第9話
いつも通り健と一緒に下校した大河はこれからバイトがあるということで健と途中で別れ、新都の街を一人で歩いていた。
大河が歩いているのは新都の中でも外れ。高級ブティックやお洒落なカフェがある中心部とは異なり、居酒屋やキャバクラなどが多く店を構えており、どちらかというと夜の歓楽街といった雰囲気である。当然治安がいいわけもなく、育ちのいい者が集まる皇聖学園の生徒はほとんど近づかない場所でもあった。
この街の名は夜光街。
夜の闇が広がれば広がるほど、その甘美な光に導かれて人が集まってくる場所。特に太陽の輝きを嫌う日陰者達はまるで示し合わせたかのようにここへと訪れ縄張りを作る。欲望渦巻くこの街に一歩足を踏み込めば最後、平凡な日常とは別れを告げることになるだろう。
そんな場所を大河は平然と歩いている。場違い感溢れる大河のことを見ている輩が何人もいるというのに、さして気にした様子もなかった。
皇聖学園はすべてにおいて一流であるため、その制服のデザイン自体はありふれた学生服のものだが、生地には厳選された高級シルクが使われている。それは素人目から見ても立派なもので、この街にたむろする若者達にとって、フラフラと一人で歩いている大河はカモがネギを……いや豚がとんかつソースを持って歩いてきたようにしか見えなかった。
しかし誰一人として大河にからもうとする者はいない。中には下卑た笑みを浮かべながら近づこうとする奴も見受けられたが、決まってそれを止める者がいた。訝しげな表情を浮かべる新参者達に対し、彼は無言で首を左右に振るだけ。
この街に長くいる者ほど「銀大河」という男を知っている。
*
「はぁ……あれはちょっとまずかったかな……?」
歩きなれた道を進みながら大河は大きく息を吐いた。ため息の回数は学園を出てから十五回目。この息と一緒にコレステロールやカロリーが発散されれば、大河ももっとスマートになれるというのに……しかしそんなことになれば世の女性たちのため息で地球温暖化が急速に悪化するのは間違いない。
「厄介な人に目を付けられちゃったな……」
大河は何かいい案はないかと考えながら自分の顎を撫でる。何か思考を巡らせているとき顎に手をやるのは大河の癖だ。考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えとまさに泥沼にはまっていく自分に嫌気がさし、ガシガシと頭をかいた。
「面倒くさいことにならないよね……?」
大河は明日のことを考えながら、肩を落としながら十六回目となる大きな大きなため息を吐いた。
大河がこんなにも悩んでいる原因は健の無実が証明され、二人そろって生徒会室を出たところまで遡る。
下駄箱へと向かっている途中、背後に何者かの気配を感じた大河は、健を先に行かせ相手の出方を確かめた。これで動き出したならば相手の目的は健ということになるが……少し待っても後ろの人物が動く気配はないのでターゲットは自分だと悟る。健の姿が見えなくなったところで柱の影から出て来るのを感じ、大河は覚悟を決め背後の人物に話しかけた。
「……僕に何か用?灰原さん」
振り返ると予想通り灰原華が立っていた。いつも通り無表情なのだが、その目は普段よりも大きく開かれている気がする。
「……なんでわかったの?完全に気配を絶っていたつもりなんだけど」
「忍者じゃあるまいし、人が気配を消すなんてできないよ」
「我は伊賀者、闇の中に生まれ闇の中に消えゆく」
両手で印を結びながら目を瞑る華を見た大河の率直な感想は「あっこの子残念な子だ」であった。シュッシュッシュッ、と口で効果音を呟きながら素早く手のひらをすり合わせるその様は、人によっては垂涎ものだろう。健当たりは「無口系忍者っ娘きた!!これで勝つる!!」とか言いそうであった、いや言うであります。
「……灰原さんが忍者だったなんて知らなかったよ」
「灰原華は世を忍ぶ仮の姿。本当の私は誰も知ることはできない」
華は顔に手をかざしミステリアスな雰囲気を醸し出そうとする。しかし今の華はミステリアスとはかけ離れていた。自分の思い描いていたイメージとかけ離れた華の姿に思わず絶句する。正直姫香の側にいた時の感情の起伏がない、口数も少ない華の方が断然ミステリアスであった。今の華は中学二年生の男子がすべからく発症してしまうというアレ。「ミステリアス」というよりも「ミスっています」という方が正しかった。
