04.帝都学園
休み明けの月曜。
電車に揺られながら、王野樹は窓の外を眺めていた。
只今通学中。
通いなれているのでエリア11に行った時のようなドキドキ感はない。
人が多すぎて降りられなくなる心配もない。
なんせこの満員の状況を作っているのは樹と同じ帝都学園の生徒達で、出入り口に近づける順番を待って電車を出ればそれでいい。
皆同じ駅で降りるのだから、降りられなくなる心配もない。
ドアの近くの吊革を掴み、ボーっとたたずんでいた。
周りには同じ学校の生徒が多数いたが、自分達の話しに夢中で、彼に話し掛ける人はいない。
こうして一人で登校するのが日課だ。
慣れているので、寂しいとも感じない。
窓の外を見るのも、彼の日課である。
同じところを走っているので、当たり前だがいつも同じ風景だ。
だからといって見飽きている訳じゃない。
同じ風景だからこそ、微妙な変化を見て楽しむのだ。
例えば今日は住宅街の中に真っ白なセントバーナードがいる。
熊のような巨漢で、リードを掴んでいる飼い主らしき女性をズルズルと引きずっている。
この犬を見たら良いことがある事にしている樹は、心の中でヨシと叫んだ。
久しぶりにあの犬を見た。
樹はこんな地味な事で、地味に喜んだりする地味な人間だった。
だが、それを表情に出すことはない。
周りからみると、ただ遠くを見ているようにしか見えない。
見た目だけならばモデルをしている姉に似て美形のはずなのに、表情を出さないせいで樹に近づく人はいなかった。
同じ車両の後輩たちの口から自分の名前が時たま聞こえるが、せめていい噂であることを祈りながら、樹は聞こえていないフリをしていた。
樹は他の生徒と同じように、双葉駅で降りた。
樹の通う私立帝都学園は、双葉駅と違う路線にある炭田駅の間にあり、広い範囲から毎朝、中等部と高等部合わせ約千人の生徒達が集う。
生徒達が降りたことにより電車が一気にすいて、サラリーマンがスッと座席に座るのが発車前に見えた。
電車を降りた生徒達が改札口の前にたまる。
ここの生徒達は指定のズボンとスカートをはいているのが特徴だ。
一応制服なのだが、上に着るシャツやカーディガンの色は指定されていないうえ着崩しているので、あまり統一感がない。
樹は制服を購入した時に一緒に買った無個性な白シャツを着ている。
樹はパスで改札をくぐり抜け、おそろいのズボンとスカートの集団に加わった。
学校はここから十分程歩く。
遠回りしてコンビニによる者もいれば、近道と言って、どこかの敷地を横断する無法者もいる。
樹はそんな事はせず、近道も遠回りもせず正規ルートで学校までいく。
急ぐ訳でもないのでマイペースでのんびり歩いた。
樹の後ろからトットッとリズミカルな足音が近づいてきた。
この足音には聞き覚えがある。
確信があったので、樹は足を止めて振り返った。
やはり思い描いた人物が、他の生徒達の間をすり抜けながら走ってきた。
身長は小学生低学年程で、すり抜けて来た人々達が好奇な眼差しで彼を見ている。
「あっ!長居先輩だ!」
彼はそう言った中等部の後輩よりはるかに小さい。
顔も身長と同様、幼くって童顔。
柔らかそうなふわふわした髪で、肌がつるりとしていて、目が大きく、女の子から好かれそうだ。
彼は樹が待っているのが当たり前だというように、追いついたら何も言わずに歩きだした。
「とわ、おはよ」
「おはよ。」
長居永久はちょっと樹を見上げて、素っ気ない返事をした。
無愛想だがいつもの事なので気にしない。
見た目だけならとても可愛らしいので、性格も可愛らしく、カルガモの親子のように樹の後をついて回っている。
