33.月に潜入
月曜の夕方
リゴレ・ルーン本社。
仁科美由は会社の最上階に位置する社長室で人を待っていた。
気だるげにヤスリで爪を磨いている姿はとても大企業の社長には見えない。
言うならばこの部屋自体も仁科の趣味で固められていて、とても社長室には見えない。
辛うじて社長室らしく見えるのは、部屋から一つだけ浮いて見えるデスクとセットの回転椅子だ。
機能的なそのデスクの引き出しには数々の重要書類が収納できるようになっていて、その役割を果たしているのだが、仁科は書類に目を通した事がない。
扉がノックされた。
仁科はどうぞと愛想のない返事をすると同時に、爪ヤスリを適当な引き出しに突っ込んだ。
社長室に入ってきたのはスーツ姿の若い男だった。
首から下げられた入場許可証がこの会社の人物でないことを示している。
仁科は入って来たのが若い男と知るや否や自然に笑顔が溢れた。
男は入ってきて一礼すると社長室を横断して、仁科のもとへ来た。
不必要にペコペコしないその素気なさ、接客業なら落第点だが仁科は割と嫌いじゃない。
「ビー・オー・エヌ、パソコン修理部、ウィルス対策科の哲原牧男と申します。」
哲原という男は名刺を仁科に差し出した。
そこで初めて仁科に笑顔を見せる。
頬の広い範囲に貼ったガーゼが影を誘っているが、笑顔は人当たりが良さそうだった。
仁科は当たりだったわねと心の中で呟いた。
初回の方は訪問費、パソコン処理込でなんとワンコイン(五百円)!
のうたい文句に惹かれ業者に電話してみたのだ。
五百円だし、サービスにもくる人間にも左程期待はしていなかったが、仁科は大いに満足であった。
顔も頬にある痛々しいガーゼを除けば悪くない。
そして何より甘い美声が気に入った。
耳元で囁いてもらえばさぞかし心地よさそうだ。
「よろしくお願いしますぅ!」
媚を売るような口調で言うと仁科は回転いすで一歩退いて、デスクトップを示した。
「失礼します。」
哲原はデスクの内側に回るとデスクトップを覗き込んだ。
画面上では小さな生物が画面上のアイコンをチェーンソーらしきもので破壊していた。
バラバラにされたピースが画面左端に寄せ集められていた。
小さな生物はまだ破壊活動を続けていて、ごみ箱のアイコンに切りかかろうとしている。
唐草模様のかぶりをしていて、泥棒のような出で立ちの割に中々のチェーンソー捌きだ。
「ウィルスよねこれ?」
仁科が同意を求めるように哲原にすり寄った。
「そうみたいですね……早速処理したいと思います。宜しいですか?」
「お願いしますわ。」
仁科は依然としてピッタリと哲原の横に陣取っている。
「処理方法は当社の企業秘密になっております。しばらく席を外していただけないでしょうか?」
「あらそうなの?わかりましたわ!どれくらいかかるのかしら?」
哲原は澱みなく答えた。
「五分ほどです。」
「あら、早いのね。では、のちほど!」
通常ならプライバシーの云々がある筈なのだが、仁科は疑問を抱くことなくドアの向こうに消えた。
仁科が戻ってこないのを確認すると哲原は画面に向かって小声で呟いた。
「ユーセン君。ご苦労様。もういいよ!」
その言葉を聞いて画面上の生き物は動きを止めた。
チェーンソーも最後に一度ブーンと唸って止まった。
小さな生き物は唐草模様のかぶりの結び目をほどいた。
被りの下から赤い兜と丸みをおびた角二本が現れる。
「ふー疲れたぜ!」
ユーセンは額の汗をぬぐった。
「おいらの変装はなかなかだっただろぅ?」
「そうだね。仁科も気付いてないみたいだった。」
ユーセンは誇らしそうに胸を張った。
「テツの演技も中々だったぜ!」
哲原こと牧原は良かったと一安心する。
「ユーセン君、アイコンはどこやった?」
「ここにあるぜ!」
ユーセンが台車に乗せたアイコンを画面の端から引っ張ってきた。
台車に乗ったアイコンはどれもバラバラになっていないし、傷ついてもいなかった。
「さっさと戻しちゃおうか。」
「あいさ!」
会話を聞いて分かるように、なにからなにまでヤラセだ。
