38.リハーサル
金曜の昼休み。
樹は帝都学園の屋上で沈んでいた。
見晴らしが悪く、寒いため限られた人しか立ち寄らない屋上。
三人しかいない人のうち一人が沈黙している事で、余計に寂しさが増している。
沈黙しているのは真ん中にいる樹で、残りの二人は暖を取るように樹に背中を押し付けている。
樹の右隣の永久はモシャモシャとメロンパンを頬張っていて、二つの種類のものを交互に入れて食べ比べている。
左隣にいる葵もお弁当を頬張っている。
味わって食べている永久とは違い、生命のための食といった感じにかき込んでいる。
見た目的には学校で孤立した三人がいるというより、一人一人孤立した人間が一か所に集まったような感じになっている。
その証拠に二人は沈んでいる樹を見ていないし、一緒になって沈むわけでもなかった。
両脇に人がいるのは樹にとって大きな慰みとなっているが、意図的にやっているのか怪しいものだ。
「イツキ?食べないの?」
葵は樹のお弁当の中身を覗きみた。
中身は葵が食べていた弁当と同じものが入っている。
両方とも桜が朝に作ったものだからだ。
「いいよ、食べて。」
「いただきます!」
葵はためらいなく自分の弁当箱と樹の弁当箱を取り変えた。
寒くなってきたこの時期とはいえ家に帰る頃には悪くなって食べられないだろうから、作ってくれた桜にとっても、食材にとっても良い選択だった。
「なんだよ。後でお腹すいても上げないから。」
永久はまだメロンパンが二、三個入っているコンビニ袋を隠した。
もしお腹が減ってもそんな糖分尽くしのパンは食べられない。
樹は力なく笑って敵意の無さを示した。
「大丈夫だよ……」
食事も気乗りしない程沈んでいる理由は簡単。
昨日の出来事だ。
噂とはすごいもので、昨日交際が発覚したばかりなのに、もはや常識のように皆の間に定着していた。
それに加え『バイクを二人乗りしていたのを見た』など『朝よく二人で登校していた』など裏付け的噂が出回っていた。
それらは噂というより事実と呼ぶことを樹は知っていた。
「井上の好きな人ってキバの事だったんだ。」
体育祭予行練習があった日の事を思い出す。
そういえば彼は、樹が思いを伝えたことはないと言った時喜んでいた。
これからも健全な付き合いをするようにと言っていた。
今思えば優太も彼女の事が好きだったんだろうか。
「酷いヤツ。友達だったんじゃないの?」
永久が樹の横でメロンパンを食いちぎった。
大きく噛み切ったせいで、長いこと口の中でモゴモゴさせている。
「『だった』って、今も友達……のつもりだよ、俺は……。永久だって友達じゃないの?」
「さぁ、どうだろうね。」
その口振りは違うと言っているようだった。
「そもそも友達なの?好きなの知ってて取ったのに?」
「またそういう悲しいこと言う!」
「思ったことを言ったまでだよ。僕は。」
永久はすました顔で新たなメロンパンを開封した。
量的に言えば人並み以上によく食べているのに、体が小さいままなのは栄養の偏りのせいだと樹はつくづく思う。
放課後にはまた劇の練習があり、彼女と顔を合わせることになる。
今からもう既に気が重かった。
終礼が終わるとまた講堂に集まって練習をすることになっている。
樹はまず、二階席まで葵を送っていった。
そこには学年劇の責任者である愛希と監督の和馬がいる。
そこまで連れていくと葵は自ら樹から離れていった。
「後でねイツキ!」
葵は手を振るとそこが定位置であるかのように愛希の横に陣取った。
「後でね。」
樹が葵に手を振ると、その様子を近くで見ていた和馬がオヤ?と声を上げた。
「王野君!こんなところでナニ油売ってるんだい?始めるよ!」
「すぐ行くよ!」
宣言通り樹はすぐに二階席から首を引っ込めた。
舞台裏へと続く階段では永久が気怠そうに樹を待っていた。
「いくら葵でも学校で迷子になる訳ないだろ。」
「うん……まあ、念のためね。」
永久は樹が目を反らしたのを見逃さなかった。
「樹、今日衣装着て練習だよ。」
「あぁ……わすれてた。」
そう言ったものの樹は急ぐことはなかった。
「わざとだろ。」
永久の指摘は笑って誤魔化した。
開始時間8分前に樹は舞台横の控室に来た。
「樹、遅いよ!」
控室の前には真華が待っていた。
彼女は既に可愛らしいドレスに身を包んでいた。
