Masked lovers
今日で、楓ちゃんと付き合い、暮らし始めて一年になりました。木隠墨子です。
朝のリビングダイニングには、食器が鳴る音しか聞こえません。
「……墨子、元々起きるの早かったけど、最近もっと早くなったよね。……あつ」
不意に、楓ちゃんがスプーンでお味噌汁を飲みながら、聞いてきました。
「……え? ……そうだね。なんだか、あんまり眠れなくて……それが、どうしたの?」
「……やっぱり、なんでもない。……今日……なにする?」
「なにするって……なに?」
「……いや、その……今日は……あれ……その……わたしが墨子と住んで一年、経ったし……その……なにか特別なことを……」
……楓ちゃん、覚えてくれていたんだ……。
……特別なこと、か……。うーん……。
「『楓ちゃんとキスしたい』」
「ん?」
「ん?」
あれ……?
今、頭の中で変な声が……。
「……墨子にしては、随分積極的だね……?」
「え!? わたし、なんてこと言って……」
『だって今日は特別な日だし……』
「だって今日は特別な日だし……」
『たまには、いいでしょ……?』
「たまには、いいでしょ……?」
『二年目は、もっともっと、恋人になろうよ』
「二年目は、もっともっと……えっ……うっ……」
なにこれ……なんか、変……?
『もっと深く、深く、楓ちゃんと繋がりたいよ』
「もっと深……くぅっ!」
だめ……だめ……声が、出そう……!
『楓ちゃん、隠さないで、わたしに全部見せて……?』
そんなこと言ったら、楓ちゃん、びっくりしちゃう……!
「墨子、どうしたの……? 頭抱えて……」
「な、なんでもないよ……」
『なんでもないからね。これが、本当のわたしだから。さあ、わたしに飛び込んできて』
やめて……そんなこと言いたくない……!
楓ちゃんに嫌われたくない……!
『嫌われる前に、逃げ出す前に、楓ちゃんを縛りつけちゃえばいいんだよ。精神的にも、物理的にも』
縛るって……。楓ちゃん、学校あるし、そんなことしたら、犯罪になっちゃう……!
『人殺しの方がよっぽど犯罪じゃん』
ひ、人殺し!?
『わたし、このままだと近いうちに人殺しになるよ。楓ちゃんを死なせてしまうんだから』
楓ちゃんが、死んじゃう……?
『楓ちゃん、ずっと勘違いしてる。わたしを騙して、偽物の恋愛感情を植え付けて、本当は好きでもない人と無理やり付き合わされてるって。今、楓ちゃんは苦しんでる。そして後悔してる。わたしの、木隠墨子の人生を狂わせてしまった、自分のために、無駄な時間を浪費させてしまってる、返ってきもしない愛情を注がせてしまっているって』
……それは……なんとなくわかってる……。わたしは本当に楓ちゃんのことを好きになったのに、楓ちゃんはずっと、わたしが利用されてると思ってる……って。
『わかってるじゃん、さすがわたし。そうと決まれば、早くこのことを伝えて、椅子とかベッドに縛りつけちゃおう! 自殺なんかしないように!』
……楓ちゃんには、死んでほしくないけど……。
『けど? けどってなに?』
……。
『楓ちゃんには、幸せに長生きしてほしいでしょ? 楓ちゃん、どうせこのまま平凡に生きていても不器用で何もできないんだからさ、わたしが楓ちゃんの全てをお世話してあげた方が、絶対幸せになれる。ご飯も、着替えも、お風呂も、トイレも、ぜーんぶ、わたしがお世話するの。簡単でしょ?』
……できないことも、ないだろうけど……。
『ほらやっぱり。はい、思いついたら即行動! 全ては楓ちゃんの幸せのために!』
全ては楓ちゃんの幸せのために……。
「い、いいよ、キスしても」
え?
『え?』
「それが、墨子の願いなら」
◆
「それが、墨子の願いなら」
少し予想外ではあった。
でも、やるしかない。
わたしは椅子から降りて、テーブルの反対側に座る墨子の元へ歩む。途中でテーブルの脚に自分の脚をぶつけて痛かったが。
「いくよ……?」
「う、うん……」
わたしはゆっくりとまぶたを下ろし、顔を墨子に近づける。
『やめろ』
……!
聞き覚えのある憎い人の声に、意識を持っていかれた。
「お姉ちゃん……!」
「これ以上彼女を傷つけて、楽しいか?」
「それは……」
「罪のない赤の他人の人生をめちゃくちゃにして、心は晴れたか?」
「……これも、夢なんでしょ?」
「質問に答えろ」
「お姉ちゃんの声なんて、聞きたくない。わかってる。お姉ちゃんは……あなたは、わたしが持ってる罪悪感の塊なんだって」
「それが、彼女の声を聞いていい理由になり得るのか?」
「話を聞いて」
「愚かな人間の話なんか聞く気はない」
「もう自覚してるよ。わたしが墨子を巻き込んでるって。だから、こうやって少しでも責任をとろうと……」
「……わかってないね。楓ちゃんは、なにも」
「……また、墨子に姿を変えて……」
「楓ちゃんひどいよ。わたし、なにも関係なかったのに。楓ちゃんのわがままに付き合わされる方の身にもなってよ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいから。……消えて。わたしの前から、きれいさっぱり」
「……」
「また、独りぼっちになるのが怖いの? 知らないよ、わたし楓ちゃんじゃないもん」
「……」
「親戚に非難されて、知り合いに非難されて、学校の教師にも非難されて、母親に見捨てられて、唯一手を差し伸べてくれたお姉さんには暴言を吐いて。独りぼっちになって当然だよ」
「……っ!」
「……今まで独りぼっちだったんだから、これからも独りぼっち。せめて、これまでわたしに寄生してきた罪を償ってよ。それでわたしの一年ちょっとが戻ってくるわけじゃないけど、このまま泣き寝入りするよりずっとマシだもん」
「ごめんなさい」
「消えて」
「ごめんなさい」
「消えて」
「ごめんなさい」
「消えて」
「ごめんなさい」
「消えて」
「ごめんなさい」
「消えて」
「……楓ちゃん?」
「……え?」
まぶたを上げると、目の前にはハテナマークを浮かべた墨子……の瞳があった。
「……なんでもない。……でも、ごめん。やっぱり、さっきのキスはナシにして」
「……そっか」
「本当にごめん」
「い、いいよいいよ。わたしも、変なこと言ってごめんね?」
「……ううん。墨子は、なにも変なことは言っていないから。悪いのは、全部わたしの方」
そう、罰せられるべきはわたし。
早く消えないと。
これ以上、墨子の大切な時間を、青春を無駄遣いしないように。
早く消えないと。本当の家に帰らないと。
『私……もう子育てには疲れたのよ』
……でも、わかっていても、実行に移す勇気はなくて。
ズルズル関係が続く前に、わたしがけじめをつけないといけない。
◆◇◆◇
二人の少女は再び卓を囲み、朝食を再開した。
「楓ちゃん。わたしは、自分から望んで楓ちゃんの恋人になったんだよ?」
「墨子。わたしにあなたはもったいない。本当はもっとちゃんとした人と付き合わせたい。心の底から、墨子が笑顔になれる人がいるはずなのに。わたしが隣にいて、ごめんなさい」
「楓ちゃん、いなくならないで……」
「早く墨子から離れないと……」
二人の少女の言葉が仮面に覆われている限り、お互いの気持ちが届くことはない。
次回、新章突入です。