020 『氷ノ王者ハ悲嘆ニ叫ブ』
崩れ落ちていく少女の体は、まるで氷のように冷え切っていた。
意識が朦朧としているのだろう。声を出したくてしばらく口の開閉を繰り返していたものの、だらりと頭から力が抜けていく。その体を支えるダイサンボクは少々意外そうな顔をみせたあと、ルーファティの右手に蛇のように絡まりつく杖を見やった。
『このベルチェ、魔女の魔力を蓄え過ぎたか……』
器用に片腕でルーファティの腰を支え、もう片方の手はベルチェに添える。
『長い間ご苦労さんであった、ゆるりと休め。再び私が、この手で作り直してやろう』
地面に叩き落された異形の杖は、そのまま灰となって消えていく。
大昔のことでも思い出しているのだろうか、ダイサンボクは思案にふける表情をしていた。
「……その人、大丈夫なの? 死んでない? ちゃんと、生きてる……?」
ルイスはおそるそる二人に近づいた。声に若干の震えが走ったのは、あの少女に殺されかけた記憶が走ったからだ。
『冬眠前じゃからな。かなり疲弊しているようじゃが、ちゃんと生きておるよ。……ルイス、おまえさんのおかげじゃ』
「僕、ほとんど何もしてないよ」
『いや、確かに精霊はおまえさんの声に反応していた。おまえさんの存在が精霊を解き放ち、そしてルーファを助けることができたのじゃ』
「そう……なのかな」
少し照れくさそうにルイスが頭を掻く。
そのとき、ダイサンボクに抱きかかえられた少女が目を開けた。放心したように視線を漂わせている。
見れば見るほど、さっき首を絞めて殺そうとしてきた少女には思えない。ハッとさせられるほど綺麗な赤いトルマリンの瞳に、白い肌、薄い桃色の唇。銀よりも清楚、純白の雪を思わせる長い髪が印象的な少女だ。
見た目だけでいうと16歳前後に見える。
ダイサンボクの話によると名前はルーファ、そして魔女らしい。
「……助けられたからといって、私はあんたに感謝なんてしない。私はニンゲンが嫌い。……特に、あんたのような黒髪黒目のニンゲンなんて」
「……感謝なんて求めてないよ。精霊のためにやったんだから」
気丈さは変化していないが、その気配に黒く歪んだ殺意はなくなっていた。
ルーファは嫌そうに瞳を眇め、ふんっとそっぽ向く。
「生意気ね」
『生意気なのはおまえさんも変わらんじゃろ。あとでみっちりお仕置きが必要じゃな』
「はぁ? あなたバカじゃないの? もうすぐ冬期、私冬眠前、お分かり? この疲れた体であなたの説教に付き合わされるなんてごめんよ。……それに、こうなったのもあなたが作った杖が出来損ないだったからでしょ? どうして魔女の私物が魔女に反抗するのよ、不良品もいいとこだわ!」
『言ってくれるのぉこのバカ娘! 土の最高位精霊の加護が宿ったベルチェをあまつさえ暴走させ、挙句の果て作り手の私に処分させるとは何事か! おまえさんの不祥事のせいで私の祠もめっちゃくちゃじゃよ、責任とれ責任っ!』
「仕方ないでしょ、もともと杖に嫌われてたんだから!! あと言っとくけどね、元はといえばニンゲンに手を貸すからこうなるんでしょ!」
『私はルイスに惚れたんじゃ! 惚れた男に手を貸して何が悪い!!』
「精霊は性別不詳でしょバカじゃないの!?」
『見た目も女、心も女じゃバカもん! 精霊だって恋もする! 乙女の恋路を邪魔するな!!』
「何が乙女よ何千年も生きてるくせに、ババアじゃないの!」
『おまえさんだっておんなじじゃろ!』
「えーと……、喧嘩はよしてください……?」
『ルイスは黙っておれ!』「ニンゲンは黙ってなさい!」
「……ハイ」
少女二人のいがみ合いは、そのあとアリエルの強制介入まで静まることはなかった。
ダイサンボクとルーファの周りに、茶色い浮遊物体が漂っている。まるで二人の様子を微笑ましく見つめているみたいだ。
……もしかしたら、あれが土の精霊なのかもしれない。
凶悪な顔で絵本に描かれたモノとは全然違う。両親ですら、精霊は魔女の手先だと言っていた。真夜中に街中を浮遊し、子どもをあっちの世界へ連れて行こうとする悪いヤツなのだと。
そんなこと、信じられなかった。
そしていま、確信に変わった。
精霊は悪い存在ではない。あんな優しい光を放つ精霊が、自分を見守ってくれていた存在が悪い存在であるはずがない。
……それではあの少女は? 魔女は、どうなのだろう?
