第3話
始業式を終えたあとは教室でのホームルームを行い、今日はそれで下校となる。大河達2-Dの教壇にはぼさぼさの髪に無精ひげを生やした白衣の男が立っていた。
「担任の藤岡康夫だ。担当は物理で一年間お前らの面倒を見ることになる」
気怠そうな物言いに、あからさまにやる気のない態度。顔だちは整っており、年齢は三十代前半くらいでその雰囲気からつけられた愛称は『ダル夫』。覇気が一切感じられないのだが、それを大人の余裕と感じて惹かれる女子生徒は少なくない。
「あー……あれだ。学園長も言っていただろ?あのー……新学年だからって調子に乗って問題起こすな」
「先生。学園長はそんなこと言ってなかったと思います」
まっすぐに手を挙げて告げる姫香を見て康夫はボリボリと頭をかいた。
「お前らガキにはわからねぇと思うが学園長は暗にそう言ってたんだよ。とにかく面倒事はするな。俺が大変な思いをする」
きっぱりと言い放つとしぶしぶといった様子で姫香が手を下げる。康夫はゆっくりとクラスの連中の顔を見渡すと、面倒くさそうにため息をついた。
「俺からいうことは何もねぇからこれでホームルーム終わり。明日からは通常授業だから遅刻なんてしてくるんじゃねぇぞ」
それだけ言うと康夫はあくびをしながら誰よりも先に教室から出て行った。
*
「担任が藤岡氏でよかったでありますな!彼は不用意に拙者達に干渉してくることなどないでありますから」
「そうだね。ホームルームも短いし、いいクラスになれたよ」
ホームルーム後、帰り支度をした二人は廊下を歩いていた。午前中に下校ということもあってその後の予定を楽しそうに話している生徒たちで溢れかえっているが、二人に話しかける者はいない。
「この後どうする?僕はバイトまで時間があるけど……」
「そうでありますな。拙者はモクドナルドの新作『お日様バーガー』なるものが気になっているであります」
「じゃあ駅前のモックによって行こうか」
「そうするであります!抜け目のない拙者はちゃんと銀氏のクーポンを用意しているであります!!」
「ありがたく使わせてもらうよ」
鞄の中からドヤ顔でクーポンを取り出す健から笑顔でそれを受け取る。健は一仕事を終えたような満足感溢れる顔で歩いていると不意に何かを思い出したように大河のほうへ顔を向けた。
「そういえば銀氏は誰押しでありますか?」
「え?誰押しって?」
「当然生徒会のメンバーであります!!」
言わずもがなといった感じで言い放ったが、いまいち的を射ていない様子の大河を見て、健はチッチッチと人差し指を左右に振った。
「甘い!甘いであります!!練乳に砂糖とガムシロップとはちみつを加えるぐらい甘いであります!!」
「……なんか胸焼けがしそうだよ」
健の言った味を想像して思わず湧き上がる吐き気を大河は懸命にこらえる。健は悲劇のヒーローのように哀愁漂う表情を浮かべ、ためを作りながらゆっくりと眼鏡を上げた。無論かっこよくはない。
「拙者達は今を時めく若人!!学生という無限の可能性が広がる人種である内に思いを馳せる相手の一人や二人いても罰は当たらないであります!!」
「そ、そうかな」
鼻息荒く詰め寄る健に若干引き気味であいまいな笑みを浮かべる。
「ちなみに拙者は断然灰原氏押しですな!!あのような容姿、性格、雰囲気を兼ね備えた人物が三次元の世界に存在することが驚きであります!!いやむしろ彼女は次元を超えてきたのでは……女性の品位が落ち、荒廃を重ねる現世を憐れんだ神が遣わせた救世主、いや天女!!そんな彼女なら寂しい人生を送る拙者に一筋の光明を差し込む可能性が微粒子レベルで存在するであります!!」
「そうだね。公明正大な政治家が存在するくらいには可能性があるんじゃないかな」
「それはゼロってことでありますよね!?」
ノォォォ!!と叫びながら頭を抱える健を見て大河は楽しそうに笑った。変えようもない現実を突きつけられ肩を落としていた健が気を取り直すように大河に問いかける。
