第6話
体育の授業を終え、制服に着替えた大河達が着席していると前方の扉からヨレヨレの白衣を着た康夫が教室へと入ってくる。いつものようにやる気のない顔で教壇まで歩いていくとどんよりとした雰囲気のクラスメートたちを見渡し、今はだれも座っていない姫香の席に目を向けた。
「お前ら―ホームルームを始める前に一つ言っておく。春だからってはしゃいで怪我なんてすんなよ。怪我なんてされたら俺は心配で心が張り裂けそうになる」
「先生!本音のところはどうなんですか?」
「面倒くさい報告書を提出しなきゃなんねぇだろ?あれ結構時間かかるから嫌いなんだ。こっちはお前らと違って忙しいんだよ」
一人の生徒に聞かれ康夫はあっけらかんと言い放つ。巻き起こるブーイングの嵐も前に立つ怠惰な教師の前には何の意味もないようだ。
「報告書の心配する前に金城さんの心配しろー!!」
「それでも教師かー!!」
「人の面の皮をかぶった悪魔めー!!」
「鼻毛でてるぞー!!」
康夫は咄嗟に手で鼻を覆う。数ある非難の言葉の中で一番気になったのはそれか、ダメ教師よ。康夫は生徒に背を向けて顔のあたりをいじくり何事もなかったかのように向き直った。その鼻からは毛がきれいさっぱりなくなっている。
「大人になるってことはそういうことなんだぞ。起こってしまったことを嘆くのではなく、これからどうすればいいのかを考えていかなければならない」
言っていることは教師っぽいが中身は面倒くさがり屋の屁理屈。生徒達の不満がおさまる気配を見せない中、一人の女子生徒が手を挙げた。
「先生……金城さんの容体はどうですか?」
姫香と接触してしまった生徒は不安でいっぱいの様子でおそるおそる康夫に尋ねる。康夫はちらりと視線を向けると軽く息を吐きながら頭をぼりぼりとかいた。
「幸い骨に異常はないようだ。まっ軽い捻挫だな。歩くのに多少の不便はあるものの日常生活に支障をきたすほどではない」
その生徒の顔色を見て普段よりも真面目なトーンで康夫が告げる。腐っても教師、適当な発言をしてはいけないところはしっかりとわきまえていた。康夫の言葉を聞いて女子生徒はホッと息をつく。周りの生徒達も最悪の事態にはなっていないことを知り、安堵の表情を浮かべた。
「そういうことだ。お前らも十分気を付けるように。さっ、ホームルーム始めるぞ」
まだ若干不満の色は残るものの、特に文句が出ることもなくホームルームが始まった。
*
「それにしても意外だったでありますなぁ」
「意外って何が?」
ホームルームも終わり、大河の席までやってきた健が少し驚いた様子で大河に話しかける。
「明らかに相手の方が悪いというのに一言も文句を言わず、むしろ気に病まないように気遣っていたであります」
「あぁ……」
健も自分と同じことを考えていたことを知り大河は思わず苦笑いを浮かべた。あの状況下でそんなことを考えている非国民はおそらく自分達だけであろう。
「金城氏はもっと血も涙もない女性だと思っていたでありますが、案外優しいところもあるでありますな」
「女子限定だと思うけどね」
もしあれが男子の手によって引き起こされたことであれば……あっいやその前に姫香信者に八つ裂きにされるわ。
大河は教科書を鞄にしまいながら教室の様子を窺う。普段であれば部活にいったり、そそくさと下校するはずの生徒達は全員教室に残っていた。おそらく姫香の無事を知るまでは教室から出ることはないだろう。間違ってもここで帰宅を選択すれば異教徒として粛清される。ただでさえクラスで浮いている、いや飛翔している大河と健がそんなことをすれば磔にされて処刑されるのは免れまい。この踏み絵は回避しなければならない、健も同じことを感じているのは鞄も持たずに自分の席に来ていることから明白であった。
しばらく二人で他愛もない話をしていると教室の扉がガラリと開く。クラスメートたちが目を向けるとそこには金城姫香と灰原華が立っていた。保健室で着替えたのであろう、手にジャージを持った制服姿の姫香はクラスの注目が自分に集まっているのを感じ、なんとなく気恥ずかしそうな表情を浮かべる。