このまま華のペースにのっかると話がいつまでも前に進まないと思った大河は先ほどよりも少し声を大きくして再度尋ねる。
「僕に何か用かな?」
すると華はいつものような無表情に戻るとコクリと頷いた。そのあまりのギャップに大河は顔を引き攣らせる。なるほど、彼女は厨二病モードと通常形態を自分の意思で切り替えることができるようである。本来であれば封印されし力が暴走することにより真の力を見せるため、おおよそ凡人には制御することが敵わない厨二の力をコントロールすることができるとは……灰原華、まさに神に選ばれし存在。
いきなり頭の中に浮かんできては意味の分からないことを言いだした健を追い払うかのように大河は頭をブンブンと振った。
「あなたに聞きたいことがある」
そんな大河を完全に無視して先ほどの奇行が嘘のように華が淡々と問いかける。
「あなたは何者?」
なんとか健を消し去ろうと躍起になっていた大河はピクッと反応すると、真面目な表情でゆっくりと華の顔に焦点を合わせた。
「……質問の意味がよくわからないんだけど?」
「あなたの服を掴んだ時に信じられないほど圧を感じた。あまりのプレッシャーにそれ以上組んでいられなくて思わず投げてしまった……ごめんなさい」
ちょこんと頭を下げる華を大河は黙って見つめる。華は頭を上げると目を細め、探るような視線を向けた。
「色々な人と組み合ってきたけどあんなの初めて。あなたはいったい何者なの?」
「…………」
しばらく無言で見つめ合う二人。華がこんなにも真剣な顔をするのを初めて見た気がする。大河はそのまま何も答えずにクルリと踵を返すとそのまま歩き始めた。
「っ!?まだ話は……」
「灰原さんが何を疑問に思っているかはわからないけど僕は普通の高校生だよ。変な圧力を感じたのは僕が太っているからじゃないかな?」
「そんな……あれはそういうのじゃ」
「とにかく、友達を待たせているから僕は行くね。灰原さん、さようなら」
大河は振り返ることなく下駄箱へと足を進める。後ろから誰かがおってくる気配は一切なかった。
その後、健と合流し学園を離れ今に至る。大河が心配しているのは皆のいる前で今日みたいに華が自分に話しかけてくるかどうかであった。
「灰原さんみたいな目立つ子が僕に話しかけてきたら悪目立ちするよな……」
大河の望みは学園で平穏に過ごすこと。高校二年になって今日までは割といい感じに来ていたのに、ここにきてそれを脅かす事態に陥った。大河は原因となった教室での出来事を思い出す。
「かなりの殺気だったから思わず身体が反応しちゃったよ……やっぱり染み付いたものはなかなか拭えないんだな」
大河はしみじみと呟きながら自分の手に目を向けた。その柔らかそうな肉を見ていると腹部から食物を摂取せよと警笛が鳴らされる。なぜだか無性に豚丼が食べたい。
「ここで悩んでいても何も変わらないか。お腹もすいてきたし、さっさと行っておやっさんに何か作ってもらおう」
気を取り直して歩き出した大河の耳になにやらもめている声が聞こえた。この夜光街では別に珍しいことではないが、それはもっと遅い時間帯の話。黄昏時にそんな声が聞こえたことに疑問を感じた大河は興味本位で声のした路地裏に目を向ける。
そこには一人の女の子を取り囲む三人の男の姿があった。
女の子の方はよく姿が見えないが男達の方はジャラジャラとシルバーアクセサリーを身に着け、洋服をだらしなく着こなしたこの街によくいるイキった少年達。
こんなところに女の子が一人で来るとは…何かしらの自衛の手段がない限り自殺行為だよ?
大河は絡まれている女の子の軽率さに若干呆れながらも、触らぬ神に祟りなし、と今のは見なかったことにしてさっさとバイト先へと向かおうとした。その女の子の声を聞くまでは。
「ちょっと!そこをどきなさい!!」
この強気な物言い、透き通るような声。聞き覚えのある声、いやさっきまで生徒会会議室で飽きるほど聞いた声に大河は思わず路地の方に戻り、女の子に目を向けた。そしてその顔を見るや否や口をポカンと開き、唖然とした表情を浮かべる。
不良少年たちに絡まれていたのは金城姫香其の人であった。