彼女は劇中に数回衣装替える事になっていて、今着ているのは一番初めの衣装だ。
「ゴメン!」
真華は樹のあとについて来た。
「珍しいね時間ギリギリ!」
たしかに珍しい事だった。
樹はいつも早くに練習場にくる。
「今着替えてくる!」
「あ、うん。」
真華は何か言いたそうにしていたが、さすがに更衣室にまでついては来なかった。
樹は更衣室に入ると扉に寄りかかり、ふーと息をついた。
一緒に部屋に入って来た永久は迷いなく部屋の奥に進んでいった。
更衣室兼控室の部屋にはいくつかの長テーブルがあって、その上に恥ずかしい記憶蘇る衣装鞄が置かれている。
もうほとんどの人が着替え終わっているようで、机の上にあるのは永久と樹のぐらいだ。
樹は急ぐわけでもなく、かといってノロノロする訳でもなく、淡々と着替えを済ませた。
永久は『高二にもなって……』とぼやきながら衣装に手を通していた。
永久は、カチューシャは付けていなかったがフワフワしたケープに身を包んでいた。
ケープの下には英国少年のような衣装で本人が言う程酷い感じでもない。
衣装は全て和馬のお使いのリーコが監修しているらしく、高校生の学園祭にしてはどれも力が入っている。
着替え終わると練習開始時刻3分前だった。
遅刻と咎められないギリギリの時間だ。
樹が外に出ると真華はもうそこにはいなかった。
もうスタンバイ体勢に入ったのだろう。
「なんか探してる?」
樹は永久の問いに首を振った。
「急ご。」
「樹がもたもたしてたんだよ!」
「ごめん、ごめん」
永久はご立腹で樹を追い抜かすと、上手のステージ裏に向かった。
「長居君可愛い!」
途中で唯に絡まれていたが、永久は一睨みで威嚇した。
唯は永久のあとに入ってきた樹を見つけるとオッと声を上げた。
「珍しく遅いじゃん王野君。待ってたのに!」
唯は冗談めかして唇を尖らせた。
「ゴメン。葵送ってた。」
樹は二階席のある斜め上ぐらいを指でさした。
「素でも王子様キャラですか!私も送ってって!」
唯が魔女の衣装のまま樹にじゃれ付いた。
「いいよ。機会があればね。」
「ナヌッ?!?!」
唯が樹から飛びのいた。
「いつもの『ヒィッ!』は?!ビクッは?!愛想笑いは?!なに普通に応じてんの?!」
「そんなしょっちゅう悲鳴あげてないと思うけど……」
「また普通に応えた!私、嫌がる王野君が好きだったのに……!!!」
「それはゴメンね。」
樹が微笑むと唯は身震いして距離を取った。
「いやぁあああ!王野君がタラシになった!」
唯の悲鳴を聞いて数人の人が小声で噂し始めた。
「前橋さん大声で変な事言わないでよ。」
前まではこんなことで半べそかいていたのに、樹は自分がヘラヘラ笑っている事に驚いた。
唯は再び悲鳴を上げて逃げていった。
「どうした王野?」
「いや、なんでもないよ。」
「前橋が『タラシ』って叫んでたけど?」
中山、杉田が体中を抑えながら寄ってきた。
衣装の装飾がカチャカチャいっている。
「キャラ変更したん?」
「……というわけじゃないけどね。」
樹が曖昧に言葉を濁すと中山、杉田がふーん相槌を打った。
「意外と平気そうじゃん。」
「何が?」
樹が首を傾げると中山は言いにくそうに、頬をかいて衣装をカチャカチャさせた。
「キバと井上の話だよ。」
「それか!ほんとビックリした……!でも前からちょっと知ってたから。」
体育館でだべっていた時のあの会話は、今思えば完全なフラグだった。
「なんだそうか!」
「知ってたのか!」
中山、杉田が軽いジョブをくらわせてきた。
二人の衣装は本物の騎士さながらの攻撃力だったので樹はよろけながら笑っていた。
やがて劇の始まりを告げる和馬のメガホンが響き渡った。
セリフも間違わなかったし、いたって順調だ。
ただ唯と目が合い微笑むたび身震いされたのは気になった。
再び樹が舞台に上がる場面がやってきた。
王子は姫を引き留めなければならない。
樹は舞台袖から飛び出すと同時に姫を呼び止めた。
真華が振り返ると樹はその前に立膝を着いた。
どちらかというとセリフが少なく動きの多い場面だった。
テンポよく、スピーディに演じなければならない。
樹は姫の手を取るため手を伸ばした。
なぜか手を伸ばした場所に姫の手はなく、目の前にあり腕が交差していた。
あれ?動かないって言ってなかったっけ?