仁科のパソコンは端からウィルスに侵されたりなどしていない。
BONのメンバーである和泉がハッキングして仁科のパソコンにユーセンを送り込み、山城が携帯ネット検索で一番上に『ビー・オー・エヌ』が来るように仕組んでおいたのだ。
仁科のパソコン起動しなくなり、哲原という男がここに来たのは偶然でなく必然だ。
ユーセンはアイコンをもとの位置まで運んで、牧原はアイコンをカーソルでドラッグして全て元の位置に戻した。
「任務完了!あとでなテツ!」
ユーセンはてくてくと画面の袖に歩いていった。
「あとでね。」
全ての動作が終わった時、きっかり五分が経っていた。
扉がノックされる。
牧原は再び哲原になった。
「哲原さん、終わりましたぁ???」
「はい、終わりました。」
扉が勢いよく開かれると、下着と見紛うような大胆な恰好の仁科が登場した。
「暑かったから、着替えてきたんです!」
仁科は手でヒラヒラと首元を仰いだ。
だんだん冬に近づいているというのに見え透いた嘘だ。
仁科は手で仰ぎながら哲原の横まで来た。
「さようですか。処理が終わりました。ご確認ください。」
仁科は牧原の薄い反応に不服そうにしていたが、それくらいではめげない。
データファイルを開く操作をしながら、牧原に密着してきた。
甘すぎる香水の匂いに牧原は思わず息を止める。
仁科は何万枚にも及ぶ写真にさっと目を通す。
データの確認はそこそこに、仁科は満面の笑みで牧原に微笑んだ。
「直ってますぅ!」
仁科はご自慢のプロポーションを見せつけるような体制でお礼をした。
牧原はそれを目に入れないようにして、領収証を発行し始めた。
「確認が済みましたら会計の方よろしくお願いします。仁科様は初回なので五百円になります。」
牧原はすらすらと事務的に言った。
「あら、本当に五百円でいいのね!」
仁科はその場でワニ柄の財布から五百円玉を一枚取り出して牧原に渡した。
「初回限定サービスです。またのご利用をお願します。」
そういったものの、牧原はこのまますんなり帰るわけにはいかなかった。
何とかしてここに長居しなければならない。
セールストークをするためのニセ資料も準備済みなので、何とかそれでここに居座ろうと牧原が考え始めた時、仁科は大袈裟に手を合わせた。
「アラやだ!私ったらお茶もお出ししていなかったわ!一杯いかがですか?」
牧原は内心でガッツポーズをとりながら、悩んでいる素振りを見せた。
仁科は強引に哲原の腕を掴んだ。
胸の谷間をチラつかせてソファの方まで引っ張った。
「遠慮しないで!」
「……じゃあ、一杯お願いします。」
その一言を待っていた。
仁科は満足そうに微笑む。
「良かった!すぐに持ってくるわ!」
仁科は再び扉の向こうに消えた。
再び一人になったところで牧原はふっと肩の力を抜く。
正直ここまで作戦通りに行くとは思わなかった。
あっさり帰らされたら、BONを代表として来た面目が丸つぶれになるところだった。
今牧原の左目越しにリアルタイムで同じ情景を見ている仲間達もホッと息をついている事だろう。
仲間達は牧原一人を敵陣に送り込む事に反対していたが、ここまで来た以上、何か成果を上げて欲しいと思っている筈だ。
しばらくして仁科がトレイにティーカップを乗せてやってきた。
牧原は雇われ人らしく、背もたれから背を離し、姿勢を正した。
「意外です。ご自分で用意されるんですね。」
「まぁね。このくらいは自分でやるわ。」
些細な事でも褒めるのは、もちろん仁科に気に入られるように。
仁科は男好きだが、自分の不利益になった時はアッサリと切り捨てる。
一緒にいて悪い気をさせないというのは第一条件だ。
ボロを出さないように。
牧原は上手く騙せていることで表に出ようとする笑みを、必死に押し殺した。
仁科はトレイをテーブルの上に乗せ、牧原の横に腰を降ろした。
完全にパーソナルスペースというものを無視していて、牧原は退きたい衝動をぐっと抑えた。
仁科はツンと胸を張り、足を組んで見せた。
自然な動作が出来ていると思っているのだろうか?
