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Into the water tank

　わたしは、水の中に立っていた。

　いや、水っぽいだけで、違うところ。

　息ができて、

　息を吐く度に泡が浮いて、

　まっすぐ立っていられて、

　わずかな浮力を感じる。

　そんな場所。

「……夢？」

　わたしはすぐにわかった。

　だってわたしは溺れたのではなくて、水槽に頭をぶつけたから。

「ああ、そうだ」

「……！」

　背後から、怨めしい声がした。

「これはお前の夢だ」

「消えてぇっ！」

　わたしは、いつの間にか握っていたバターナイフを振りかぶって、怨めしい声の主……姉に、襲いかかった。

「くっ！ふうぅっ！ウウウゥッ！」

　バターナイフが姉の胸に命中する寸前で手首を掴まれ、あっけなく止められた。

「放してっ！」

「……」

　ギリッギチッピキピキッと、わたしの手首の骨が軋む音がする。

　ゴキン。

　乾いた音がした瞬間、わたしの右手はバターナイフを落とした。

「っつ……。うぅっ！」

　わたしの体は軽々と持ち上げられ。

　投げ飛ばされた。

「お前は消えるべきだ」

　体を打った痛みでなかなか起き上がれないわたしに、姉は歩み寄りながら淡々と宣う。

「お前は今まさに、一人の人間を不幸にしている」

　姉が誰のことを言っているのかは、すぐにわかった。

「炊事洗濯掃除、身の回りのことを全て、彼女に任せて」

「やめて……」

「お前は『ありがとう』のひとつも言わない。愛されているのに、お前からは何ひとつ返さない。お前が死なないしわ寄せが、全て彼女に行っている」

「やめてって……」

「それは、その愛がいつか無駄になることをお前自身が理解しているからだ」

「……お願いだから、それ以上言わないで……」

「運動も勉強も勝てなくて。周囲に評価されなくて。比べられることで、必要以上に下に見られて」

「だめ……だめ……」

「お前は『恋愛』に、最後の希望を託した。そして、都合良く現れた彼女を、自らにあてがった。『わたしには恋人がいる』という標識を立てるために。それだけの、ために」

「あぁ……」

「でもそれも時間の問題。いつその希望が砕かれるか、お前はビクビクしながら過ごしてきた」

「…………………………」

「そして、その希望が砕かれたとき、その関係は消滅する。そのときには、既に『わたしには恋人がいる』という標識は、なんの意味もなさないから。だから、お前は彼女を、捨てる。『なんでもいいから、姉に勝ちたい。誰かに褒められ、認められたい』。お前は自分勝手な理由で彼女をその気にさせて、自分勝手な理由で彼女に別れを告げる」

「…………………………」

「捨てられた彼女はどうなる？心に癒えない傷を負い、死んだように生きるしかない。お前のためだけに浪費した一年ちょっとは、一生の重荷になる」

「…………………………」

「だったらいっそのこと、彼女を傷つける前に彼女の前から姿を消した方がいい。行方不明になったお前が数日後に遺体となって見つかれば、彼女を傷つけることはない。後腐れもない。彼女は何も背負うことなく、前を向いて歩いてゆける。消えるのは……お前だ」

「うぐっ！」

　起き上がれないわたしを、姉の幻覚は容赦なく踏みつける。

　その輪郭は、次第に歪んでいき……。

「ごめんね楓(ふう)ちゃん、わたし……もう我慢できないよ」

「……！」

　姉だったモノは、コイビトに姿を変えた。

「もう耐えられないよ。いつまでもいつまでも、楓(ふう)ちゃんのお世話するの。わたしは楓(ふう)ちゃんが好きなだけで、楓(ふう)ちゃんの介護をしたいわけじゃないんだよ？」

「……墨子(すみこ)」

「消えて、楓(ふう)ちゃん」

「かはっ！？」

　幻覚は、踏みつけていたわたしを強引に蹴る。

「言っとくが、彼女がお前にしてくれているのは、ただの恋人ごっこ、おままごとだ。お前に愛を注いだところで、なにもいいことは無いのに」

「もう……もうやめてよ！！知ってるよそんなこと！」

　わたしはお腹を押さえながら、ようやく立ち上がった。そして、姉になった幻覚に訴えた。

「お前は誰にも認められず、一人で生きていけるように、野生になろうとした。でも結局野生にはなりきれず、野良になった。だから今度は飼育員を見つけた。そしてお前は大切に大切に養殖された。けれど、追い詰められたお前は飼育員に牙を剥く。しまいに、お前は消えてなくなる。あれを見ろ」

「なに？ ……あ…………」

　ここは……。

　水槽の中だった。

　水を閉じ込める透明な壁の向こうには、たくさんの「誰か」がいた。

　わたしはこの水槽の中で、小さな世界で、もがくだけ。水槽の外には、なんの変化もない。

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

　壁の向こうの「誰か」が声をあげた。

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

　次々に、わたしは非難される。

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

『楓(ふう)ちゃん……』

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

『起きてよ、楓(ふう)ちゃん……！』

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

『目を覚まして……』

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

『楓(ふう)ちゃん……』

「お前は人生に失敗した。不器用だから」

「楓(ふう)ちゃん！」

「え……？」

　姉の幻覚も、墨子(すみこ)の幻覚も、全ての「誰か」も、みんなみんな混ざって、溶けて、目に映ったのは。

「……墨子(すみこ)……？」

「楓(ふう)ちゃん、よかった……！」

　◆

「……脳震盪？」

　カラスの鳴き声が聞こえるなか、わたし達は帰路に就いていた。

「うん。それで、楓(ふう)ちゃん半日以上起きなくて……」

「……ごめん」

「あ、謝らなくていいよ……。あ、回覧板来てる」

　玄関の扉の脇に、グレーのバインダーで留められた回覧板が立て掛けてあった。

「楓(ふう)ちゃんは、先に家に入ってて。わたし回してくるから」

「うん」

　墨子(すみこ)が開けてくれた扉のノブを握り、家の中へ。わたしが入ると、重い扉はゆっくりと閉まり、カチャリと音がした。

　すると、身に付けていたポーチの中で携帯の着信音が鳴った。

　携帯を開いて画面を見ると。

「……墨子(すみこ)から……？」

　わたしはこのタイミングの着信に多少の疑問を抱きつつも、ガラパゴス携帯のスピーカーを耳にあてた。

『わたしを捨てて消えようとするなんて許さないから』

　目の前に、泡が浮かび上がる。

　これは、水槽の中の夢。