と周りからは思われているが、実際には逆で、何かと世話のやける樹を永久が叱咤激励しながら引っ張っていくことの方が多い。
二人は永久がこの学校に転校してきた中一の三学期からの付き合いだ。
樹は中学に入学して以来、人見知りで誰とも仲良く出来ずにいた。
あまりに喋らなかったのと、顔立ちのせいで『日本語しゃべれない説』までながれた程他人と口をきかなかった。
しゃべれないのはあながち間違いではなかったので、否定もしなかったしできなかった。
同じ小学校から来た生徒もおらず、声を出さない機会が長ければ長いほど、人に話しかけるのも難しくなった。
もう別にいいか…と半ば諦めていた中、樹のクラスに転校生が来た。
それが永久だった。
永久の容姿に惹かれて話しかけた人はたくさんいたが、小学生低学年みたいな可愛い転校生はなぜか、樹とはじめに仲良くなった。
「僕人見知りなんだ」
転校初日に永久が樹に発した第一声だ。
席が隣でも、誰かに言われた訳でもなく、休み時間にフラリと樹のそばに来てそう言った。
その言動から、本当に人見知りかどうかわからないが、樹は初めての経験に胸が弾んだ。
「そうなんだ!俺もなんだ!」
自慢出来る事ではないが、初めて学校で他人と共通点を見つけて舞い上がった。
樹は自分よりもはるかに小さい転校生には普通に接することができた。
その日からこの二人は学校生活を共にしている。
特に会話の無いまま学校についた。
二人でいる時は無言でも気にならないので平気だった。
正門を潜るとPTAによって手入れされた花壇の中にある掲示板が目に入る。
帝都学園祭!
10月1・2日!
生徒会の貼った学園祭のビラが掲示板を覆っていた。
学園祭はこの学園最大の催しで、他の学校の学園祭と比べると、企画が多くて自由だ。
そのため他の学校からも多くの人達が来る。
「もうすぐ学園祭だね……」
学園祭は秋の催しだが、生徒達は夏休みが終わってすぐに準備を始めなければならない。
準備期間は1ヶ月間。
生徒から言わせてもらうと、もっと期間を延ばして欲しいとこだ。
「学園祭か。億劫だね。」
永久は顔に似合わず、可愛くないことを呟く。
「どうして?」
樹がたずねると逆に不思議そうな顔をされた。
「当たり前だよ。人多いし、何より学園祭前のバタバタしてる感じがヤ。」
「それも楽しいうちの一つじゃないの?」
学園祭の準備期間だけ遅くまで学校に残って、みんなが忙しそうにしていることや、忙しそうにしている割には嫌な顔しながらやっている人がいないこと。
普段しゃべらない人にも自然に話しかけられるところ。
樹は嫌いではない。
樹は毎度この雰囲気に浮かされて新しい友人作りに励む。
毎度上手くはいかないが、次の学園祭のシーズンにはまた雰囲気に浮かされその事実を忘れる。
今回も例外でなかった。
樹の言葉に永久は仰天した。
「人嫌いなのに、よくあの状況平気でいられるね」
「人嫌いなわけじゃないんだよ。ただ話せないだけで……」
「嫌いなんじゃん。」
「それは違うってば、話したくても話せないんだよ!」
「ヘタレ」
「真顔で言わないで、結構傷つくから……」
学園の多くの人は樹がヘタレな事を知らないし、永久が毒を吐くことを知らない。
多分この先も変わらない。
人知れず、人と多くの関わりを持たず卒業していくのだろう。
二人の後ろから女の子の声がした。
「樹、永久おはよう!」
早くも今朝の白犬効果が出た。
樹は顔を見なくとも、声だけで誰か判断できた。
樹が横を向いた時には、彼女はすでに横に立っていた。
井上真華は樹を見て微笑んだ。
樹は急に体温が上がるのを感じた。
高い位置で結んだ長い髪がふわりと揺れる。