牧原は騙されたフリをして、出来るだけいやらしい目で仁科の足を眺めた。
仁科はその視線を楽しんでいるようだった。
仁科は『哲原』が、完全に好意を抱いていると思い込んだようだ。
拒否されるとは微塵も感じていない手つきで、牧原の腿に手を置いた。
「どうしたの?」
仁科は例の如く、前かがみの上目遣いで牧原をみた。
牧原は準備していた口説き文句を口にする。
「失礼ですが……前にもお会いしたことありますか?」
牧原はわざとらしく首を傾げた。
あまりにも臭いセリフで、演技とはいえ恥じらいがある。
しかし仁科には効果てきめんだった。
仁科は腿の上の手を這わせながらほほ笑んだ。
「ないと思うわ……それちょっと古いわよ?」
牧原はニヤリと笑みを浮かべた。
「このネタが分かるってことは、仁科さんも古い映画がお好きなようですね。」
牧原の言ったセリフは六十年も前の映画のセリフだ。
「えぇ、まあね。」
仁科は笑って頷いた。
彼女は全身をロボットに作り替えたサイボーグだ。
彼女の時はその映画が上映される少し前から止まっている。
社会現象になったらしいその映画を、仁科はリアルタイムで見ていた筈だ。
『前にもお会いしたことありますか?』は主人公がナンパするときに使った決め台詞なのだ。
仁科はニヤツキを抑えようともせず、牧原と距離を縮め、ピッタリと身を寄せた。
「ねぇ、さっきから気になってたんだけど、その頬傷どうしたの?」
仁科がガーゼ越しに触れる事で、忘れたはずの痛みがぶり返ってきて叫びそうになる。
グッとこらえて哀愁を誘うような表情を作った。
実は仁科がこの傷の話題を出すのを待っていたのだ。
「十二年前にできた傷です。もう治ることはありません。」
「まぁ……消せないの?」
「あれから大分経ってしまいましたからね。」
傷を作った直後処置をしていたら今のような傷は残っていなかった筈だ。
あの時はお金がなく、破傷風に怯えながら消毒液を垂らすしかなかった。
「あのときから時が止まってれば、今すぐにでも治したでしょうね。」
仁科はそれを聞いて、満足そうにして背もたれへ体重を移動させた。
ぴったりと身を寄せられていた牧原も引っ張られて背もたれに倒れ込む。
仁科は自分が笑っている事に気が付いていないようだ。
実際に時を止めている彼女は、時間に翻弄されている人間を見て優越を感じているのだろう。
牧原は表情を変えず視線だけ仁科に移した。
「時が止めれるとしたら?」
仁科はふふっと微笑んだ。
社会に出ている大人にしては夢見がちなセリフだった。
牧原は笑みがこぼれそうになるのを必死でこらえる。
正直上手く行きすぎて怖いぐらいだ。
「無理ですよ。」
牧原はわざと突き放すように鼻で笑って見せた。
そして、もうこれ以上触れるなというように、仁科の手を払った。
「ホントにそう思う?」
仁科は決して離さないとでもいうように、牧原に腕を絡めた。
実際腕には結構な力が加えられていた。
牧原は小馬鹿にしたように笑った。
「自信あり気ですね。」
「まあね。」
仁科は小馬鹿にされても構わないようだった。
「じゃあ、みせてみてくださいよ。」
今度は牧原から仁科と距離を詰めた。
「んーどうしようかしら……」
仁科は勿体ぶるように体をくねらせた。
その際に牧原に身体をこすり付けるのも忘れていない。
「ちなみに本当だったらどうする?なにか賭ける?」
牧原は斜め上を見上げた。
「そうですね……さし上げられるものなんて部屋にもありませんからね。」
