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カリロボ  作者: 広瀬ジョージ
学園祭編
41/95

41.香水女


 木曜日の放課後。


 樹は予定時刻より前に舞台裏に集合していた。

 今日は自主的に講堂を借りて練習できる最後の機会だ。


 この時期になるとどの学年も講堂を貸し切りにしたくて、分刻みで使用予定が入っていた。

 樹達の高二が今日の最後になり、一つ前の高一が慌ただしく撤収作業をしている。


 監督の和馬の意見で今日は衣装を着ない事になっていたので、樹と永久は邪魔にならないように控室から少し離れた壁に寄りかかっていた。

 絶対なんか無くしたりするし、直前まで隠しておきたいとのことらしい。


 和馬の言っていた事は正しいようで控室から『私のベルト知らない?!』と苛立った声が聞こえ、樹は小さく吹き出した。


「なに笑ってるの?」

 真華がゆっくりとこちらに歩いて来ていたのを視界の端にとらえていた。

 樹は弾みをつけて壁から離れると、真華と向かい合った。


「んん……なんでも。おはよう!」

 もう午後だがその日初めて顔を合わせたなら『おはよう』という事になっている。

 樹が微笑むと真華は目を丸くした。


「もう午後だけどね。お、おはようっ!」

 彼女がたどたどしく返事を返した。


 あまりに彼女への気持ちが前面に出ていたのかもしれない。

 もしそうなら恥ずかしいが、わざと気のない振りをするよりもうんと楽だった。


 どうあがいても明後日の本番を迎えればこうして向かい合って話す事も無くなってしまうのだから、二日間ぐらい彼女にバレていてもいい。

 そう思って樹はこの学園祭を乗り切る事にした。


「本番まであと二回だね。」

「そうだね。」


 両者の間にしんみりとした空気が流れた。

 その事が樹には嬉しかった。

 文化祭のこの期間が終わることに彼女も少なからず寂しさを覚えている事がわかったから。


 樹の視界の隅で控室から雪崩のように後輩が出てくるのが見えた。

 樹が壁に張り付くように道をあけて、真華もそれに倣って壁に寄りかかる。


 三人の前を高一の子達が会釈しながら駆け抜けていった。

 駆け抜けていく一人の少女と目が合う。

 すこぶる機嫌のよかった樹はその少女にニコリと微笑んだ。


「知ってる子?」


 永久の問いに樹が首を振ると、真華が代わりに答えた。


「今の子高一の主役の佐藤美沙ちゃんだよ。可愛いよね……」

 たしかに目が大きくてなかなか可愛い女の子だった。

 真華が同意を求めるように見上げて樹はそうだねと同意した。


「でた、でた。女子の『可愛い』って言ってる自分が一番可愛い。」

 永久は小さな舌打ちをすると、高一が慌ただしく後にした舞台裏に足を進めた。

「長居永久君?君はなんでいつもそんな可愛くない発言をするのかな?」

 真華は笑顔で永久に詰め寄り、永久は歩調を速めて追いつかれないように逃げた。

 樹はニヤケ顔でその後に続いた。


 いつも二階席に座っている面々は、今日は一階席の中央に陣取っていた。

 葵と愛希はまたしても隣あって座り、その斜め前に和馬。

 そして今日は愛希の斜め後ろの位置に優太がいた。


 優太は前の座席にしがみつくようにして、愛希と言葉を交わしている。

 その様子を樹と真華は舞台袖から顔を出して眺めていた。

 とても親しそうに話していたので、樹は自分の事ではないけどいたたまれない気分になった。


「あ、二人って幼馴染らしいよ!」

 樹がいらぬフォローを入れた。


「知ってる!仲良しだよね。」

 彼女は特に気にした様子はなく客席にいる二人を舞台袖から眺めていた。

 その視線はどこか見守っているようでもある。