「拙者も話したのだから銀氏のほうも教えてほしいであります!!銀氏の押しメンは誰でありますか!?」
「僕は……そうだね……白鳥さんかな?」
「ほほう?」
健の眼鏡がきらりと光る。悪戯を思いついたような笑みを浮かべると胸の前に両手を持っていき大きく半円を描いた。
「やはり女性はぱいおつかいでーでありますか?銀氏も中々むっつりでありますな!!」
「そういうわけじゃないよ!!」
慌てて否定する大河に健が探るような視線を向ける。なんとなくその視線に居心地の悪さを感じた大河は窓の外の景色に視線をずらした。
「見た目とかじゃなくて白鳥さんの考え方に感銘を受けたんだ。この学校に入ったのも白鳥さんがいたからだし」
「そうなんでありますか?それは初耳であります」
「うん。押しメンっていうかは微妙だけど、僕は白鳥さんに憧れているんだ」
「憧れ……でありますか……」
どこか遠い目をして答える大河を見て、健はなんとなくこれ以上踏み込むのは気が引ける思いでいた。なんとなく無言になって歩いていると二人の前に人だかりが現れる。
「なんの集まりでありますか?」
「さぁ……別にイベントなんてなかったと思うけど……って、えぇ!?」
集団の中心にいる人物を見て大河は目を丸くする。そこにはさきほど話していた白鳥明日香の姿があった。
「白鳥さん!!生徒会長頑張ってください!!そしてサインください!!」
「あ、握手してもらってもいいですか!?」
「俺と結婚してくれぇ!!」
明日香を取り囲む生徒が思い思い声をかける。明日香は嫌な顔一つせず、一人一人要望に応えていた。まさにアイドルの講演会。最後に叫んだ奴がどこからともなく表れた黒服の集団に羽交い絞めにされて連行されていくのですら笑顔を浮かべて見送っている。その笑顔を見た彼は、自分の人生に悔いはなかったと満足げな表情を浮かべながらどこかに連れていかれた。……彼は生きて戻ってくることができるのであろうか。
「皆様、温かい声援本当に感謝いたします!」
慈しむような笑みを向けられ、周りの男子生徒たちが骨抜きにされていく。そんな様子を呆気にとられた様子で二人は眺めていた。
「……ここ二年生の校舎だよね?なんで白鳥さんがいるんだろう」
「おそらくここの校舎に生徒会室があるからであります」
我に返った大河が呟くのを聞いた健が目をぱちくりとさせながら答えた。
「そうなの?」
「二年生の校舎は真ん中にあるから職員室や生徒会室といった教室は全部ここにあるであります。学園長室もこの校舎の一番上にあったはずでありますよ?」
「そうなんだ……一年通ってたけど全然知らなかった」
健の話を聞きながら改めて明日香に視線を向ける。柔和に笑うその表情は憧れの白鳥明日香そのものであった。
「チャンスでありますよ銀氏!!」
「えっ?」
突然の大きな声に驚き、なぜか自分の後ろに回っている健のほうへ振り返る。健は天命を授かったかのような表情でグイグイと大河の背中を押していた。
「憧れの白鳥氏とお近づきになれかもしれないであります!!ほら男らしく行くであります!!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!!」
顔を真っ赤にさせながら渾身の力を込めるも暖簾に腕押し。微動だにしない大河の身体はまさに動かざること山の如し。おそらくかの信玄公ですら今の大河よりも動いたのではないだろうか。それでも前に行かせようと健が不毛な努力をしていると、廊下に怒声が轟いた。
「てめぇ!!白鳥さんが嫌がっているのがわかんねぇのか!!」
「なんだと!?僕は握手をしてもらおうと思っただけじゃないか!!」
何事かと大河が目を向けると二人の男子学生が言い合いをしていた。どうやら握手をしようと近づいた男子生徒にもう一人の男子生徒が因縁をつけた様子。胸ぐらをつかんで怒鳴り散らす男を前に、掴まれたほうも一歩も引き下がらない。突然の出来事に健も背中を押すのをやめ、成り行きを見守っている。
