X-5-6"バツ1:百合冥土へようこそ……"
「……ここか?」
「うん」
私は吉美に誘われるがまま、エステの店内へと足を踏み入れた。
店内に入るやいなや、女性店員にそのまま奥へと案内される。女性店員の顔に見覚えがあるのは、気のせいだろうか。
「おい、受付とか、いいのか……?」
「いいのいいの、知り合いなんだから」
女性店員の後ろをついていく私の背後を歩く吉美。よほどエステが楽しみだったのか、その表情はいつも以上に明るい。
「こちらでお待ちください」
「………………は?」
案内されたのは、暖色系の間接照明と大きなセミダブルベッドが設置された、明らかに「エステ」とはかけ離れた部屋だった。
それらの家具のレイアウトはまるで……。
「ホテルみたいって、思った?」
「うっ! っつ……」
その声に振り返った瞬間、吉美に肩を押されて、私は仰向けにベッドに倒されると同時に持っていた手提げカバンを床に落とした。
「ふふっ、捕まえたぁ……」
顔の横に手をつかれ、マウントポジションをとられた。
「……なんの、つもりだ。吉美」
「……ここのエステはね、ちょっとだけ特別なんだー」
「人の質問に答えろ…………!」
「……なんのつもりって、あーちゃんをもう一度家族に迎え入れるつもりだよ」
「家族、だと…………?」
「うん。……それじゃあ、そろそろ施術を始めようか……」
「そうだな」
「……っ! テメェは……!」
部屋に入ってきたのは、娘から笑顔を奪った、元旦那。……いや、倉田家の敵だ。
「久しぶりだな、麻子。ずっと、待っていた、俺が唯一愛した人」
「愛した? ハッ、もう忘れたな」
「……そうか……。何年もご無沙汰だったからな……。……苦労かけたな。でも、もう大丈夫だ。みんなで、幸せに暮らそう」
「そうだよ。家族になれば、みんないるよ? 私達の小学生時代の同級生、中学生時代の同級生、高校生時代の同級生、大学生時代の同級生。みんな、みんな。大ががんばって探して、たくさん家族が増えたんだよ?」
「狂ってやがる、二人とも……」
「狂ってる……? 家族を大事にするのは、悪いことじゃないぞ?」
「そういう認識をしてる時点でもう手遅れなんだよ……!」
私が、狂ってしまった「元カノ」と「元夫」と対峙していると、視界の隅でさっきの女性店員が私のカバンを拾い上げて中身を物色していた。
「そいつに触るなぁっ!」
「うぐっ!」
私は吉美を殴り伏せて間接照明を掴み、女性店員の手めがけてそれを投げた。
「つっ……!」
「美雨!」
あの野郎が女性店員に視線を逸らしたのを好機に、私はあの野郎の股間を蹴り上げて壁に突き飛ばし、女性店員が落としたカバンを取り返して部屋を飛び出した。
◆
通路を走っていると、なにもないはずのところで転んだ。いや、うしろからスライディングで転ばされた。
素早く立ち上がろうとすると、続いては恐ろしい速度でかかと落としが繰り出された。私はすんでのところでそれを避けて、襲撃者の正体を知った。
さきほどの女性店員だった。
「……どこかで見た顔だと思ったら……お前、星花女子の後輩の菊川か? アクションスターに憧れて少林寺拳法部に入ってたが……その様子だと、今はあの馬鹿野郎の用心棒でもしてんのか?」
「……マスターの願いを叶えるのが、私の務め。あなたを生け捕りにして、マスターに褒めてもらう」
「そりゃご苦労なこったな」
私も菊川も、既に臨戦態勢だ。
「フゥー……」
「スゥー……」
私達二人はほぼ同時に拳を突き出し、互いに当たった。菊川は間髪入れずに回し蹴りを繰り出し、私は左腕を立ててその右足を押さえ込んだが……。
「ぐっ……!」
あまりの痛みに、若干の隙を許してしまった。
「ぐあっ!」
体を倒され、両足を絡めて体を固められる。こいつ、少林寺拳法以外の体術まで……!
