003 『言質をとるとはこういうこと』
ともあれ、外に出かける準備を着々と進行していると、巨大サナギから巨大蝶が羽化した瞬間を初めて見たときのようにあんぐりと口を開けて驚いていたアリエルが、突然思い出したかのように私の眼前に迫って来た。
『ぴ、ピクニックに行ってくれるんですか? 本当に? 夢じゃないですよね? ルゥお姉さまはこの時期、いつも「寒い」とか「怠い」とか「眠い」とか言って、クマさんもびっくりの超長期間冬眠状態に入りますよね』
「まぁね、仕方ないから行くだけよ。……それに……その、熊さんもびくりする超長期間冬眠を、邪魔してくれたのは、……どこのどなたでしょうねぇ……」
『冬期にお出かけなんて久しぶりですね! とっても楽しみです』
「……。聞いてないし」
大樹を守るのが私の役目だが、なにも常日頃から張り付いているわけではない。半ば強制的に拉致られて広大な樹海を探検しにいったりもするのだ、私でも。岩の裂け目から湧き出る水を飲みに出かけたり、魔獣たちと交流をはかったり、ちょっと遠くにある洞窟に棲む半人半獣の王に首輪をかけて散歩してみたり。それでも引きこもりであることには変わりなく、天樹海のほとんどを知ってるわけではないが。
アリエルの言う通り、冬期のお出かけなんていつ以来だろう。少なくともここ数十年は、冬期になって出歩いたことがない。
指折りそんなことを考えながら、根と根の隙間を通り抜け、よごれた鉄骨に手をかけて樹の外部へと身を晒す。しんと静まり返る、おそろしく冴えた冷気の刃が私の頬を撫でた。
「さぶ……」
神速でフードの裏地に顔を突っ込む。忘れていた、樹の内部と外部では気温が全然違うことに。
巨木の葉先に霜が降り、枝から連立する細長い氷柱や、薄闇のなかで細氷が乱反射して輝くさまは、確かに冬期ならではの美しさだ。この指の先に血が通わなくなるような寒ささえなければ、ここから踵をかえすこともなかったろうに。
『ちょ、ちょっと!? 冬眠中のシロクマさんが一年ぶりに起きてきた、並みの感動をアリエルは味わっていたのに、どうして中に戻ろうとするんですかぁ。ピクニックに行くんじゃないんですかぁ。ピクニックぅ』
「熊が一年も冬眠するかどうかは知らないけれど、私は熊さんじゃないし、それに眠いからだし、寒いからに決まってるし、ピクニックなんて冬期を過ぎてからでもいいし、あと痛いから耳を引っ張らないでちょうだい」
『今だからこそのピクニックです!』
「やっぱり行かない。というより行きたくない。寒すぎる、イヤ、ムリ」
『さぁ元気を出して! 気合を入れれば大丈夫です!!』
ぐいぐい引っ張られ赤くなっていく耳に熱を感じながら、めげずに体をひねったりして引きはがそうと試みるが、これが意外としぶとい。
『ピクニックに連れてってくれるまで、アリエルはずっとこうしてますから』
私の尖った耳を犬の手綱のようにつかむアリエル。腕を組まれるとさらに耳が引っ張られ、よろけそうになる。
「世話役の分際で、よく大口叩けるじゃないの」
『その世話役をぞんざいに扱うのはいかがなものと思われます』
「世話役ならもうちょっと主の意向を確かめるべきじゃない?」
『主ならたまにくらい世話役のことを気遣ったらどうですか』
「私は魔女よ」
『唯貴独尊は何十年か前に引っ越しました』
「なんでそんなにピクニックに行きたいの」
『行きたいからです』
てこでも動きそうにない。なので、ため息交じりに頭を軽く振ると、遠心力でアリエルが吹き飛ばされそうに……。
『ひやぁああああ』
私の顔がもとの位置に戻ると、小さな悲鳴が止んだ代わりに責めるような目。
再び私が顔を振ると、さきほどと同じ出来事が。
『ぴやぁああああああ』
それをあと三回ほど繰り返したあと、眼を回したらしい……ふらついたアリエルを、中指と親指で弾き飛ばした。――――三秒で戻ってきたけれど。
『なにするんですか!?』
「……なんか面白いなぁと思って」
『ぬぅ』
りんごのほっぺをさらに真っ赤にさせて、涙目でアリエルが睨んでくる。そのまま、出るわ出るわ泉から湧く水のような言葉の羅列。よく噛まなかったな。
『だいたいルゥお姉さまは一年でも二年でも十年でも寒い時は眠っていられますけどねアリエルちゃんはこんな寒い間でもお外を駆けずり回って動物さんたちと談笑を交わしながら親睦を深めまたあるときには敵対し始めた魔獣同士の争いに介入し抗争状態から和解へと導いているんですからね!!」
カチンときた。
「はぁ? 熊さんだろうが人食い狼だろうがどんな生物でも寒い時は大人しくしてるものよ。ノアの休眠期間中であることも忘れて外へ出るほうが異常なの。雪国生まれでもなければピクシーだって冬眠するわよ」
『アリエルはルゥお姉さまのことを思ってやっているんです!!』
「魔女は一族経営よ。そんなこと頼んだ覚えはないわ」
くるくると髪の毛を指の先端にまきつける。
あぁ、毛先が傷んできたわ。ストレスかしら。それとも破魔料理を食べさせられた副作用かしら。私じゃなくて魔獣に食べさせればいいのに。魔女に効くんだから効果覿面よ。私が保証するわ。いくらアリエルでも仲良くなれない魔獣だってたくさんいるんだし。
と。
『アリエルはぁ……っ、アリエルはぁ!!』
――な、泣くの!?