百人の男に聞いたら全員可愛いと答える顔立ち。
学園一の美少女が樹だけを見て微笑んでいる。
「おはよぅっ!」
たった四文字の言葉を詰まらせながら、樹は急いで前に向き治った。
「ヘタレだ……」
永久はぼそっと呟いたが、樹には聞こえなかった。
登校中の男子校生達から羨ましそうに見られているのも今の樹には見えない。
横に真華がいる。
それだけが重要だ。
永久を除いて樹に話しかけてくる人はあまりいないが、彼女は廊下で擦れ違った時、後ろから追い抜いていく時何かと声をかけてくれる。
女子と接点のない樹は、それだけで自分は特別扱いされているのではないかと舞い上がりそうになる。
でもそれは勘違いで、彼女は顔見知りがいれば同じように気さくに接するし、なにも樹だけが特別ではないのだ。
永久が学校に来たその日、真華も同じくこの学校に来た。
樹はその日の事を鮮明に覚えている。
正直に言うと、中高で出来た唯一の友達、永久よりも彼女の方が印象に残っていた。
永久の事は話しかけられるまで小さな男の子ぐらいにしか思っていなかったのである。
二人が教室の前に立った時『可愛い!!』クラス誰かがそう叫んで、クラスがどっと沸いた。
真華に対して言ったのか、永久に対して言ったのか定かではない。
おそらく両方だろう。
クラスの中で樹一人だけ笑っていなかった。
姉がモデルをやっていているから、可愛い子や美人は見慣れていたはずの樹だったが、この時ばかりは驚いて、それこそ声が出せなかった。
その瞬間一目惚れしたのかもしれない。
一目惚れなんてお伽話かドラマでしかありえないと思っていたが、その瞬間樹もお伽話とドラマの仲間入りを果たしたのであった。
しかし、そんな感覚を覚えた人間はクラスの中にもたくさんいた。
樹はそのうちの一人でしかなかった。
「何話してたの?」
真華は楽しそうに話しかけた。
あぁっと、何話してたっけ?!
テンパる樹の横で永久がかわりに応えた。
「なんだっていいじゃん。」
当たり前だが永久の素っ気ない態度に真華がムッとした表情になる。
永久はなぜか真華と仲が悪い。
それ以前に、学校では樹以外の人には不必要に冷たい。
今までいじめられたり、嫌われたりしなかったのが不思議なぐらいだ。
そんな対応でも真華がめげずに永久に絡むので、永久も余計に彼女に対する風当たりが強くなっていく。
回を追うごとに二人の溝は深まるばかりだ。
「あ、もうすぐ学園祭だなって話!」
樹はなんとかその場を取り繕い、永久から視線を外させた。
また真華が明るい表情になり、それを見た樹はホッとする。
「そうだよね。もうすぐだもんね!楽しみだねぇ!」
「ねぇ……!」
樹は締まりのない顔で調子を合わせて言った。
永久が横から冷ややかな視線を送るが、それを気に掛ける余裕などない。
「今年は学年劇、何やるのかなぁ」
「今年も出るの?」
真華は学年劇の出演者の常連だ。
舞台の上に立つ彼女は一際輝いて見える。
うーんと真華は考え込んだ。
「わかんないなあ……」
彼女は自ら進んで劇に出ようとするわけではない。
誰かやりたい人がいればその役を譲るし、一度も進んで立候補している訳でもなく、周りが彼女を放っておかないのだ。
「樹は出ないの?」
彼女が悪戯っぽい笑みを浮かべながら首を傾げる。
「無理ムリ。」
今一人の少女の前にも死ぬほど緊張しているのに、あんな舞台に立てるわけがない。
樹は手と首同時に振って見せた。
「そっかぁ……樹、かっこいいから、出たらみんな喜ぶと思うよ?」
「えぇっ!?」
樹は悲鳴なのか喜んでいるのか分からない声を上げた。
こういう場合って否定した方がいいのか?
それともありがとうって言うべき……?