樹が真華に合わせようとすると、真華は樹に合わせようとした。
今度は交差する事はなかったが二人の間に妙な間が開いてしまった。
「ゴメン!」
「いいよ、大丈夫。」
樹は微笑んで手に視線を落とした。
お互い撥ね退いたので手のひらを見せ合うような姿勢で止まっている。
「どうしようか……?」
「ねぇ……?」
真華は樹に答えを求めるように首を傾げた。
『どっちか統一してぇ!』
二階席から和馬がメガホンを使って声を張り上げた。
樹は一瞬そちらに注意を向けたが真華に向き直った。
「井上。」
「う、うん!」
「腕動くの?」
「昨日から調子よくてっ!」
真華は左手を握ったり放したりした。
「良かった!腕動くなら元に戻す?間が難しいから……」
「うん。」
真華は一度頷いた。
「ゴメン。当日辛いようだったら言って。」
真華が頷いて樹は数歩後ろに下がった。
彼女は何か言いたそうにしていたが和馬の声が上から降ってきた。
『いい?!王子が呼んで振り返って、ハイ!!!』
劇は滞りなく進められた。
『オッケー!ここでカーテンコール来たら素早く並んでね!お疲れ解散!』
出演者、裏方は蜘蛛の子を散らすように帰っていった。
半分は次の電車に間に合わせるために速足になり、残りはその次の電車でのんびり帰ろう考えている。
樹は慌ただしくして間に合わなかった時のショックを考え、後者にした。
更衣室は早く帰ろうとする人に場所を譲り、舞台の隅でボーと佇んでいた。
樹がいるのとは反対側、上手の隅に同じことを考えているらしい真華の姿を見つけた。
彼女はまだこちらに気付いていない。
樹は気付かれる前に、この場を去ろうとした。
避けている訳ではないんだと自分に言い聞かせていたが、舞台裏に隠れるという行動はとれなかった。
舞台裏に視線を移し、目を合わせないようにしていた。
後ろからトットッと軽い足音が近づいてくる。
たしか彼女の衣装はヒールのある靴で、歩けばこんな音がするのだろうと思った。
気付かないふりで行ってしまう事もできたが、気付かないふりを意識した途端彼女を避ける事になる。
「イツキぃ、写真とってイイ?」
舞台裏で記念撮影をしていた女子達が目に入った。
彼女達はエキストラで確かメイドA、メイドBとか言う役柄だった筈だ。
昨日といい、今日といい。彼女達は写真を撮るのが好きらしい。
彼女達は樹を見つけると丁度いいところにと言わんばかりに腕を掴んだ。
テーマパークにいる着ぐるみになった気分だ。
彼女達は衣装合わせの時取りそびれたもんと付け加えた。
「いいよ。」
樹は彼女達に呼ばれる形で舞台裏に入った。
呼ばれたという口実ができて、舞台裏に逃げ込むことが出来た。
「え、いいの?!」
「うん。別にいいよ。」
協力的な樹にはじめは彼女達も不思議そうにしていたが、樹が微笑んでいれば大抵の女子は悪い気はしない。
「ポーズ取ってよ!」
「いいよ。」
「ホントに?!」
「うん。」
樹はしばらくそれに付き合った。
言われればほぼ何でもやった。
「ありがと!」
彼女達は樹に背を向けるとスマホを操作し始めた。
そこへ二階席から降りてきた和馬がやってきて、彼女達の前に仁王立ちになった。
「ちょっと君達!間違ってもSNSに乗せたりしないでくれよ!ネタバレになるから!」
「わかってるよ!友達うちならいいでしょ?」
「わかってないなぁ……君の言う友達のみ公開って学校にいる殆どの生徒に公開と同等のものでしょ?」
彼女達は苛立たしそうに天を仰いだ。
「まあ、乗せなければいいんでしょ。」
「そういう事!」
去り際に彼女達はなんだろアイツ……と呟いていった。
和馬の耳にも入っていただろうけど和馬はにこやかに手を振った。
ホントに耳に入っていないんじゃないかと思う程見事なポーカーフェイスで、和馬は尊敬に値する。
「あの、ゴメン松田君。昨日このまま外出ちゃった……」
「少しぐらいなら話題になっていいよ。僕が避けたいのは常に見られる状態にしておくことさ。プレミア感が無くなるだろ?」
「良かった。そうだね。」
和馬は微笑むと首を傾げた。