 こういうの気にならないモノなのだろうか。

 自分なら気にしそうだけどと樹は思った。


 この互いがなにしていても許しあえる寛大さが優太にあって樹になかったものなのかもしれない。

 なるほどねと樹は腑に落とした。


 もし次があるのなら、寛大さを兼ね備えた人間でいようと心の内で誓う。


「もうそろそろ始めるよ!」

 和馬がメガホンで指示を出し、樹と真華は舞台裏に引っ込んだ。


「じゃあね!」

 真華は樹に小さく手を振ると、舞台の中心へ急いだ。

 彼女がすれ違う人に挨拶を交わすのを樹は何となく目で追っていた。


 こうして彼女を目で追ううちは寛大な人間にはなれそうにない。


 やがて甘い美声のナレーションが響き演劇の始まりを告げた。


 王子と姫が離れ離れになるシーンでは、今日も彼女は自ら手を差し出した。

 さっき舞台裏で仲良く打ち合わせしたおかげで今日はミスを出すことなく劇が終わった。


 これで出来る練習はあと1回。

 ずっと先の事のように思っていた本番はもう目の前に迫って来ていた。


「ブラボー!良かった!一時はどうなるかと思ったよ!」

 終わるなり和馬が駆け寄ってきた。


「手も詰まらなかったし。感情籠ってたし。ナニ、心の変化ってヤツかい王野君?」

「まぁ、そんな感じ……?」

 曖昧に樹が答えると和馬はチッチッと舌を鳴らしながら首を振った。


「調子いいね?」

 和馬は同意をもとめるように語尾を上げた。

 和馬がこう回りくどいセリフや、意味の分からない唐突な質問をするときは決まって何かを和馬の思う方向に持っていこうとしている時だ。


「まぁ、そうかも……」

「かも?」

 和馬は声のトーンを落とした。


「ちょ、調子いいです!」

「だよね!僕から見ても調子いいと思う!」

 和馬はその答えを待っていたというように樹の肩に手を置いてポンポン叩いた。

 樹は嬉しそうな和馬にならって笑みを浮かべた。


「へへへ……」

「ハハッ!」

 和馬はやがて笑うのを止めていつものニヤケて見える真顔に戻った。


「こういう調子いい時って、何をやっても大概は上手くいくんだ。僕のおじいさんが言ったんだから間違いないよ。」

 和馬のおじいさんは言わずと知れた松田カンパニーの創設者で、ここ一〇〇年いや二〇〇年間で最も成功を収めた人物である。


「君も試してみるといいよ。」

 和馬は最後にもう一度樹の肩に力を込めると『アデュ』といって立ち去り、何事もなかったかのように他の役者を褒め殺しにかかった。


 調子がいい事は和馬より樹自身が強く感じていた。

 『何をやっても大概は上手く』

 樹はその言葉を信じ早くもそれを行動に移し始めた。


 どこだ、どこだ。

 樹の藍色の目は和馬の言葉を信じて彷徨いだした。


 本番が終わるまで言わないでおこうと思っていた。

 結果、待ちすぎて優太に先を越された。


 もし気持ちを告げていたとして、彼女が自分のものになっていたかはわからないけど。


 樹はキョロキョロと辺りを見回し、真華の姿を探していた。

 今見つけて、今言わなくては。


 劇が終わってからと先延ばしにしていては、次は学園祭が終わってから、その片付けが終わってからとなってしまうだろう。


 樹の目は舞台横の階段から客席に降りようとする真華の姿を捉えた。

 きっと客席に優太に会いに行くんだと直感した。

 愛希や葵と話していた優太はまだ真華に気付いていないようだった。


 気付かれる前に呼止めなければ。


「井上!」

 真華は樹の方を振り向いた。

 けど止まってはくれなかった。


 避けられてる?そんな馬鹿な!

 いや、ホントに……?!

 だとしても言うぞ!

 他の人がいたら言えないからそこで止まってくれ!


