007 『蒼い炎柱の向こうがわ』
蝋燭の灯りがぼんやりと白い肌を照らしていて、憂いげな赤い瞳がゆっくりと上から下に視線を送る。
細くて綺麗な指が、年代物の羊皮紙を丁寧にめくる。
やがてこちらの視線に気付いた女性は、頬を緩ませて美しく微笑んだ。
――まぁ、お母さんを追いかけてきたの? 本当に好奇心旺盛な子ね?
――お母さんのお膝にいらっしゃい。
――重くなったわね。髪もこんなに伸びて…。
――え? どうしたの? 誰かに苛められたの?
――泣いちゃダメ、あなたは未来の魔女なのよ。お母さんの跡をついで、一族のみんなと一緒にこの天樹海を守っていくの。
――ふふっ、お母さんはね、引退するわよ。だって、こんなに可愛いらしい魔女さんがいるんですもの。やっと子どもを宿せたんだから、あとは老いていくだけよ。
――あなたの成長が止まる頃がお母さんのお肌の最盛期ね。あぁ、お母さんもおばばのように皺だらけになっていくのね……、あ、これおばばに言っちゃだめよ。あの人はこの一族で最年長なんだから。
細い指が、髪にからまりながら頭皮を撫でる。慈しむように、そっと、壊れ物を扱うように指をすべらせ、ぶるりと体が震える。
――あ、泣き止んだね。……ふふっ『ケロベックの姫』って知ってる? ……この絵本はね、人間の世界にあったシリーズの一つなのよ。このあいだ、こっそり買ってきちゃった。
――おばばには内緒ね。人間の住む世界に行ってるって言ったら、おばば顔を真っ赤にして怒っちゃうからね。
――魔女の約束って知ってる? 左手出して。……そう、お母さんの右手と絡めて、お母さんのほっぺにちゅって。ほら、恥ずかしがらないの。…………よくできました。じゃあお母さんもね。
――これでおしまい。ほら、おばばのところに戻りなさい。どうせ、魔法の練習が嫌になって抜け出してきたんでしょう? おばばは厳しい人だけれど、教えるのはとても上手な人よ。
――さあ、行ってらっしゃい。
母は、儚げな女性だった。
私の白雪髪よりも綺麗な発色をもつ銀髪に、私よりも赤々とした綺麗な瞳。慈しみを持った微笑みを向けられると、思わず吸い寄せらせてしまう……。
よく母に甘えていた。なにをしていても、微笑んで迎えてくれる母が大好きだった。
でも――
消える……。
波紋が広がって、温かい蝋燭の灯りと穏やかな女性の微笑と、埃っぽい匂いとともに書庫が消えていく。
顕現するのは蒼い炎。ものすごく遠いところで、それでも天を突かんと高くあがる火柱を、大樹ノアから見ていたときは、なんと美しい光だと魅入った。すぐさま誰かに、大樹ノアの深部へ行くよう手を引っ張られたけど、最後の最後まであの美しい蒼い炎を目に焼き付けようと、何度も何度も後ろを振り返った。
ノアの各部屋には、一族の誰もいなかった。
すっからかんになった部屋を通り過ぎて、誘引する小さな妖精になぜと問いかける。
――おぬしはな~んも悪くない。悪ぅわけがない。それでも儂は、おぬしには厳しいことを言うやもしれん。
何を言っているのか、よく分からない。もっと分かりやすく言って。
――どれだけおぬしに嫌われてもよい。儂はお主を隠すのに手一杯じゃった。儂の実力は、しょせん魔女の娘一人を、大樹とともに隠すだけしかできなかったんじゃ。それでおぬしに未来永劫嫌われても、軽蔑されても……よい。儂はミルフィを救えなかった。
分からない。分からない分からない分からない、分からないよ。
何を言ってるの? 何が起きてるの? お母さんは…………どこに行ったの?