彼女が何気ない一言に樹はいちいち左右される。
そんな樹をよそに真華は隣で声を上げた。
「あっ、今日、日直だった!先行ってるね!」
「あっうん!じゃあ!」
翻弄されっぱなしだったが、最後は笑顔で手を振った。
真華は手を振り返すと、急ぎ足で校舎へ向かっていく。
途中でおはようと声をかけたり、かけられたり。
樹は太陽とは逆方向にいるはずの彼女の後姿を眩しそうに眺める。
「樹。」
永久がまだ手を振っている樹の名を呼んだ。
さっきから頬が熱い。
きっと真っ赤になっているはずだ。
それを指摘されると思って、手で頬を覆い隠してみた。
自分の手が冷たく感じられるほど熱をもっていた。
「いや、そっちじゃない。鼻の下のびてる」
「えぇっ!嘘?!」
樹は急いで鼻の下を抑えた。
「のびてるワケないじゃん。あくまで比喩表現だよ」
「何だ……」
永久は表情一つ変えずに言った。
「で。さっきの人の事好きなんだね?」
ストレート過ぎる永久の質問に再び樹の顔が赤くなり、頬を抑えた。
「な、なんでわかった?!」
「バレバレだよ。見てるこっちが恥ずかしい。むしろ隠し切れていると思ったのに驚きだよ」
「という事は本人にもバレバレ……?」
樹が耳の先まで赤くなっていると、永久は小さくため息をついた。
嘘はつけない。
嘘のつきようがない。
彼女の事が好きだ。
「どうしよう……」
樹がため息まじりにつぶやく。
実に簡単で永久はあっさり答えにたどり着く。
「どうしよう……ってなにさ。『好き』っていえば?」
永久は面倒くさそうに言った。
「できるわけないよ!」
「じゃあ、やめれば?」
樹はその一言に、だよね……とあっけなく引き下がった。
永久には友人の恋がどうなろうと知った事じゃないし、樹がもし気持ちを打ち明け、返事を永久に伝えたとしても『ふーん』としか答えないだろう。
しかしやめろと言って、あっけなく引き下がった樹には腹が立つようだ。
「そんなものか!!」
「えぇっ、いきなりどうしたの?」
永久がピシャリと言うと樹はうろたえた。
永久はクリクリした団栗眼で樹を下からにらみつけている。
「好きなんだろ?!」
「……」
「大好きなんだろ?!」
「……」
「自分に素直になれ!」
「……」
「返事をしろ!」
永久は樹に聞こえるように大きなため息をついた。
「しょせん顔だけの男なのか!?」
「うん」
「そこで返事をするな!」
永久はもう一度ため息をついて、落ち着いた。
「知ってる?さっきの人めちゃくちゃモテる。」
解説するような口調で淡々と語った。
「うん」
樹は何度も頷いた。
「でも何度も告白されようと断り続けてる。理由は『好きな人いるから』。」
いままで、真華に告白した男達の屍が見えた気がして、樹は重々しく頷いた。
「今日も、特に用も無いのに顔だけの樹に話しかけた」
そう言って永久は黙った。
そこで樹はハッとする。
「そうか!誰とも付き合う気がないんだ!」
勝手に悟って、勝手に肩を落とす樹。
「話聞いてた?特に最後らへん。」
「うん、どうせ無理だって言いたかったんでしょ?」
樹は卑屈に顔をゆがませ口を尖らす。
「違うけど。ネガ思考もそこまで行くとすごいね…褒めてる訳じゃないよ。」
しびれをきらした永久は一字一句鈍い樹に説明してやった。
「……という感じで、樹にも少なからずチャンスがあるわけ。」
永久の説明を聞いても樹の表情は晴れなかった。
「でも、俺さあ今のままで結構幸せなんだ。」
「またヘタレなことを!」
「でもいいんだ。あぁやって話しかけてくれるし。見てるだけでいいんだ…」
「樹……」
永久は団栗眼で樹を見上げた。
「それ一番ストーカーになりやすいパターンだ。」
「うそぅ?!」
二人は気付かぬ間に校舎に入り、教室まで行く階段を登っていた。
樹達の数メートル離れた場所。
樹の背中を追いかける少女達がいた。
「あ!美沙ちゃん!王野先輩だよ!」
美沙と呼ばれた生徒は女友達に背中を押された。
憧れの先輩はすぐ目の前。
佐藤美沙は井上真華程ではないものの、なかなかの美少女で、有名人だった。
彼女は高等部の一年生で、樹の一つ下の学年だ。