「今日はえ、あ、う、とかあんまり言わないんだね。さっき井上さんが話したそうにしてたけど、気付いてた?」
樹はピクリと肩を震わせた。
真華はさっき写真を撮っている間に樹の脇を通り過ぎると、鞄を背負ってどこかへ行ってしまった。
時間もそんなに経ってないし、衣装のままだったからおそらくまだ更衣室にいるんだろう。
未だに彼女を目で追ってしまっていた。
「気付かなかった。」
樹が言うと、和馬わざとらしく意外そうな顔をした。
樹の考えを見透かしているのを、和馬はいちいち隠したりはしない。
「君が?!珍しいね。」
「うん。」
人は極限まで追いつめられると簡単な言葉しか口から出てこない。
和馬はうーんと唸って腕組みした。
樹はビクビクしながら和馬の次の言葉を待った。
やがて和馬は丸めた台本の先を樹に向けた。
「セリフは合ってるんだけどー。」
話題が真華からそれた事にひとまず樹は安心した。
「王野君、本当に大丈夫?」
樹は慌てて笑顔を作った。
「うん!」
「人を追い立てているみたいでこの言葉好きじゃないけど……頑張ってくれよ?」
和馬はやれやれとため息をついた。
樹はほぼ反射的に口を開いていた。
「なんでそんなに勝ちにこだわるの?」
まるで今までの頑張りを無に帰すような発言をしてしまい、言った後に後悔した。
和馬はポカンとしたのちニヤリと笑った。
「そりゃ、賞品が欲しいから!」
いつもながら彼の大袈裟な身振り手振りはやはり嘘くさい。
「はぁ……」
樹が気のない返事をすると、和馬は台本を樹の鼻先に向けた。
その腕には誰もが知っている高級ブランド腕時計。
首に懸っているネックレスは見たことない光沢を放っている。
「今、僕に手に入れられないモノなんてあるの?とか思ってた?」
「い、いやそんなことないよっ?!」
樹はぐらぐらと目を泳がせた。
「王野君。今、僕をエスパーか何かだと思ってた?」
「ッ?!」
「まぁ冗談はこのくらいにしておいて。」
和馬は見えない箱を横にどかす動作をした。
動きはコミカルだがいつものニヤケ顔は真剣そのものだ。
「僕の学園最後の思い出は、君に懸っているんだから」
「最後の……?」
和馬の意味深な答えに樹は思わず聞き返した。
和馬はプッと噴き出す。
「ヤダなぁ。不治の病とかじゃないよ!ただ高三はどうなるかなって思っただけさ」
樹は高三になったら学園祭は自由参加である事を思い出した。
来年の自分達を想像して最後になるかもしれない学園祭と皆が言っていた。
和馬もまた来年の自分が参加できない事を懸念しているらしい。
和馬は気まぐれに監督などやっているわけではなく、今回の学園祭に賭けているようだ。
「わかってくれた?」
「はい。」
「じゃあ、アデュウ。」
和馬はヒラヒラと手を振ると鼻歌交じりで帰っていった。
今日はしっかりと制服に着替えてから、家路についた。
いつもの駅から電車に乗って、いつもの駅で電車を降りる。
葵は例の如く樹の周りをチョロチョロと行ったりきたりしている。
「樹、どうしたの?」
葵は寄り道して遅刻しそうになった公園の前で足を止めた。
樹もつられて立ち止まる。
気付けば葵が立ちふさがって樹を見上げていた。
というよりまるで樹を咎めるように睨んでいる。
こういう顔で見上げられると初めて会った日を思い出す。
「どうもしないよ。」
樹は笑って通り過ぎたが、心中では穏やかではなかった。
違和感なく振る舞っているはずが、葵に気付かれていた。
樹は真華に失恋した結果、なかった事として通り過ぎる事にしていた。
そのうちに勘違いのことのように思えてくる筈だ。
一目惚れでなく、驚き。
好きだったのではなく、憧れ。
そんな勘違いだとすれば、今の気持ちは失恋ではない。
中二のあの日からなんて長い勘違いなんだろう。
樹が微笑むと葵は余計に怒ったような顔つきになった。
「でも、いつもはこうじゃない事、アオは知ってるもん!ご飯も残すし、話し方もテキトーだし!ほらすぐ笑う!」
樹は声を上げないように静かな声で言った。
「たった会って一か月かそこらで、いつもとか分かるの?」