しばらく考えたフリをして牧原はじゃあ、と提案した。
「もし本当だったら……今の会社辞めてもいいです。」
「えっ?!」
この提案には流石の仁科も驚いていた。
「それでどうするの?」
「仁科さん社長でしょ?雇ってくださいよ。パソコン修理しますよ。」
仁科はなるほどと頷いた。
「裏口入社するつもりなのね。まぁ私の一言があれば不可能じゃないでしょうけど。でもそれってなんだか哲原君に有利じゃないかしら?」
牧原はリゴレ・ルーン入社を望む若者を演じつつ、賭けに負けるなんてこれぽっちも思っていないよう臭わせながら、軽く付け加えるように言った。
「修理以外の事も、結構なんでもできますよ。」
仁科は『修理以外の事』に思いを巡らせているようで、牧原を爪先から頭のてっぺんまで舐めるように見た。
やがて仁科は赤い唇でニヤリと笑う。
「いいわよ。」
牧原は飲み終えたティーカップをお盆に戻した。
「じゃあ、仁科さんが負けたんだったらどうします?俺の方が格段有利な気がしますけど。」
「なんでもいいわよ。自分は会社辞めるんだからそれに見合ったモノを考えて頂戴。」
「強気ですね。」
勝負は見えている。
仁科が勝つので言ったものは手に入らないだろう。
仁科とは初対面ではないのだが、そのことに本人は気づいていないようだった。
そこで正体をほのめかすように、牧原はあえて本当に欲しいモノを言った。
「なら、あなたの瞳を。」
はじめはポカンとしていた仁科だったが、やがて吹き出し、盛大に笑った。
「それも何かのセリフ?!ゴメンナサイ、あなたほど詳しくないの。それにあなた真顔で冗談言うんだもの!」
「冗談じゃないんですけどね……」
仁科は牧原の正体に全く気が付いていないようだった。
そのことに対して怒りとほんの少しだけ寂しさを覚える。
「まぁ、いいわ!」
勝利を確信した仁科は飲みかけのお茶をお盆に戻した。
「早速見に行く?」
そう言って仁科が案内したのはエレベーターの前だった。
先ほど牧原も利用したものだ。
ボタンで呼び出し乗り込むと仁科は上目使いで牧原を見上げた。
「社員も知らない人が多いのよ?今日は特別」
仁科はエレベーターのボタンを順に押していった。
普通に使用していたら絶対にたどり着かない押し方だった。
自分のいる階を含め、上、下も押し殆どのボタンが点灯した。
この方法で社員の目も欺いて会社の下に巨大施設を構えているようだ。
エレベーターが降下し始める。
仁科は哲原の手を取って腕を絡めた。
「怖い?哲原君?」
正直言って怖いがおくびに出さず微笑んで見せた。
もうエレベーターは光が届かないところまで来た。
一体いつまで降り続けるのだろうと不安になってきたら、やっとエレベーターが止まった。
エレベーターが開くと暗かったその場所に明かりがともった。
大きな扉しかない空間にでた。
二人で立つと閉塞感を感じるほどの狭い場所だった。
後ろのエレベーターの扉が閉まると余計に落ち着かない気分にさせられる。
仁科はそんな事知る由もなく、手早く暗証番号を扉の横のタッチパネルに打ち込んだ。
エレベーターにもしも人が迷い込んでもこの先には行けないように、二重に暗証番号を設けているのだろう。
番号を打つのは手馴れているようで、早い動作だったが慌てなかった。
後で左目カメラの映像を見れば分かることだし、視界に入っていれば多少視線を外したって構わない。
この扉の向こうに、永遠の命を作る場所がある。
仁科が入力を終えると、やがて音もなく扉がスライドして開いた。