美沙は友人たちに背中を押されたがすぐに戻ってきてしまった。
「やっぱムリだよぅ!」
そんな彼女に女友達は後押しする。
「大丈夫だよ!美沙可愛いし!」
「王野先輩彼女いないらしいよ?」
美沙は首を横に振った。
「いいの!私、見てるだけでいいから!!!」
そう宣言する美沙の視線に気が付くことなく、樹は肩を落としながら校舎の中に入っていった。
帝都学園北校舎高二フロアA組。
ここが樹と永久のクラスだ。
樹と永久は教室に入るなり、笑いの衝撃波にぶつかった。
クラスの中心ではお調子者の木林森優太が、身振り手振りで楽しそうに話している。
彼の周りに人が集まり、笑いの衝撃波を生み出していた。
樹の席はその衝撃波発信地から遠く離れた、教室の隅にあった。
一番窓に近い列の一番後ろ。
教室の様子が一望出来る。
やたらと日当たりがよいが、電波の届かない無人島のようなところだと樹は思う。
今の配置はくじ引きで決められたのだが、樹の席は先生から遠いため人気があった。
樹は周りに人がいて話しかけそうな席を望んだが、よりによって前にしか人がいない席になってしまった。
良かったことと言えば、席替え当日にいいなぁ代わって!と数人に話しかけられたことぐらいだ。
誰かひいきにしていると思われたくなく、結局誰とも交換できなかった。
それ以降はぱったり音沙汰ない。
「んで!ジャジャン!ガシッて!」
こんな無人島にまで優太のよく通る声だけは届く。
自ら混ざりに行けばいいものを、きっかけがつかめず樹はいつも担任が来るまでボンヤリと過ごしてしまう。
永久が自分の席に荷物を置いてから隣の席に腰を下ろした。
永久の席は彼の身長の関係で黒板の真ん前だが、この席の主が不登校で学校に来ないため、授業前や休み時間は永久の席になっている。
いつもどおり、特に会話はなく、樹は壁にもたれかかって、クラスの様子を眺めていた。
みんなの輪にはいっているわけではないが、樹はこのクラスが好きだった。
何事もなく、平和だし……
いつもどおりの平和な時間を過ごすはずだった樹の背後から、突如背の高い影が迫っていた。
「オハヨー!王野君!」
平和な無人島の雰囲気を壊す、妙に明るい能天気な声。
危険を察知した永久は素早く机につっぷして、寝ているような体制を取った。
この決断力の早さには見習うべきものがあった。
「……っ。おはよ。」
名前を呼ばれ難から逃れる事の出来なかった樹は、動揺を隠せないまま挨拶した。
彼はもとの黒色の髪をところどころ赤に染めた、特徴的なヘアースタイルをしている。
制服も黒いワイシャツに赤いネクタイという徹底ぶりだ。
制服のズボンの横にはジャラジャラと銀のアクセサリーがぶら下がっている。
シャツもネクタイも見る人が見れば、高級品であることが分かる上物ばかりだ。
ただでさえ背の高い和馬は樹を見下すような感じになった。
うわ~松田君だ……
樹は己の中のヘタレ魂が騒ぐのを感じた。
同級生にも関わらず樹は椅子に座ったまま一歩下がって身構える。
彼は松田カンパニーの御曹司で桁違いのお金持ち、松田和馬。
時たま樹の前にふらりと現れてはおちょくって帰っていく男子高生だ。
『王野君って日本語しゃべれるの?』
『井上さんの事よく見てるけど好きなの?』
などと遠慮のない質問を投げかけては、樹がうろたえるのを見ると満足そうに帰っていく。
質問する割には周りの誤解を解くこともしないし、なにかアクションを起すこともなかった。
起こされても問題なのだが、真意が分からないので普段は彼の目に留まらないように行動している。
和馬は用がなければ、教室の隅の無人島に生息している樹には話しかけてこない。
樹も用がなければ髪の毛を赤に染めたズボンの横がチェーンジャラジャラなこの男には間違っても話しかけてない。
そんな樹をよそに和馬は細いタレ目をさらに細めてニヤリと笑う。
その左目の下には泣き黒子があり至って優しい顔立ちなのに、樹はその笑顔に一抹の不安を覚えた。
「あの~なにかよう……?ですか……?」
機嫌を損ねないように敬語です。
「……」
何もこたえない。
何かこの人に悪いことしたかな……?