自分でもなんて意地の悪い事を言うんだと思う。
葵はウッと言葉を詰まらせて言いよどんだ。
グウの音も出ないようだった。
更に追い打ちをかけるように、意地の悪い言葉は口からだらだらと零れ落ちる。
「いきなり家に来ていつもはこうじゃないって言われてもさ、葵が知らないだけかもしれないでしょ?分かるわけないよ。正直、俺は葵の事分らないよ。」
始めは頬を風船のように膨らませていた葵だったが、空気が抜けてしぼんでいった。
こんな事が言いたかった訳じゃない。
これではただの八つ当たりだ。
「はじめその田邊さん?で切られそうになったし……父さんと間違えったって?なんで葵に殺されそうになってるの……?普通に家に居ついてるし、何が何だかもう……」
葵はすっかりしょぼくれてしまった。
「樹はアオの事怖いの?」
「……」
そんなの言わなくったって分かるだろう。
一言しゃべったら泣きそうで言葉を飲み込んだ。
もう泣き顔を見られるのは昨日の一回だけで十分だった。
葵は樹の無言をどう受け取ったのか、背負った長細い巾着に手を伸ばした。
樹はその中に日本刀、田邊が入っている事を知っていた。
銃刀法違反を無視し葵が肩身離さず持っている代物。
いっそその刀を振るってくれれば楽かもしれない。
古い刀だが切れ味はどうだろうか。
葵はその巾着の中身を出すことなく体の前に抱えた。
「じゃあ樹に田邊さんあげる!……やっぱ貸すだけ。」
葵は樹に田邊を押し付けた。
樹は受け取るつもりはなかったが、大事なものだと知っていたので葵が手を離すので受け止めてしまった。
樹が突き返す前に葵が口を開いた。
「アオが怖いなら、それでアオと戦うといいよ。」
樹が田邊を手にしたところで葵に太刀打ちできない気もするが、葵はそれで対等という事にしているらしい。
葵はさほど傷ついている様子も見せなかったが、自分が怖がられていると知って気持ちがいいはずない。
葵は樹の無言を樹の考えとは逆に受け取ってしまったらしい。
聞くまでもなく『怖くない』に決まっている。
怖かったら一緒に帰らない。
情けない泣き顔を見られたくなくて、葵に『怖くないよ』と言えなかった。
悲しませてしまった。
樹は今度から思った事は泣いても言おうと思った。
葵は既に樹に背を向け前を向いていて、痩せた背中が寒そうに見えた。
「田邊さんいないと軽い!」
葵はピョンピョンとその場でとんだ。
「早く帰ろ。お腹すいた!」
樹は葵が明るいままでいてくれてありがたかった。
葵は駅から家に帰る道を覚えたので、樹を置いて先陣切って歩いた。
葵がしばらく経って振り返って樹を急かす。
樹は田邊を背負って歩き出した。
それを見て葵は嬉々と笑った。
「樹、デザートにプリンもどき食べたい!」
プリンもどきはミルクセーキをゼラチンで固めた簡単なものだ。
今すぐ帰って作れば、夕飯後には固まるだろう。
お詫びと田邊を貸してくれているお礼に作ってあげる事にした。
「いいよ。」
葵はその場で小躍りした。
「そんなに好き?」
「うん。ヤワヤワのより好き。」
葵の言うヤワヤワとはクリームプリンの事だ。
葵はおそらく、なめらかな高級プリンなんかより、三つ並んで売っている安いプリンの方が好きだ。
家に入る手前で樹は葵を呼び止めた。
「なに?」
「葵本当にいいのコレ……田邊さん?返そうか?」
冷静になって銃刀法違反の文字が頭をかすめた。
葵は首を振る。
「いいよ。アオ強いもん。だから使わない。」
今まで肌身離さず持っていたのに実にアッサリしていた。
葵は桜から手渡された合鍵で家の錠を開けた。
「樹の方が使えるかも。」
「それって遠まわしに俺弱いってこと?」
葵は首を振った。
「近まわしに弱いってこと!」
「そっかぁ……」
「葵が強くしてあげようか?」
「ちょっと遠慮しておく。」
体がいくつあっても足りない。
でももし、葵のように強くなれたら、何にも迷うことなく強く生きていけそうだ。
「葵、強い……」
「今更気付いたの?アオに倒せないのは圭兄だけなんだよ!」
葵はただいま!と王野家に飛び込んだ。