想像以上に広い空間。
今いる場所の光だけでは全体を照らしだすことはできない。
暗いため一歩踏み出し、中に入ることが躊躇われた。
しかしそれも一瞬のことだった。
仁科が暗証番号を入力したタッチパネルを再び操作した。
するとスーと風が吹くような音がして幻想的な空間に早変わりした。
黄緑色の光が無数に足元から放たれ、それぞれが意思を持っているかのように動き始めた。
その色は最近あまり見なくなった蛍の光を彷彿とさせる。
カクカクと曲がったり、交差したり、止まったりと徐々に闇を浸食していき、部屋を照らした。
牧原は躊躇っていたのが嘘のように、部屋の全貌を確認する前に、自ら部屋へ足を踏み入れていた。
「すごい……」
思わず素を出してしまったが、仁科は不審に思ったりはしていない。
驚いている牧原の後に続いて好きなだけ見て頂戴と言わんばかりのすまし顔をしていた。
光がやっと部屋の隅々まで行きわたり、全貌が明らかになった。
広さはサッカーグラウンド程もあり、まるで電脳世界に迷い込んでしまったような気分になる。
その時後ろで扉が閉まり、見慣れた白熱灯の黄色っぽい光が遮断された。
閉じ込められたと慌てそうになったが、その時仁科が腕に抱き着いてきた。
先程よりもさらに体を密着させ、離しはしないという意思が重みとなって現れている。
「行きましょう。」
仁科のグロスたっぷりの唇が薄暗い中でも光っていた。
「はい。」
牧原が頷きながら答えると、仁科は腕を引いて歩いた。
牧原は仁科が見せようと思っているモノに目を凝らす。
広い空間の中心に一点だけ光の集中している場所がある。
そこに向かって真っすぐ歩いている。
「コレは?」
その側まで来ると仁科が説明をする前に尋ねた。
サイズ、質感共に棺のようで、特におとぎ話の小人達が白雪姫のために作ったモノに似ていた。
おとぎ話というには少々現代的すぎるが、上面が透明なところはそっくりだ。
中には誰もいない。
「これが時を止められる機械よ。ロボットになれば可能でしょ?」
「正確には『自分の』時をですよね?何かの装置のようですが、世界の時間が止まる訳ではありません」
仁科は媚を売るような上目使いをした。
「でも。哲原君の条件には十分じゃない?」
「はい。むしろ世界の時間を全て止めてしまうより理想的です。」
その答えに仁科は目を輝かせた。
腕を抱かれる手に力がこもったので、牧原は素早く言葉を繋いだ。
「でもホントに使えるんですか?その証拠がありませんよね」
「あら、ここまで見せてあげたのに信じてくれないの?」
「こちらは自分の職業がかかっていますからね。」
牧原はさらにこの装置の情報を聞き出そうと踏み込んだ。
しかし、仁科は全く別の方向へと話しをそらしてしまった。
「そこまで言うならどんな風にして時間を止めたか見せてあげる。ここじゃなんだから私の家にいらっしゃい。」
仁科が意味ありげな視線で見上げてくるので、牧原は内心でげっと声を漏らした。
「もう遅い時間です。知り合ったばかりの女性の家にお邪魔するのはマナー違反です。」
硬派な人間を装い言い訳をする。
「もう、そんな気を使わなくてもいいのに…!」
正直証拠も押さえたし、早く帰りたいんです。とは言えない。
しかし、仁科を置いていくのはあまりにも不自然だ。
その上仁科が納得する答えを出すまで返してくれそうにない。
牧原が返答に迷っていると、後ろの扉が開いて誰か来た。
「誰か来ましたよ。」