一人困惑する樹。
それを見て和馬はムフフと笑った。
困っているのを見て楽しんでいるようだ。
しかし笑うだけで話そうとはしない。
あぁ……無言にならないでくれ……
樹の願いが通じたのか、和馬がにやけた口を開いた。
「王野君!突然だが自分を変えたいとは思わないかね?!」
和馬は演説口調で、大げさなふりで熱弁した。
それにより伏せていた永久が、腕の隙間から訝しげに和馬を睨んだ。
「えぇ……?」
樹は突然の問いかけに当然の対応をした。
唐突に何を言い出すのだろう?
ただ困惑して目を泳がせた。
その対応に満足しなかったらしく、和馬は机をボンと叩いた。
「だぁかぁらぁ!」
「ヒィっ!」
樹ヘタレらしく小さい悲鳴をあげた。
永久は横で完全に体を起こして、敵意むき出しの視線で和馬を睨みはじめた。
「あっおはよう。長居君。」
さらりと挨拶を終えて、樹に向き直って続けた。
「王野君ってさぁ!ほら、なんというかいつも弱気じゃん?」
「えっ……?うん……」
そこまでハッキリと言わなくても……と思いつつも、弱気な樹は曖昧な返事をした。
「樹。相手にしなくていいよ」
「ハイ、長居君!shut up!」
和馬は大きな手を永久の顔の真ん前にかざした。
払いのけようと永久はやけになったが、和馬は腕一本で簡単にあしらった。
片腕で永久と争いながら和馬はしつこく樹に話しかけた。
「だからさ、変えたくない?」
「いや、別に今のままでも……」
「うそつき。本当はわかってるでしょう?変わりたいんでしょう?」
樹は少しうつむいて黙り込んだ。
それは一番自分が理解している。
いつだってオドオドして、優柔不断で、思っている事言えなくて。
いいなぁ、変わりたいって思っているくせに自分は何もせずに、今のままで良いじゃんって自分に信じこませて。
「変われるものなら……」
樹は思わず呟いた。
少し変われば。
結果はともかく、好きな人に好きって言って。
樹にだってわかっている。
見ているだけじゃなくって伝える事が大事なぐらい。
「変われるものなら……?」
和馬は続きを促すように復唱した。
「変わりたいよ。」
樹は珍しくきっぱりとした口調で、反射的にこたえていた。
気のせいだろうか?
横で見ていた永久の表情が『あぁあ……』な顔をしている。
そこで樹は自分がとんでもない事をした事に気がついた。
和馬が笑っている。
嬉しそうに、嬉しそうに。
「え?いやそう言う訳じゃ!」
もうなにを言っても無駄なのはわかっていた。
この笑顔、ちょっとやそっとじゃ出来ない。
なにもかもが思い通りになったと言うような、飛んで火にいる夏の虫と言いいた気な笑顔だ。
「変わりたいんだね!だよね?!よし、手伝って上げるよ!」
「いや!いいよ!本当に大丈夫だから!」
和馬は聞く耳持たず自分の席に向かった。
わざととしか思えない、いいタイミングでホームルームのチャイムが鳴った。
根が真面目な樹はチャイムが鳴ったら席を離れられない。
生徒達が、担任が来る前にバラバラと席につき始める。
「……どうしよう?!」
永久に問いかけてみた。すでに、自分の席に向かおうとしていた。
「さっきの威勢はどうした!」
「威勢とかじゃなくってあれ絶対『誘導』とか言うやつだよ!」
和馬が去るといつもの樹らしくオドオドし出した。
「自分の言葉に責任を持って。まあ、『変わりたい』って言ったところはかっこよかった。」
「なんで遠い目をしているの……?」
「諦めて。あ……先生来る。」
「『諦めて』って……」
「自業自得」
そう言って永久は足早に去っていった。