「ごほっ! ぐはっ!」
全身を締め付けられるなか、私は壁際に設置されていた消火器に目をつけ、必死に手を伸ばした。
やっとのことで手が届き。
「くたばれっ……!」
私を締め付けていた菊川の両足に消火器を打ちつけた。
そのうち拘束力が弱まり、解放された私は痛みで苦悶の表情を浮かべる菊川の顔を消火器で何度も殴った。
何度目かの殴打で床の絨毯に赤いモノが飛び散ったのを確認すると、私は消火器を顔の上に落として戦闘中に手放していたカバンを再度掴み、一目散に逃げた。菊川はもう、追いかけてこなかった。
◆
「待って!」
ようやく出入り口まで戻ってくると、高校生か、それくらいの年齢の少女に背後から声をかけられた。
「お姉さん、覚えていますか……? 昔、ゲームセンターで会った……」
「……あのときの子どもか」
「そうです。……私、安子っていいます。……辛かったですよね。こんなものしかありませんが、これで、涙を拭いてください……」
少女が差し出したのは、ウサギの刺繍が入ったピンク色のハンカチ。あのときと、同じものだった。
私は、そのハンカチに手を伸ばして……。
「その手には乗るかっ……!」
「むぐっ!」
そのハンカチを、少女の顔に押し当てた。
「ん、むぐ……んぐっ…………」
案の定、ハンカチには何かの薬品が仕込まれていたらしい。少し体を痙攣させて、少女は意識を失った。
早く、ここから逃げないと。
「……っつ! またお前か、菊川……!」
外に出る直前、菊川に左足を掴まれていた。私を睨み付けるその目は血走っていて、額から血を流していた。
「お前、しつこいぞ……!」
「どうして……」
「あ……?」
「……私は、先輩に追いつきたかっただけなのに……どうして、先輩はそんなに遠いの……?」
「いったい、なんの話を……!」
「……先輩はいつも、太陽みたいな人だった。成績は常にトップで、すべての部活を掛け持ちしていて、なんでも器用にこなせて……。私は、そんな先輩が憧れだった。そんな風になりたいって、ずっと思ってた。……でもいつの間にか、この気持ちは……憧れ以上のなにかになっていた。……だから、私は、この身を……マスターに捧げた……。先輩に、少しでも、近づきたくて……。なのに、なのに……離婚……? どうして、どうしてそんなに離れていくの……? 私は、先輩のこと……が…………」
だんだんと、手の力が弱々しくなっていって……。そのうち、菊川は力尽きた。
「……悪いな、お前の気持ちに、気づいてやれなくて」
◆
「ハァ、ハァ、ハァっ……!」
帰ってきた私は、急いで自宅の扉を閉めて、鍵とチェーンロックをかけた。
……この分じゃ、私の知り合いはあらかた向こうサイドについてしまったらしい。
もう、誰にも頼ることはできないな……。
「……おい。邑、楓、よく聞け……よ……?」
玄関扉に背中を預けて座り込んだ私が目にしたのは、邑の後ろ姿だった。
……しかし、なにかがおかしい。わずかだが、邑の激しい吐息が聞こえる。
そして邑の手には、なにかの破片が握られていた。
「……」
なにも喋らずなにも発さない邑は、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
その頬には、赤いモノが伝い……。
邑のうしろには、赤黒い液体にまみれてうつ伏せに倒れている、楓の悲惨な姿があった。
◆ー約十年後ー◆
ここは、星花女子学園の用務員室。
その部屋の主な使用者である青いツナギを身に纏った女性は、事務机の引き出しからくしゃくしゃの折り紙を取り出し、それを見つめ、誰に聞かせる訳でもなく、呟いた。
「…………お前を壊してしまったのは、私自身の罪だ。あのときは救うどころか、傷つけてしまった。…………けれど、人を愛することを思い出した今なら、お前と、向き合える気がする。……だからもう一度だけ、私にチャンスをくれ。……楓」
不意に、用務員室の扉が開き、星花女子学園の制服姿の少女が扉からこちらを覗き込んできた。
「そろそろ、倉田さんのお見舞いに行きますよ……?」
青いツナギの女性は立ち上がり、ポケットに折り紙を押し込んで答えた。
「ん、今行く」