仁科は邪魔が入ったことに露骨に顔をしかめたが、その人物が確認できる距離になると慌てて腕を離した。
その隙に牧原は再び腕を掴まれないように二、三歩距離を置いた。
「あれ?お客さん。」
その男は頭の上に蝶を乗せていた。
大きな蝶で羽を開いたり閉じたりさせていて、開くとリボンのようだった。
蝶が似合う中年男というのも珍しい。
そもそも蝶が似合う人間なんて言うのも珍しいが、その男のあまりに整った顔は画家が丹精込めて描いた絵のようで、蝶の色彩とよく合っていた。
場所が場所だけにさらに浮世離れした印象が強い。
「こんにちは。」
安藤は客人にニコリと笑って挨拶した。
「ビー・オー・エヌ、パソコン修理部、ウィルス対策科の哲原牧男と申します。」
対して牧原はは仁科に言った自己紹介をテンプレートのように寸分違わず言った。
「あぁっ!」
安藤は突如声を上げて目を見開いた。
藍色の瞳が爛々と輝く。
「な、なんでしょう?」
思わず『哲原』の皮がはがれそうになった。
「君の声、夜中のラジオの人だ!」
牧原は再び。ゲッと心の内で呻いた。
まさか聴いている人間に出くわすとは……
それがよりにもよってこの得体の知れない男。
「あら、そんなことしてるの?」
仁科は意外そうに牧原をみた。
「副業です。」
これ以上興味を持たれないように、素っ気なく返事した。
この声でバレたに違いない。
今度作るのは特殊変声機に決めた。
安藤は声で牧原を見破った割には、その話を広げることは無かった。
牧原としてはありがたいが、少々不気味だ。
安藤は歳の割には子供じみた動作で仁科の顔を覗き込んだ。
「哲原くんと一緒になにしてるの?」
「妬かないで安藤くん!この装置を見せて上げているだけよ!」
仁科は必死に笑顔を作り弁解するが安藤は表情を崩さなかった。
「ふーん。」
どう見ても妬いているようには見えなかった。
「と、ところで安藤君は何しに来たの?」
安藤は怪訝そうな顔をして、棺の上に手を置いた。
「いつもと一緒だよ。」
「そう、定期点検ね!ご苦労様!」
仁科は意味もなく何度も頷いた。
安藤と仁科の間には空しい程の温度差があって、安藤は気にも留めず棺の蓋を外した。
牧原は技術者としてその細部を見ずにはいられなかった。
棺の中には何本かの管。
そのうち数本は良く見慣れた電気を通すもの、見慣れない管は黄緑色で、その色に見覚えがあった。
床に張り巡らされているものとも関係があるようだ。
安藤は背後から視線を感じたのか牧原の方を見た。
表情がないのでいまいちどんな感情を抱いているか分らない。
無駄な事かもしれないが、無言で見つめられる気まずさから逃れるため、牧原は笑みを浮かべた。
すると安藤は眩しい程の笑顔になった。
思わず哲原がたじろいてしまう程だった。
「ちょっと待ってね!」
安藤はおもむろにリポビタンの小瓶を取り出すと、その中身を飲み干した。
最後にまずそうに顔をしかめる。
牧原はその間安藤の奇行に目が釘付けになっていた。
安藤はしゃがんで例の黄緑色の管を掴み先端を入れ、小瓶の中に液体を溜めはじめた。
溜まるまでの短い間安藤は歌でも歌いそうなぐらい上機嫌だった。
溢れるギリギリまで液体をためると管を抜いて、無造作に棺の中に管を放った。
安藤は蓋をしめ、傾けて漏れない事を確認した。
「これお土産。」
安藤は牧原の前に、小瓶を大事そうに両手で持って突き出していた。
やはり子供じみていると牧原はぼんやり思った。
「安藤君、人はそんなの飲めないわよ?というか毒よ?」