「いやらしい目で白鳥さんを見ていたじゃねぇか!!」
「僕はそんなことしていない!!ふしだらな感情を抱いているのは君のほうなんじゃないのか!?」
「てめぇ!!言わせておけば!!」
「お二人とも喧嘩はやめてください!!」
明日香が仲裁に入ろうとするも万が一にもけがをさせないようにと、明日香の前に多くの生徒が立ちふさがる。必死な形相でなんとか近づこうとするもそれは叶いそうになかった。
「てめぇみたいのは白鳥さんに近づく権利なんかねぇんだよ!!」
「それは君が決めることじゃないだろ!!むしろ傲慢な君のほうが白鳥さんに近づく資格はないっ!!」
「なんだと!?この……」
ヒートアップした男が拳を振り上げた瞬間、その男ののど元に冷たい何かが押し当てられる。
それは木刀であった。手入れの行き届いたそれは学園の秩序を脅かす輩の息の根を止めるかのごとく怪しく煌めいている。喧嘩をしていた二人はおろか、それを見ていたオーディエンスですら状況が呑み込めず、その場に棒立ちになっていた。
「……皇聖学園校則、第五条。学園内で暴力沙汰を犯した者は厳罰に処す」
静まり返った廊下に凛とした声が響き渡る。木刀の所有者である紫垣あやめの威圧感に押され、誰もが口を開くことができない。
「これ以上揉め事を起こすのであればこの木刀を振るわなければならないけど?」
木刀をのど元から一瞬たりとも外さずにあやめは拳を上げたまま固まる男を睨みつけた。男が壊れた人形のようにコクコクと首を縦に振ると、あやめは静かに木刀を降ろす。
「次はないわよ。わかったらさっさとこの場から立ち去りなさい」
死刑宣告のように告げられた二人は慌てて廊下を走って行った。そんな二人を見てあやめがため息をつく。
「皇聖学園校則、第十三条。廊下を走るべからず……ってどうせ聞いてないわね」
「あやめさん……」
あやめが声のするほうへ顔を向けると困ったような笑みを浮かべる明日香が立っていた。
「会長、無事でなによりだわ」
「はい、ありがとうございます」
あやめが明日香のほうへと足を進めると、人垣が自然とその道をあける。明日香は近づいてくるあやめに頭をさげながらもその表情を少しだけ曇らせた。
「でも暴力で解決するのはよくないと思いますよ?今のだってちゃんと話せばわかってくれたと思います」
「……そんなことよりも今後の生徒会の指針を話し合いたいから生徒会室に来てくれる?」
あやめは涼しげな顔で明日香の手を引く。しかし明日香笑みを浮かべたまま、そこから頑として動こうとはしなかった。何故だろう、いつもと変わらぬ素敵な笑顔のはずなのに明日香の背後に阿修羅が見えるのは。
あやめは頭に手を添えると弱ったように大きく息を吐いた。
「……わかったわよ。力に頼らないように善処するわ。これでいい?」
あっこれ絶対力に頼るパターンだ、この場にいる全員の気持ちが一つになる。それでもあやめの答えに満足した明日香は微笑みながら頷いた。
「わかりました。それでは皆様、名残惜しいですがこのあたりで失礼いたします」
明日香は集まっている人たちにお辞儀をするとそのままあやめに連れてかれた。怒涛の展開にどこか心ここに在らずだった生徒達も一人、また一人とこの場を離れて行く。
「……銀氏、拙者心に決めたことがあるであります」
「……なに?」
「校則は遵守するであります。……死んでも」
言っていることは普通の事なのだが、その表情は真に迫るものがあった。大河も茶化すような真似はせず、神妙な顔でコクリと頷く。
「……そうだね、それがいい。僕も一つ思ったことがあるんだけどいい?」
「……なんでありますか?」
「善処するって便利な言葉だね」
「……そうでありますな」
ブルッと一つ身震いをすると健は背筋を伸ばして歩き始めた。そんな背中を見ながら大河が静かに呟く。
「……暴力に頼らず、か。変わらないな」
先ほどの明日香のことを思い出しながら嬉しそうに笑うと、軍隊のように歩く健の後を追った。