ちょ、ちょっと待ちなさいよ。私何かした? うん、したわね。キツい言い方なんて生まれながらよ。性格が捻くれてるなんて自覚済みなのよ。だからってね、泣くことないんじゃない? 別にアリエルの涙が苦手って訳じゃないのよ。本当よただ他人に泣かれた経験が少ないってだけよ。
『おたんこなすぅ! ルゥお姉さまはどうしていつもそうなんですか!? なんで寒いのがそんなに嫌いなんですか!? ピクニックに連れてってくれるまで、アリエルはずっとここでこうしてます!!』
黒曜石の瞳に大粒の水を溜めこんだアリエルさんは、私のアホ毛立った頭をぽこすか殴っていらしゃった。ぽこぽこと可愛らしい音を発するのは加減しているからだろうが、ただでさえ寝起きでアホ毛立った髪がさらにぐしゃぐしゃになっていく。
『うぅ! なんで、ルゥお姉さまはアリエルのことが嫌いなんですか!? 嫌いならそうはっきり言ってくださいっ!』
「嫌いとかは別問題よ。ただ寒いのが嫌なだけ。寒いなかピクニックに行くなんて、やーよ」
涙をごしごしとぬぐったアリエル。けれど、私が嫌いだと言わなかったからホッとしたのか、涙の勢いは弱まる。このまま泣き疲れて眠ってくれたら、風の魔法でアリエルの住む村まで送ってあげるのだけれど、そうもいかないらしい。
『でもさっきは、行ってくれるって言ったじゃないですか。あれは嘘だったんですか? 嘘吐きは最低ですよ! アリエルは嘘吐きは嫌いです!』
「そ、それは……」
『ばかばかばばかぁあ! アリエルがこんなにもお願いしているのに聞き入れてくれないルゥお姉さまはおバカさんなのですぅ! っぐ、ひぐ、…………ルゥお姉さまが眠っている間は、アリエル独りぼっちなのです……』
「………………あぁもう! 分かった、分かったから!! 行くわよ、どれだけ寒くても行ってあげるわよ!!」
『やったぁぁあああ!! 言質を取りましたぁあああああ!!』
涙はどこへ消えた。
それはもう心底嬉しそうな晴れ晴れとした笑顔とともに、私の眼前で高々と拳を振り上げる。昨今の憂いは絶たれた、とも見える表情の変わり具合に、今更ながらこれがアリエルお得意の「泣き芸」であることを思い出した。
してやられた、と残念な顔を見せる私であるが、それでも内心、少しホッとしているのも事実だ。
本気で泣かれてしまったら、どうすればいいか皆目見当もつかない。
事実、アリエルとの大喧嘩の際は本当に困ってしまったものだ。自分の意見を通したい自尊心の高さが邪魔をして、仲直りのきっかけをなかなか作れなかった。あのときはアリエルが先に私との距離をつめてくれたので事なきを得たのだが、今回もそうなるとは限らない。
――と、心中ドギマギしている私は、軽くかぶりを振って思考を戻す。
「まぁ、行くのは行くけど、アリエルも寒くないの? 私はコートがあるけど」
飛び回るアリエルの姿を追いかけながら問うと、アリエルが急ブレーキをかけてこちらを向き直った。
『大丈夫ですよ! アリエルも、ルゥお姉さまに負けず劣らずもっこもこの服を着込んできますから! 待っててください!』
びゅーんとコミカルに飛んでってびゅーんと帰ってきたアリエルが、妖精サイズのコートに身を包んで胸を張っている。毛皮はボンダで裏地はメーヤの羊毛か。裁縫の腕前はさすがというべき妖精族だが、私の芸術的センスからするとよくいえば普通、悪く言えば地味という点は否めない。
比べてみると私のコートはもう少し意匠が凝らしてあって私好みな――――
『よしじゃあ、行きましょう!』
思考を中断させるような、そんな弾んだ声が響き渡る。
服が作るのが好きな私は、しばらくアリエルのコートをじっと見つめていた。