「金城さん!大丈夫だった?」
「足は?痛くない?」
「骨折とかじゃなくてよかったよ!!」
クラスの全員が……訂正、どっかの馬鹿二人を除く全員が姫香のもとに駆け寄った。姫香はあいまいな笑みを浮かべながら「大丈夫よ、心配かけてごめんなさい」と詰め寄るクラスメート達に答えていく。
「金城さん……本当にごめんなさい……私……」
「気にしないでって言ったでしょ?それよりもあなたの方に怪我がなくてよかったわ」
涙ぐむ女子生徒肩にそっと手を添えると姫香は優し気な笑みを向けた。その笑顔にメロメロになっている男子生徒たちを無視して姫香は足を引きづりながら自分の席へと向かっていく。
「あっ、金城さん!教室に戻ったらダル夫が職員室に来てくれって言ってたよ!!」
「藤岡先生が?わかった、ありがとう」
姫香は眉を顰めながら手に持つジャージを床に置いてある鞄へと適当に突っ込むとそのまま華とともに職員室へと向かっていった。
姫香の無事を確認した生徒達は笑みを浮かべながら何の余韻もなく教室から出ていく。気が付けば教室に残っているのは大河と健の二人だけであった。
「……なんか凄かったね」
「出待ちのファンも真っ青であります」
呆気にとられと様子で今の騒ぎを見ていた二人が心ここにあらずといった様子で呟く。
「それにしても金城さんは人気があるんだね」
「容姿に関しては一級品でありますからね。容姿に関しては一級品でありますからね」
「えっ?なんで二回言ったの?」
「大事なことでありますから」
健の眼鏡がキラリと光る。確かに大河の目から見ても姫香の容姿は抜群に可愛いかった。端正な顔立ちに透き通るような白い肌、ほのかに薫る甘いにおいなど、どれをとっても男を魅了するには十分なほどのクオリティを誇っている。だが大河にとってはそれだけであった。
「まっ、これでやっと帰れるよ」
「そうでありますな!自ら地雷原に足を突っ込む趣味はないであります!!不要な争いの種をまかないためにも教室に残っていたのは正解でありますな!!」
うんうん、と腕を組みながら頷いている健をしり目に、大河は自分の鞄を肩にかけ教室を出ていく。それを見た健が慌てて自分の席に戻り鞄を拾い上げると、帰り支度をするために鞄のチャックを開けた。
「おやっ?なにやら鞄の中がパンパンでありますな」
不思議に思いながらも鞄の中を整理するためにジャージを取り出す。しかしそのジャージの下から現れたのは全く同じ青いジャージ。マトリョーシカ。
「んんんー?」
狐につままれたような顔で手に持つジャージと鞄の中にあるジャージを交互に見比べる。何度見てもジャージが二つあるという事実は変わらない。……まさかこれはバイバインの仕業かっ!?このままでは栗まんじゅうに地球が覆い尽くされてしまう!!
そんなくだらないことを考えていると、健がついてきていないことに気が付いた大河が教室へと戻っきた。そして訝し気な表情で健に視線を向けるとその手に持っているジャージを見て目を丸くする。
「青木君……」
大河が微妙な表情を浮かべながら健の持っているジャージを指さした。なんでそんな表情をしているのだろう、と思いながら健は大河の指の先にあるジャージの胸元に目を向ける。
金城
そこにある金の刺繍を見た瞬間、健の頭は真っ白になった。金城?ゴールデンキャッスル?新人王と同時に首位打者を獲得した「ハマの龍神」……このニックネームが定着することがなかった金城さんのジャージがなぜここに?
「ったく……なんなのよあの教師は……」
最高に最悪なタイミングで姫香と華が教室へと戻ってきた。姫香の顔を見てジャージを持ったままその場で固まる健。健の持っているジャージの名前を見てその場で固まる姫香。みんな固まる、仲良しこよし。大河は一人静かに手で両目を覆った。
あっ、踏み絵を回避しそこねたわ、これ。