 あわよくば、このまま優太のところには行ってほしくない。

 樹は走った。


 待ってくれ!


 違和感に気が付いたのは走りきった後だった。


 彼女は階段を下り、言葉が届かない場所に行こうとしていた訳ではなかった。

 彼女にはそんな意思と意識もなかった。


 降りているというより……傾いてる?


 彼女の体はグラリと傾き、地面に吸い寄せられそうになっている。


 デジャブだった。


 彼女の姿が11号と重る。

 届かぬところで地面に叩きつけられ、腕が取れた11号。

 あんな思いはもう御免だった。


 今度は11号よりはるかに細いその腕をしっかり掴むことが出来た。


 勝手に体が動いていたところまで同じだった。

 今度は、今度こそは離さないと強く思う。


 大きく傾く樹と真華を見て、舞台にいた人達が驚きの声を漏らしたのを聞いた。


「二人とも大丈夫?!」

 最初に駆け付けたのはたのは舞台上にいた唯だった。


 樹は背中に鈍い痛みを感じていた。

「大丈夫……」

 樹はそう答えた。


 しかし、起き上がれない。

 それは背骨がどうなったという訳でもなく、ただ単に体の上に真華が乗っていたからだ。


 11号の時程の高さがなかったため11号の二の舞は避けられたようだった。


「井上、大丈夫……?!」

 しかし彼女もまた起き上がれない。


「イツキ、離して……!」

 切羽詰まった感じの真華の声が聞こえて、樹はやっと状況を理解した。

 樹は落ちた時の体勢のままだったので、真華を抱きしめた格好のままになっていた。


 慌てて腕を離すと真華は素早く起き上がって、その場所から這って退いた。

 樹も体を起こす。


 真華は樹の横で座り込んでいて、困惑した様子で樹を見ていた。

 頼むからそんな顔しないでほしかった。


 笑って大丈夫?怪我ない?と聞こうか。

 それとも、抱き着いてすみませんでしたと謝るべきか。


「なんで……?」

 彼女の口がそう動いた。


 なんでって……


 樹はその時周りに人だかりが出来ている事に気が付いた。

 その中には優太の姿もあった。


「おい!大丈夫か?!」

 前の人を押しのけて二人の前に来た。

 