なんでそんなもの上げるの?と仁科は不審そうにした。
「平気。きっと正しく使える。」
なぜだが敵に分類されるはずの安藤が昔の恩師に重なって見えた。
山下先生はいつも課題を出すが、基礎的な事と、してはいけない事だけ教えて後は自分でやってみてというのだ。
その代り、できた時には自分の事のように喜んでくれた。
恩師の笑顔が脳裏に浮かんで懐かしい気持ちになった。
「ありがとうございます。」
牧原がそれを受け取ると、安藤は小さく手を振った。
「バイバイ。」
安藤は渡すものだけ渡したら来た道を戻って行った。
安藤の言う通り、牧原にはその使い方が分かっていた。
この色の液体、見覚えがあった。
牧原は確信した。
安藤はMac‐Aの行方まで全てお見通しだ。
今日牧原が『哲原牧男』になりきり、ここへ来た理由も知っているのかもしれない。
「安藤君、急にどうしたのかしら?」
仁科は彼の奇行はいつもの事と肩をすくめるだけで、深くは考えていないようだ。
仁科は安藤がいなくなると再び牧原のもとへ戻ってきた。
「で、哲原君わかってくれた?」
先程の会話が中断されたので仁科は強引に話を戻した。
「ちょっとズルいですけど、あなたの勝ちですね。」
安藤が現れた時は放っておいたくせに、仁科は再び哲原の側に来た。
男なら誰でもいいようでとても分かりやすい。
「いいの?証拠がみたかったんじゃなかった?」
証拠がみたいと言えば仁科の自宅に連行されるのは目に見えていたので、哲原は首を振った。
「いえ。これだけ見せて貰えば十分ですよ。この液体が燃料のような役割を果たしているんでしょう。体を作り変えてこれを使えば確かに時を止められます。」
牧原はキザったらしい動作で小瓶をちゃぽちゃぽさせた。
「これからどうする?誰かに言っちゃう?」
体を作り替える事は、自我のあるロボットを作ることに等しい。
自我のあるロボットを作ることは法で禁止されている。
まさか体を作り替えるという方法で実行するとは想定していないだろうが、仁科のサイボーグ化も含めて違法行為である。
牧原は小瓶をポケットにしまいながら頭を振った。
「まさか。」
牧原は辺りを見回した。
これらは全て永遠の命を作り出す装置だ。
給油するという延命行為で何百年と生き続ける事を可能にする。
「法には触れますけど、誰しも一度は作ってみたいと思うんじゃないですか?」
「あら話が分かるじゃない哲原君!」
仁科は牧原の腕を掴んだ。
「約束覚えてるかしら?」
「覚えてますよ。」
「じゃあ、今日から私の部下よ!早速今日はフレンチディナー!」
ここに来た時と同様仁科は相手の答えを待たず、ずるずると引っ張っていった。
「あいにく贅沢はできない事情が……」
キザったらしい態度を崩さずやんわりと拒否する。
「いやぁね!哲原君の入社祝よ?おごりに決まってるじゃない!」
さすがにお店では料理に異物が混入されたりすることはないだろう。
とりあえず家に連行されないことが分かって一安心だ。
牧原も哲原も家で食事を作って待っているような人はいないので、承諾する事にした。
交流しているうちにこの装置や仁科たちの悪事について知ることも出来るだろう。
「哲原君運転できる?」
「はい。」
「なら運転して頂戴!」
手渡された車のキーのロゴは、誰でも知っている高級車ブランドの物だった。
運転できると発言したせいで仁科の運転手にさせられたようだ。
これからコキ使われる事になりそうだ。




