School keeper
わたしは、奥へ行ったお母さんについていった。
お母さんは居間に入ると、茶色の座椅子にあぐらをかいて座り、テレビゲーム機のコントローラーを持って左腕をローテーブルに乗せた。
お母さんの目の前のテレビには、格闘ゲームの画面が映し出されていた。
『\リスタート!/』
お母さんは、中断していたらしいゲームを再開した。途端に、ボタンを押し込む音が居間を包み込んだ。
お母さんは、相手キャラクターの隙をついてコントローラーのレバーやボタンを素早く、同時に、いくつも操作し、連続技を決める。
必殺技のムービーが始まると、お母さんはローテーブルの上に置いてあるお菓子の袋からスティック菓子を取り出し、ポリポリと食べた。
「……お母さん、またお菓子食べてるの……?」
お母さんはわたしの声には耳を貸さず、二リットルペットボトルに入った炭酸ジュースを飲んでいる。
「……今日から、またここに住んでもいい……?」
「駄目だ」
「……」
『\ヒット!/』
「……じゃあ、もう遅いから、部屋で寝るね……」
「駄目だって言ってるだろガキ」
「…………っ!」
テレビ画面を見つめたまま発せられた、お母さんの声。
『\ヒット!/』
「……」
「出てけ。お前の部屋なんかない。お前に食わせる物もない」
『\ヒット!/』
「……貢いで住まわせてもらってた相手にフラれたか。ざまぁ。何もできないお子ちゃまが調子に乗るからだ」
「……」
『\クリティカルヒット!/』
「……わかっ……………………た。勝手なこと言って……ごめんなさい…………」
『\パーフェクト・ノックアウト! ゲームクリアー!/』
テレビから流れてくる歓声が、わたしにはブーイングに聞こえた。
『\次の相手は、コイツだ!!/』
『\ファイト!/』
「もう、二度と帰ってこないから……。……もう、絶対にお母さんに迷惑かけないから………………。だから、せめて……美味しいご飯、食べてね……。お世話に………………なりました……………………」
「待て」
『\ポーズ!/』
お母さんが、ゲームを一時停止した。
居間を無音の世界が支配する。
そのとき、わたしの時間は、完全に止まったように感じた。
わたしは振り返り、お母さんの後ろ姿を見つめる。
「なに…………?」
お母さんは、わたしにとあるおつかいを頼んだ。
『\リスタート!/』
◆
携帯電話を開くと、時刻は既に夜の九時を回っていた。
「本当は、あの人に頼りたくなかった……」
やって来たのは、車止めのチェーンを越えた先。
星花女子学園の、敷地内にある、アルミ製の扉の前。
扉に嵌められたガラス窓には、ラミネート加工された「用務員用出入り口」と印字された紙が張り付けてあった。
『これをデカブツ女のところへ返してこい』
お母さんの言葉が、反芻される。
わたしの手には、三つのタッパーが握られていた。
そして、一番上のタッパーの中には、はっきりとした字で、なおかつ、非常に他人行儀な書き方で
『麻子さんへ。お菓子とジュースだけでは栄養が偏ります。炊き込みご飯とたくあんと茶葉を作ったので食べてください。年上の方の娘より』
と書かれているメモ用紙が入っている。
「……お姉ちゃん、お母さんにご飯作ってたんだ…………」
今まで、知る由もなかった、姉の姿。
「お前は、本当に何も貢献していないんだな」
「っ!」
振り返った先の人物は、言うまでもない。
「また、幻覚………………?」
「そうだな。確かに私はお前の幻覚だ。けどな、扉の向こうの音を聞いてみろ。そこには真実が、そして現実がある」
「……真実、現実……?」
わたしはタッパーを両手に持ったまま、扉に耳を当ててみる。
ひんやりとした感覚と共に、恐ろしい現実が、わたしに突きつけられた。
「……もしもし、どうした、こんな時間に。……あぁ、今度の日曜日か? ちょっと待っていてくれ。…………大丈夫だ、特に予定はない。あぁ……あぁ……わかってる。十時に、このあいだ言ってたあの場所で。……それより大丈夫か? 生徒会長として、これから生徒を引っ張っていくんだろう? 体には気をつけろ、お前は一人しかいないんだ。……私の心配はしなくていい。大丈夫だ。……江川、あなたを好きになれて……よかった。……それじゃあ」
あの人の声が、扉越しから聞こえてきた。電話だろうか。会話の最後の部分は、少し……はにかんでいるように、聞こえた。
「……これ……は……」
「世間知らずのお前にもわかるだろ。私がいま、どんな状況にあるか」
「……」
「わからない、とは言わせないぞ」
「……」
「お前には、彼女を惑わせる理由なんか最初からどこにもなかった。はじめから、勝負はついていたんだ。お前は、なに一つ、私には勝てない。お前がやったことは、ただの詐欺だ。お前はただの詐欺師。犯罪者なんだよ」
「うっ、ううっ、ふうぅうううぅっ…………!」
「お前に生きている価値なんか…………どこにもない」
「う、うわああぁぁぁっ!」
恐れていたはずなのに、覚悟していたはずなのに。
わたしはこの現実に耐えきれなくて、奇声を発して、駆け出そうとした。
そのとき、背後から扉の開く開く音がした。
「……お前……どうした」
「お、お姉……ちゃん」
「……なにか、あったのか」
「……なにかあったところで、お姉ちゃんには関係ないでしょ……!」
「……」
「……また黙ってるの……? お姉ちゃんはいつもそうやって、返答に困ってる。妹に散々言われて、なにか言い返そうとは思わないの……?」
「……」
「……また、そうやってだんまり。どうせわからないよね。なんでもかんでも上手にできて、誰からも褒められて、失敗知らずで。……おまけに、わたしと違って本当の恋人までいて。……わたしみたいな厄介者の気持ちなんて、わかるはずないよね。だから、お姉ちゃんなんて大嫌い。大嫌い大嫌い大嫌いっ!」
「そんなことな……」
「触らないでよっ!」
「……悪い」
「……でも、よかったねお姉ちゃん。明日から、一人娘になれるよ……」
「……あっ、おい待てっ…………!」
「ついてこないでよもうっ!」
「っ…………」
自棄になってしまったわたしは、持っていたバターナイフで姉の手の甲を刺し、再び夜の闇に飛び出した。
◆
「はあ、はあ、はあっ!」
あれから、どれほど走り続けただろうか。
元々無かったわたしの体力はとっくに限界を迎え、とうとう、偶然辿り着いた公園のベンチに横たわった。
夏の夜の冷たい風が、頬を撫でる。
いつの間にか、姉の幻覚は消えていた。
「……もう、疲れたよ。生きていくの」
わたしはあの人のように、器用に生きられない。
このまま眠ってしまおう。
このまま、死んでしまいたい。
「………………?」
ふと、わたしの前に、人影が現れた。
その人影はベンチに寝そべるわたしを覗き込み、こう言った。
「……可哀想に、こんなところで寝ているなんて……。大丈夫。父さんが迎えに来たからな、楓」