 本当に助けてもらいたらったのは自分ではなく、きっと優太だった。


「ゴメン!」

 結局樹がとった行動は謝るという事だった。

 優太の顔を見たら自然と出てきたのだ。


 落ちる前にとんでもないことを考えていた罰が当たったのだろう。

 熱が冷めて急に冷静になった。


「勝手に抱き着いてゴメン!そんなつもりはなかったから!彼氏に誤解させるような事してゴメンナサイ。キバ、ホントだから!変な事してないから!」

「分ってる!落着け!お前ら大丈夫かっ?!そんだけ喋れるなら平気?」


 優太は樹が元気に話し出したのでホッと息をついた。

 やっぱり優太はいい人だと樹は思った。


 しかし真華はそれでも困惑した表情を変えてはくれなかった。

 その視線に耐えきれなくなって、樹は自分から目を逸らした。


 集まって来ていた人の中に葵の姿もあった。


「樹!血!!!」

 葵が細い指で樹の腕を指す。

 ふと腕を見ると右腕から血が出ていた。


 鋭利なナイフで一閃したような傷で、腕を伝って床に垂れようとしていた。

 今まで何が起こったのかよく分っていなかった人達が鮮やかな赤を見てざわめいた。


「なにしてんだよ!」

 いつの間に隣に永久がしゃがみ込んでいた。


「イツキ、血が……!」

 真華が血を見て青ざめていた。

 血が駄目なのかもしれない。

 樹は慌てて手で覆った。


「大丈夫!それより大丈夫?!」

 真華は樹と同じく腕を抑えていたのだ。


 もしかして助けるつもりが、余計な怪我をさせてしまったのかもしれない。

 だとしたら最悪だ。


「私は……平気っ!」

 真華は立ち上がったかと思うと落ちた階段を駆け上がり舞台袖に走っていった。

 反応の遅れた樹は、何か言おうとして中途半端に口を開けたまま取り残されていた。


「イツキ!イツキ!垂れてる!!!」

 葵が再び指差す。

 その声で我に返った。


 傷を覆った左手をどけると傷もない筈の手のひらにも血が付いている。


「血ッ!」

 樹はいつものヒィ!と同じイントネーションの悲鳴を上げた。


 意外と血液ってベトッとしているんだと思った。

 トマトジュースを思い出し、気持ち悪くなってフラフラする。


「自分の血で青くなるな!」

 永久は樹の意識が朦朧としていると思い込んだのか、耳元で大声を出している。


「そんな事言われても……」

 愛希が永久と葵の間を通ってハンカチを差し出した。


「これで押えて早く保健室行きなさい。」

 樹が遠慮して受け取らないのを知ってか直接傷口に当てた。

 淡い水色のハンカチに少しにじんだ。


「あ、ありがと宮野さん!」

 愛希は礼はいらないと言った感じに頷いて見せた。


「井上は……?」

「優太が追いかけてった。」

「そっか……」

 それなら自分が心配しなくてもいいのかもしれない。


「『そっか……』じゃないよ!助けてもらってお礼もナシ?!」

 唯は真華が消えていった舞台袖を睨んでいた。


「いいんだよ、別に。」

 迷惑をかけたのに、真華が責められたら本当に申し訳ない。


「良くない!」

「どれだけお人よしなんだ。」

 唯と永久は樹の代わりと言わんばかりに膨れた。


「……俺、余計な事したかな?」

 その思いは大きくなるばかりだ。


「アオ見てたよ!真華と真華の頭ぶつけるところの間に樹が入ってたの!樹いなかったらぶってたよ!」

 だから無駄ではなかったと。

 本当にそうだといいんだけど……


「ありがと、葵。」

「嘘じゃないよ!」

 膨れた顔をもう一つ増やしてしまった。


 樹は立膝をついている愛希を見上げた。

「ハンカチありがとう。」

「お礼いいから。早く行きましょ。」

「えっ?!どこに?」

 愛希は飽きれ顔をしていた。


「保健室に決まってるでしょ」

 騒ぎを聞きつけた和馬が舞台裏から顔を出した。


「井上さん走ってったけど何の騒ぎだい、王野君?」

 聞くより見た方が早いので皆はさっと道を開けた。

 樹はこうなりましたと腕を上げた。


「オーマイガー……!」

 和馬がムンクの叫びのような表情になった。

 樹は急いで立ち上がり、和馬は雪崩のように押し寄せた。


「大丈夫なのかいこれ?動かせるかい?」

 樹は何度も頷いた。


「平気だよ。」

