006 『ピクニックってハードボイルド』
「――――ッ硬!!」
表皮手前にある「何か」を叩き上げると、拳に鈍い痛みが走った。
瘴気壁だ。瘴気をもつ存在ならば体を守るために作ることがほとんど。通常の攻撃を減殺し、体を守る役割を持つ。
この瘴気壁を無効化する方法は主に二つある。
一つ目は、アリエルも使える浄化の魔法だ。これは瘴気に対して圧倒的なアドバンテージがある。
二つ目は、より格上の瘴気を干渉させることで、瘴気壁自体を無効化するというもの。これ、言うのは簡単だが私はできない。魔女の瘴気が強すぎるため、生態系に与える損害への懸念が捨てきれないからだ。
たとえ微量でも、魔女の瘴気濃度は魔獣の比ではない。
「数で当てりゃあ文句はないでしょ――――《ガリットシュペア》」
左右に何十もの岩を飛翔させると、憤慨のようすを示したアルセルタが筋骨隆々たる腕をもってして薙ぎ払う。……あぁ、いとも簡単。レベル1くらいならあれでも串刺しにできるのになぁ。やっぱりレベル5って面倒だわ。うん。
どすんっ、とアルセルタが地ならし。
長い腕と短い後ろ足の四足歩行での突進がくる。意外に速いスピードだが、避ける必要はない。
「魔女が精霊の力を借り魔法を行使する存在である前に、結界使いであることも忘れないでちょうだい」
魔獣のまえに立ったとき魔女は気丈であらねばならない。苦手な物理結界を根性で支えている理由はまさにソレであった。
自分の魔力の練りがモノをいう三種の結界のうちの一つ、物理結界は未だに苦手意識を引きずっているが、こんなところまでそんなことは言っていられない。
アルセルタの体が結界と衝突し、勢いそのまま弾き飛ばされるのが見えて内心安堵の息をこぼす。
――よかった割れなくて…………、魔力がなさすぎて結界が消し飛ぶんじゃないかと思ったわ……。
安心するの束の間、後方に吹き飛ばされたアルセルタは重低音の咆哮をあげたあと、口と鼻から紫色の瘴気を辺り一面に噴き散らした。
「他人の瘴気なんて吸い込みたくないのだけど……」
魔法紙もなく、無詠唱魔法も効果が薄い。となれば残り方法はただ一つ、この場で魔法式を書き上げることだが、書いている最中にやつの往復びんたやらアームハンマーがくるのは必中だろう。
はてさて困った困った。
と、いつのまにやら、推定一メートルの巨腕が目前に迫っていた。
避けるか、物理結界を張るか、コンマ一秒ほど迷っていると――
『 Wir bete dem Xes arlo,...eine hute jim 』
耳に心地よいフレーズ。妖精族が魔法を放つときに用いる詠唱だ。
やっぱり避けよ。振り下ろされた太い腕を避けて、そのまま腕伝いに登り、そのままやつの背中に一蹴り浴びせてから向こう側に着地する。
見れば、視界は相変わらずよくないが、推定三十メートル先にアリエルがいて、いまちょうど水の精霊との契りを終える。アリエルの魔法が発動した。青色の輝きが一度天空に向かって放たれ、直角に折り曲がってアルセルタの頭上で停止する。
『おイタをする子は、めっ、ですよ!』
ふわわんと可愛らしく振りまかれる光の粒子が、一瞬眩く光ったと思えば、すぅと消えていく。
果たして何の魔法なのか、あいにく状態異常魔法とは相性の悪い私には分からないが、何か変化するだろうと思ってその時を待つ。
『…………』
「…………」
アルセルタが自身の体――脇の下、腕、手などを見てどこか異常がないが確認しているが、待てども待てども変化は表れない。
『――ま、こういう時もありますって!!』
「笑ってる暇があったら次よ次っ!」
『は、はいっ!』
ドスンッとすぐ真横に腕が降りおろされた。そこに頭蓋があったのなら一撃で粉末状になっていただろう。怖い怖い。内心「わー」だ。自身の膂力だけでこの威力。あれ、結界なしで受けたら骨が粉砕されそう。痛そう。そしたらどれくらいで再生できるのかしら。実験したくもないけど。
『 Wir bete dem Xes arlo,...eine hute jim 』
再びアリエルの詠唱。二秒ほどかかってアルセルタの体を青色が包み、光が弾ける。
『…………』
「…………」
さて今度は。黒妖精族お得意のデバフ魔法、そのなかでも抜きん出る才能をもつアリエルだ。例え相手がレベル5とはいえ、今度こそは何か変化が現れるだろう。
「……」
『…………。筋肉を弛緩させたんですけど……。効いてるのか、効いてないのか、分からないですねぇ……』
「……まぁ、たぶん、効いてるんじゃない? 攻撃力が下がってるかも」
攻撃力が下がっているかどうかを試す義理はないので、横薙ぎに払われる腕を避ける。
せめてこう、分かりやすいデバフだとありがたい。あまり効いてるのか分からない。というより効いてない気がする。……効いてないね。
悪いことに、避けられ続けたことを怒ったアルセルタは、息を吸い込んで胸を膨らませると、細氷をまじらせたブレスを吐きだした。
「っ…………!」
避けきれないことを悟り、最小限の物理結界を張る。ブレスが弱まったところで、迂回しながら体に迫る。風に任せるまま高く跳躍してアルセルタの頭上をとると、体を回転させながら渾身の踵落としをお見舞いする。針のような剛毛が硝子のように砕け散り、軽くへしゃげた体に一発強烈な蹴りを入れ、十メートルほど吹き飛ばした。
しかし、やつは体を球体にして勢いを殺さず、大回りしながら大車輪となって落下中の私へ迫る。
予想を上回る速さだ。魔女とのじゃれあいでも、ここまで本気にならなくてもいいんじゃない?