――強くなれ、気高くあれ。たとえ孤高の魔女であろうとも、おぬしはミルフィの娘、絶対唯一の娘じゃ。幾多の困難に巡りあろうとも、おぬしは誇りを忘れるな。泣くな、立ち上がれ。儂はいつでもおぬしとともにある。
ねぇ、答えて。答えてよ。答えてよ……!
視界から、薄く靄が引いていくような感覚。
目を開けたと同時に、右腕が痺れたような嫌な不快感を味わう。体を起こしてみると、いつもの毛皮マットと羽毛布団……ではなく、藁マットと藁布団という何とも前時代的なベットで寝かされていた。
どうやら洞窟、いや小部屋にされた洞穴の一つらしく、蝋燭の灯りだけが申し訳程度にそこにある。
見覚えのない部屋だ。大樹ノアの内部には確かにいくつもの小部屋、壁に大理石をはめこんだりして補強はしているが、このように前時代のような佇まいをしている部屋はなかったはず。
――しかも、藁って。温かみないし、髪につくし、なにより寒いじゃないの。
一応、私の体にはコートが被せられているが。
というより、なぜここにいるのだろうか。
アリエルに無理やり連れ出されて、ピクニック道中にレベル5の魔獣に遭遇して、魔力が少ないにもかかわらず大技の転移魔法を使ってしまった。
そのあと、何が起きたんだったかしら?
……しきりに「眠い」とアリエルに言っていたような気がする。そのあと……睡魔に負けて、いや……睡魔だけじゃない、体に走った悪寒に耐えられずに意識を手放してしまった、という感じか。
我ながらであるが、なんと貧弱な体であろう。魔力切れでもないのに睡魔に負け、炎を見た拒否反応で意識を手放す。これはまた、自分の反省記録に付け足さねばならない部分だ。
これまた自己嫌悪の渦の飲み込まれそうになったとき、ふと私はアルセルタのことを思い出した。
ヒヒ顔の巨体は決して可愛いといえる容姿ではなかったが、浄化の魔法を浴びた際の激痛は想像を絶するもの、可哀想なことをしてしまった。
あの痛みはジジイの指南を始めとした様々な経験から知っている。同じ瘴気をもつ存在にしかあの痛みは分からない。だからアリエルが知るはずもない痛みだが、だからといって私を守ろうと魔法を放ったアリエルを責めることはできない。
最終的には、やはり私の実力不足、魔力の練度不足が招いた結果なのだ。
「アルセルタには後でお見舞いにでも行った方が良いかもしれないわね……」
殴る蹴るといった外傷は私も魔獣もすぐ治る。心臓への致命傷がないかぎり、たとえ足がもげたとしても数日で完治するほどだ。ただ浄化の魔法は、体を守る瘴気をとかすだけでなく、体を構成する瘴気までとかし、噴き上げる炎で自身を痛めつけるのだ。
「さて……と」
ともあれ『目覚めればそこにいる』と称されるアリエルの姿も見えないし、ここがどこなのか分からないし、とりあえず部屋? 洞穴?から出ることにしよう。
洞穴を出ると、土壁で練り固められた通路が広がっていた。後ろを見ても通路、前を見ても通路。さっき出てきた洞穴のような部屋がいくつもあるし、地面の隅には何やら小さな虫たちが行進しているし。
――け、毛虫……なのかしら。
瘴気を持っていないということは、ただの虫なのだろうが、のたくり回りながら行進する姿は百歩譲っても可愛いと言えまい。しかもなんだこの数は。後ろの方までずっと続いてやがる。たまにチラッ、とこっちを見てくるのは気のせいではないはず…。
「おまえたち、どうしてこんなところを通っているの?」
…………もしかすればいま初めて毛虫に話しかけたかも。
「…………」
まぁ、返事が来るわけがない。虫に意思を伝える波長はないのだ。例えあったとしても、聞き取れないくらい小さなものなのだろう。
『――その子たちは、ここを通ってウブの木に行くのサ。そこで越冬するんだよ、賢いやつらなのサ』
一瞬、この毛虫から声が発せられたのかと思ったが、そうではなかった。
隣で、いつの間にか妖精が地面に座り込んでいた。