「そうかい……君はどうやったらここまで話を悪い方向に持ってくんだろうね。絶対良いフラグ立ってたのに……」

 走っていった真華を見て和馬は何となく何が起こったか察したらしい。

 デリカシーのないことを呟くのは和馬の癖のようなもの。

 それが当たっているから尚更痛い気持ちになるのだ。


 樹は自嘲混じりに笑みを浮かべる事で何とか受け流した。

「じゃあ、ちょっと行ってくる!」

 一刻も早く一人になりたかった。

 助けようとして怪我するなんてカッコ悪い。


 正直言うとそのあと皆にやさしく心配されて、余計に泣きそうである。

「一人で平気?」

 さっさと背を向けた樹を引き留めるように愛希が言った。

 ちょっと歩いたところでなるべく明るい声で返事をした。


「大丈夫です!それより荷物お願い!」

 下校時刻が迫っていたので、樹がそういうと願いはすぐに聞き入れられた。

 愛希は一度頷くとそれ以上何も言わなかった。

 永久は分かったと言った。


 樹は借りたハンカチを握りなおして講堂の外に出た。

 下校時間近い校舎には人は少なかった。


 すれ違った数少ない生徒は樹の姿を一瞬目に止めたが話しかけてくるものはいない。

 保健室は職員室の横にあり、今から同じ方向に向かう生徒は皆無だった。


 血はハンカチを強く当てていたので止まったが、傷口がジンジンと熱を持ち始めていた。


 保健室に来るのは久しぶりだった。

 体育も課外活動も積極的に行っていなかった樹は怪我する機会もないし、少し調子が悪いと思ったら簡単に学校自体を休んでしまうからだ。


 学校を休もうなど今の樹では考えられない事だった。

 ここ数週間で学校は無理してでも行きたい場所になっていた。

 宿題を家に忘れても、友達と喧嘩しても、失恋したと分かっても。


「失礼します」

 静かに開けた扉の向こう、樹の予想を大きく外れそこにいたのは、派手な若い女性だった。

 保健室の先生は確か中年のふくよかな女性だった筈だ。


 白衣は着ていたものの、その中はとても学校に勤務しているとは思えない恰好だった。

 体の線を強調するように体にピッタリとくっついた服。

 学校だというのに正面から見ると、身体を覆う布の面積よりも肌を出している部分の方が多い。


 そして何より強い香水の匂いが鼻についた。


 驚き硬直した樹を見つけると、その人物の顔がパッと華やいだ。


「はぁい!お客さん?」

「お客……?」

「あら、口が滑ったわ!まぁ怪我したのね!」

 女は口を手で覆った。


「はい……」

「そこに座って!」

 言われるまま長椅子に腰を掛ける。


「どんな感じかしら?」

 救急箱をあさりながら女は樹に質問を投げかける。

 今まで半信半疑だった樹だが、やっとそれらしい質問をされて警戒を解いた。


「切り傷です。ちょっとジンジンします。」

「分かったわ!ジンジン熱いなら……湿布かしら?あら、消毒って包帯に……?」

「あ、大丈夫です!自分で出来ます!」

 任せておいては危険だと思い、慌てて立ち上がる。


「遠慮しないで!ホラッ!」

 傷口に直接筋肉痛用の湿布が張られた。

「イッ!!!」

 叩きつけられたのと、スーッとする成分が傷口にしみこんできた。


 ヤバい。

 チクチクする感覚と周期的にジンジン来るので、目に涙が溜まる。


「剥がれないように包帯も巻いておきましょうねぇ。」


 痛い、痛い……

 多分おしゃれに蝶々結びにしなくてもいい。

 唇を噛みしめ表情を抑えこんでいたせいで顔が熱い。


「まぁ!顔が真っ赤よ!熱あるんじゃない?」

 白衣の女は悲鳴を上げ、おでこではなく樹の頬から首にかけて撫でるように擦った。

 そのせいでぞわりと肌が泡立った。


「いえ!大丈夫です!」

 樹の声は聞き入れられず、今度は傷の処置に反してテキパキと動き出した。

 カーテンを開けて、パイプベットのシーツを伸ばして、樹にさぁと道を開ける。


「遠慮しないで。服脱いで横になりなさい!」

「脱ぐ必要って……?ホント大丈夫ですから!」

 樹は元気をアピールするため無意味に腕を振り回した。

 そしてお礼を行ってさっさと出て行こう。


「もうっ!大丈夫じゃない人がそういうのよ!」

 女は立ち上がると樹との距離を縮めてきた。

 樹の頭の中で危険信号が点滅した。


 キケン、キケン。ただちに回避せよ!