とっさに物理結界を張るが、圧倒的質量とスピードとの掛け技で、踏ん張りの利かない体は、弾かれたように吹き飛ばされる。あまりの衝撃で息をするのを忘れた。風圧と一瞬の衝撃だけで骨が折れたんじゃないかと思うほどに。
それでも何とか風魔法で地面とのキスは防ぐことができた。が、体勢を立て直すタイムロスのせいで、見上げた先に太い腕が迫っていた。
「言うこと、聞けっての…………っ!」
再び苦手な物理結界の展開を余儀なくされる。
やつのアームハンマーに容赦の文字はなく、その重みで潰されてしまいそうだ。
アルセルタは、すでに私が魔女であることを理解している。理解しているからこそ、こいつは攻撃をやめない。これはレベル5に見られる特有の現象だ。
ある意味当然。母には土水火の精霊を自在に操る能力があり、魔獣たちからも絶大な信頼を誇っていた魔女だったのに対して、その娘はどうだ。火の精霊にはことごとく嫌われ、強い魔獣を従えることができない。魔獣が、私を格下として見るのも時間の問題であった。
と――。
一度ではこの結界を破れないと悟った雪だるまは後方に跳び、距離をとった。
紫の瘴気が、さらに暗い紫へと変化していく――
「くそダルマ、大人しく山へ帰れ」
前衛となる盾役がいないときに魔法式を描くのは勧められる行為ではないが、瘴気も蔓延してきたところだし、仕方あるまい。
両手を使って真円を描く。指がすべると精霊の発光を伴って帯が伸び、ただの図形が意味を得た。
さらに魔法言語を付けたし、魔法式全体に方向性と正確性を与える。
三つの陣のうち二つ目に取り掛かる最中に、雪だるま改め、くそダルマが氷の礫を飛来させながら大車輪となって迫った。地面の雑草を刈り取りながら猛烈なスピードで迫るやつの攻撃に、空中に描き始めた魔法式は移動不可ペナルティを持つので、私は移動できても魔法式は動かせない。また、何かの拍子に崩れてしまう脆いなので、私も動けない。
残り十メートルのところでアルセルタが大きくジャンプし、格納していた手足を出すと、上体を大きく反らしてから巨腕を叩きつける。
ズォンンっ…………っ!!
物理結界と渾身の殴打攻撃がぶつかりあい、相殺しきれなかった威力が波動となって辺りを揺らす。
頭上に展開する物理結界、両手では魔法式作成――――という我ながら恐ろしい集中力を見せているが、ただでさえ不安のある物理結界だ、すでに私に余裕などいう文字はない。むしろ、こちらがおされている。
物理結界が瘴気のエネルギーによってじりじりと削られるのと、魔法式における最終段階に入ったのがほぼ同時であった。
ピシッ……。
結界が、割れる――――!
『 Wir bete dem Xes arlo,...eine hute jim,Hexe verteidien eine Hazt 』
襲い掛かる重みが一気に弱まったと同時に、視界の端で蒼い輝きが走る。
アルセルタの体を覆う蒼色の炎。清浄で美しいコバルトブルーがアルセルタの瘴気壁をとかし、その体をさらけ出していく。燃える炎は確実に殺す冷徹な気配を備えていた。
……あれは、浄化の魔法だ。
魔獣にとって自分を守る壁である瘴気をとかし、その際の猛烈な拒絶反応で炎を噴く。
そしてまた、その炎で身が灼かれる。
一瞬だけちらりと視線を寄越すと、アリエルが申し訳なさそうな顔で私を見ていた。
はたして今の私は、どのような顔をしていたのだろうか。
後から思えば、体に駆け巡った本能的な悪寒を押し隠すために、なるべく炎を見ないようにしていたのだと思う。今はただ、魔法式完成へ思考を一極集中させていた。
アルセルタが悲痛な、切ないくらいの咆哮を高々とあげた。
耳を塞ぎたくなるような叫び声。
痛い、痛いよね。苦しいよね。熱いよね。息ができないほど、とっても熱いよね。
知ってる。全部知ってる。分かるよ、その気持ち。熱くて熱くて、そして怖い。
――ごめんね。
「………………ッ!」
それでもさすがレベル5と言うべきか、まき散らしていた瘴気を寄せ集め、上から炎ごと抑え込んだ。アリエルの浄化魔法に勝ったということだろう、拒絶の光が消えている。
アルセルタの目に狂気が宿った。
怒りの矛先がアリエルへと変更され、氷の礫とともに瘴気が噴射。まっすぐな憎悪が襲い掛かる。純粋に、恐怖を与えたものへ向けられる怒りを咆哮にのせて。
――――……帰りなさい。
「転移魔法」
指を滑らせて、最後の文字を描き上げた。
自然現象のなかでも最高位魔法たる転移が、空間をゆがませながら標的物を捉え座標を決定する。
大量の精霊を消費した証である光が、アルセルタを中心として爆ぜた。
紫色の瘴気が……徐々に晴れていく。