を誇っているだけであって、主観的な「人格」を誇っているわけじゃないからです。
表面的な代替可能な性質を肯定されるよりも、深く固有の性質を愛されるほど、人間の心は安らぎに満たされる。
だからきっと、世間のステータスシンボルなどによって、自身の価値の基準や幸福の基準を得ることは本質的に滑稽なのであって、不特定多数の価値観ではないところに、本当の満足を求めるべきなのでしょう。
人間の幸せって、そんな形をしている。
精神的に健全な家庭に生まれ育って、本人も能力や素質に恵まれていたら、充実した自己肯定感とともに、幸せな生涯を歩むと期待できます。
じゃあ逆に、生まれた環境が必ずしも良くなくて、本人にも特別な能力なんてなかったら、そうであるほどにその子は、自己肯定感を持って生きることが難しいのでしょう。
人類社会は、豊かさへの進歩を目指してきたはずです。でも、「豊かさ」って何でしょう。ここで話題にした論点から言えばそれは、「不遇に生まれた凡人もまた、充実した自己肯定感を持って生きられる」、それが「豊かさ」です。
豊かな社会を目指しましょう。その意味で「豊かな」社会であるために、何をどうする必要があるか、心の片隅でであっても、真面目に考えるべきなのでしょう。
「弱気な人ほど便利」ですよね。
特に今の日本って、人間の個性に抑圧的な国だと思います。
自我を潰して、画一的に成形された歯車ほど、ある意味便利です。
でもそれって、当面は便利だけど、長期的にはそうじゃない。人間精神から活力が失われていけば、国の競争力だって失われていくでしょう。
だから、「弱気な人ほど便利」だという無意識な発想が、諸悪の根源なのでしょう。
だってそれって、自我の喪失に誘導していて、本人の人生の幸せなんて軽視してますから。
日本の子供達は、いい子すぎます。
だから提案します。「ふてぶてしい日本」。
ふてぶてしさこそ、人の美徳に数えてもいいのではないでしょうか。日本の人達は、ふてぶてしさが全然足りないと思うので。大人しすぎると思うので。
「今おいくつ? 小さいのにふてぶてしくて偉いわね」
「あの女の子、言葉遣いも歩き方もふてぶてしくてかわいいよね〜」
「噂の彼、勉強も運動もドベなのにふてぶてしさだけは一番で、そこがほんとかっこいい!」
そんな言葉が飛び交う社会、それが望ましいと思います。
面の皮が厚い人間、客観的には腹立ちますけど、本人の幸せのためには、自己否定よりもずっと健全ですよね。
逆に、日本には気弱で善良な人がたくさんいるってわかっていると、ずうずうしい生き方は彼らを犠牲にするからためらってしまいます。優しすぎる人って、悪く言えば、少し邪魔でもありますよ。
社会全体から誹謗中傷されて、炎上して批判されて、同調圧力のもとでいじめ倒されて、でも鼻ほじりながら大満足してるくらいが、人間の正解だと思います。
誰かに馬鹿にされて苛立つなんて、その多くはきっと、本人の側の病的な弱さに問題があるのです。少なくとも当人は、そこに自省的であったほうが、生産的だろうと思います。世の中恨んだって、世の中は変わらないから。
どんな人にだって、その人固有のキャラクターがある。
遠くから見れば、それはぼやけて、「能力」でしかその人が見えない。ありふれた脇役に見えてしまう。
近くにいる人、特に自分自身こそは、自分のキャラクターを見ることができて、愛することができる。
自分にしか自分を完全には愛せない。自分で自分を愛してこそ、誰もが主人公になれる。
そうやって、どんなに勉強が苦手な子供も、仕事が不得意な人も、自分に自信を持つことができる。
「勝ち組」じゃなくても、毎日笑顔で暮らせるようになる。
ゆえに、自分を愛すること、隣人の個性を肯定することは、大切だと思います。
どんな人の人生も、その価値は平等だと思います。
「能力」で測ったり、世間で言われる幸福の尺度で見れば、もちろん平等なんかじゃありません。
でも本当の価値は、本当の幸せのあるところ、つまりは「能力」ではなく「人格」にある。
だから、みんなが主人公で、みんな平等。
どんな失敗も、恥じる必要はない。そんな失敗をした個性すら、笑って誇ればいい。
笑顔を抑制する行為こそは、人格を抑圧する社会悪です。
例えば、男性と女性が出会って、互いの何を愛するのでしょう?、愛してほしいのでしょう?
言葉に言い表せないものだと思います。なんだか心通じ合う、不思議な居心地のよさ。
強いて言えば、「キャラクター」。
胸の大きさがどうだとか、イケメンがどうだとか、あるいはスペックだとかパフォーマンスだとか、ちょっと嘘ですよね。本当に本当に欲しいのはそこじゃないし、もし本当に本当に欲しいものが手に入れば、それら全てが欠落してても人は喜びに満たされうる。
地位や財産などの客観的な価値観とは違うから、ステータスシンボルの自慢話を聞く機会がいくらでも得られる一方で、各々固有のキャラクターの自慢話は耳にすることがない。生まれ育った自己肯定感においてこそ、幸福の巨大な格差が実在する。どんなに才能のある子供がどんなに努力を重ねたって、本当の生まれの悪さは穴埋めしがたい。
恵まれた人達は実は知ってる。内側にある価値観、それだけが完全でありうる。
良い家族に生まれ、良い家族を作る人達と、良くない家族に生まれて、自分の良い家族を結局は作れない人達がいる。だから、大切な事実が、言葉で説明されるのでなければ、搾取の輪廻は止まらない。
否定や苦しみを多く味わうと、いつしか見失いがちではあるけれど。
広大な世界に生まれて、どこに絶景があるかって、それは自身の内にあると思います。
愛せるものがなくなったとしても、最後にはあなた自身が、あなたの生きる理由でありつづける。
ゆえに自己肯定を尊ぶ意味で、世の全てのキャラクターを愛しましょう。
あなただけのその個性を、私だけは必ず肯定しつづけます。
キャラクターを抑圧しようとする人を、私だけは決して許しません。
不完全な世界をあなたが許してしまうとしても、私が代わりに世界を憎んでさしあげます。
人格を侮辱されたらちゃんと怒る。そうやって、自我が生きてることが本当は大切ですから。
どんな境遇に生まれた子であれ、どんな立場や才能の人であれ、自分に自信を持って人生を楽しむことができる。
あるべき教育って、そういうことです。
いくら偏差値が高くてもそんなことすらわからない人達が権力を持つから、偏差値教育って、悪循環ですね。
偏差値教育の最大の弊害は、偏差値教育そのものです。