「ほら、早くしなさい。誰も来ないから大丈夫よ?」

 目にも止まらぬ速さで樹の背後に回り、行く手を阻んできた。


「だから心配なんです!」

 女から離れようと後ずさりするとパイプベッドに腰をぶつけた。

 女は樹の目の前で腕を組んだ。


「先先を困らせないで頂戴!先生が生徒に手を出すはずないでしょ?」

 女はこっそりと仕切り替わりになるカーテンを引いた。

 シャーっと視界が白で覆われていく。

 布一枚なのに閉じ込められたような気分になる。


「そうですけど……」


 この人がもし本当に保健の先生だとしたら、勘違いもいいとこだ。

 失礼に値する。

 もしかしたら服を脱がないと測れない測定法でもあるのかもしれない。


 樹が己の本能か女どちら従おうか迷っていると女は樹の服の襟を掴んだ。


「じれったいわね!」

 女の力が外に引く力であれば、樹はその手首を掴み内側に戻す力で対抗した。


「や、やめてください!」

 樹の答えは決まった。

 嫌がる生徒の服を剥ごうとする保健の先生なんていちゃいけない。


「嫌よ、嫌よも好きのうち!」

 時代劇に出てくるような古い言い回しだった。

「離してください!」

 怪我をしていなければアッサリ勝てただろうが、怪我のせいで力が均衡になり、両者腕をプルプル振るわせた。


「王野君迎えに来たよ!」

 カーテンの向こうで和馬の芝居がかった言い方が聞こえた。


「松田くん!こっち、こっち!早く早く!」

 樹は和馬を急かして救援を求めた。

 その時女の力が緩んで、樹も手を離した。


「好事多魔ってやつね……!」

 耳慣れない言い回しを捨て台詞にして、女は樹がいるのとは反対側のカーテンを払って退散した。

 女が出ていった一拍後に和馬が豪快にカーテンを開けて登場した。


「なんだよ王野君。やけに手厚い歓迎じゃないか!」

 その後ろに葵、愛希、唯が続いた。

 樹は試合を終えたボクサーのようにベッドに座り込んだ。


「おや?乱れた服がエロいぞ王野君!」

 唯はヒョッヒョッヒョとからかう。


「王野くんどうしたんだい!襲われたのかい?」

 和馬は驚いたフリなのか、本当に驚いているか区別のつかないリアクションを取った。


「うん。さっき知らない女の人が……」

「女性に襲われる?美形には悩みが尽きないね!」

 和馬が笑う横で愛希が眉を潜めた。


「大問題よ。王野君それホント?通報した方がいいんじゃないかしら?」

 確かに知らない人は校舎内にも入れない筈だし、不法侵入者かもしれない。

 改めて身の危険を実感しはじめて、鳥肌をおさめるように自らの腕を擦った。


「ムムムッ!!!」

 葵が素早く駆け寄ってきて、樹に飛びかかって膝の上に着地した。

 樹は悲鳴を上げて葵に押し倒された。


「あ、いいなぁ葵!」

 唯が茶化したがそれでも尚葵は鼻を熱心に押し当てている。

 葵のくせ毛が肌に触れる。


「葵?!くすぐったいんだけど……?」

 和馬と唯の視線が痛い程刺さっているが葵はお構いなしだった。

 仕方がなく葵の気が済むまで待ち、ほどなく葵が凄い勢いで顔を上げた。


「イツキ!さっきここにオッパイデカい女来なかった?」

 葵のストレート過ぎる物言いに面食らったが正直に頷いた。


「来た……」

 聞くや否や葵は血相変えて飛び出して行った。


「どうしたの葵?!」

 樹は追いかけようとしたが、愛希がそれを制した。


「私が見てくる。王野君は帰る仕度。」

「あ、はい!」

 愛希は葵の後を追って外に出た。


「ところで王野君その服どうしたの?」

「巨乳の保健教師と何があったんだい?」

「いやっ?何にも!」

 唯と和馬は樹が服を直している間ニヤニヤとこちらを見ている。

 頼むから師匠、葵、早く戻って来てくれ!


「怪我の程は?」

 和馬は樹の腕を指差した。


「あ。」

 思わずあっと声に出る程忘れていた。

 樹は傷のあった場所を見せた。


「世話が焼けるね……」

 唯は湿布をはがして、消毒、ガーゼを当てテープで張るなど手早く行った。

 範囲は最小限にとどめられているが、適切な処置だった。


「ありがとう!」

「惚れてもいいよ!」

 唯は救急箱をもとの位置に戻しながらクックックと笑みを浮かべた。


「あ、いや、いいです……」

 唯は振り返り目をクワッと見開いた。


「ヒィッ、どうしたの……?」

「戻った!私の王野君!!!聞きたかったその悲鳴!」

 唯は樹に突進してきて樹は再び悲鳴を上げた。


「止めて前橋さん!」

 悲鳴は上げたが、本当は『タラシ』と呼ばれ避けられるよりも、こうして抱き着かれるほうがいいと思った。


「一日で三人の女性に迫られるなんてさすがだね王野君!」


 コンコンとノックが聞こえて扉に目をやった。

 扉が独りでに開いたように見えたのはその人物が想定よりも大分背が低かったからだ。


「永久!いいところに!助けて……」

 樹は絡みついてくる唯をあしらいながら永久に助けを求めた。


「僕、帰っていいかな。」

 永久はゴミを見るような目で樹を一瞥して開けた扉を閉めようとしていた。


「ご苦労様、長居君!」

 和馬が労うと永久はパーンとドアを開け放った。

「ご苦労様じゃないよ!勝手に置いてってさ!」


 永久は本人には重すぎる大荷物でドタドタと歩いてきた。

 歩く度に永久の膝にカックン攻撃を仕掛けているのは樹の鞄だった。


「うわゴメン!ありがとう!」

 樹は急いで永久から荷物を受け取った。


「お前らに言ってんの!少しは手伝えよ!」

 永久は和馬と唯を睨んだが二人は涼しい顔していた。


「ゴメン、女子だし。」

「僕ステーキナイフより重いもの持ったことないんだよねぇ。」

「黙れ、ブルジョア!」

 永久が睨みを利かせていると愛希と葵も帰ってきた。

 愛希が葵の手を引いてきて、葵は未だに外に注意を向けている。


「どうしたのかしら?」

「さぁ……」

 葵が奇怪な行動をとることには慣れているので、多少の事は受け流す事にしている。


「今日は一緒に帰るの?」

「途中まで。諸事情により……」


 葵は樹の最寄り駅の二つ前の駅で降りる事になっている。


「なら途中まで任せたわ。」

 永久は歩き、愛希と唯は違う路線の電車、和馬は高級車で送り迎えなので葵と同じ路線は樹だけだった。


「お姉さん達どうかしたの?」

 愛希は唯一樹と葵の関係性を知る人物である。

 永久にも伝えてはいるが全く無頓着だった。


「さすが師匠……っ!そうなんです!俺どうすれば……?」

「まぁ頑張りなさいとしか……」

 涙目の樹を憐れむように言った。


「ですよね……」

 樹が肩を落とすと和馬がスキップ交じりで寄ってきて肩を組んだ。


「君達!三点リーダー連発するような会話ばっかりしないの!幸福が逃げてくよ!」

「そうだね……」

「ホラまたぁ!帰るぞ皆の衆!」


 まだ本校にいる生徒は速やかに下校するように……と放送が入り、押し出されるような慌ただしさで学校を出た。


「じゃあね。」

「明日ね!」

 愛希と唯は樹達とは別の方向に歩み始めた。


「では、アデュウ!」

 校門の前に止まっていた黒塗りの車は案の上和馬のものだった。


 樹は手を振って見送ると、自分も歩き出した。


「葵、行くよ。」

「……」

 葵は未だに上の空だ。

 何か別のものに注意を向けているようだった。


 樹は溜息をつくと葵の手を引いて家路についた。


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