精霊よりも極悪。人間や動物に害をもたらす魔獣を統べる、負の支配者。その瘴気は万物を腐らせ、死に至らしめる。人類はどれほど、瘴気に怯えて生きてきただろう。
「……それも、自分の目で確かめた方がいいかな……」
絵本で言い伝えられてきた精霊が悪い存在ではなかったように。
魔女ももしかすれば、また違った一面が垣間見えるかもしれない。
ルイスはその面を、知りたいような気がしていた。
この白雪髪の持った美しい少女のことを、もっと。
『まぁこの話はここまでにしておくとして。なにはともあれ、私はルイスをこのまま天樹海に居させておく。ルイスにはもう身寄りがない。私も精霊も、もうルイスがここにいることを望んでいる』
ダイサンボクの声に、ルイスの意識は戻される。ダイサンボクはしっかりとルイスを見つめたあと、続けた。
『ルーファよ、おまえさんのいう魔女の掟には、確かに人間の侵入を禁止しておるが、アレは精霊を守るために魔女に枷をつける目的で作られたものじゃ。精霊が害がないと判断すれば、特例として認めても良いのではないか? おまえさんにとっては、純血の帝国人をここに居させるのは良い気持ちはしないじゃろうが……』
『そうですよ、ルゥお姉さま! 不仲からの仲直りはアリエルの得意分野です! ぜひアリエルに任せてください! ルゥお姉さまとルイスも仲良くなれるよう計らいます! もちろんシルフィも手伝います!』
『僕はどっちでもいいけど、アリエルさんが言うのなら手伝ってあげてもいいよ』
若干、シルフィが嫌そうな顔をしたのは置いておくとして。
みんながみんな、ルイスのために説得してくれていることを、ひしひしと感じた。
ダイサンボクを始めとしたみんなに感謝の気持ちでいっぱいになりつつも、ルーファの返答を緊張の面持ちで待つ。小ぶりな唇が、すっと開かれた。
「……あなたたちのバカさ加減に呆れたわ。もういいわよ……、そのニンゲンが天樹海に住むことを許可するわ」
『本当か!?』
「さすがに無条件とは言えないわ。第一に、私の冬眠中……ううん冬眠中以外でも絶対にノアに近づかないこと。第二に、監視役を選出し逐一私に報告すること。この監視役はそのニンゲンに悪意がないことを示す客観的証拠にもなるから、よく考えてちょうだい。第三に、絶対に天樹海から出ないこと」
「質問。……冬眠中って? あとノアって?」
「詳しくは後でダイサンボクに聞きなさい。簡単に言えば、アマサリスの魔女は寒くなったら冬眠するの。そして、ここでいうノアっていうのは天樹海で一番大きな古代樹のことよ。半径十キロ内に入らないで」
「なかなかすごいね……。しかも半径十キロって……」
どんだけ広いんだ。
『おおよそ条件はのもう。特に第三は、私も同じ気持ちじゃな。一度天樹海に入れた人間を外に出すわけにはいかん。なぁに、天樹海はとてつもなく広い……飽きることはないじゃろ』
「その条件をのまなかったら?」
「いまここで死になさい」
本気だ。あの赤いトルマリンの瞳を見れば誰でもわかる。あの少女は、今度こそ本気で殺しに来る。
しかし、びっくりするほど自分は冷静だった。
ダイサンボクの前でみせた生への執着。精霊を知りたい、もっと仲良くなりたいという欲求は膨れ上がってくる。精霊だけじゃない、この世界の神秘をもっと知りたい。
ここなら、自分の知識欲を満たしてくれる。
「僕には、もう失うものがなにもないんだ。僕は死にたくない。生きたい。もっと生きて、もっと知りたい。今まで見てきた精霊を、初めて出会えた妖精を、そして君のことも、知りたい。……僕は、条件をのむよ」
「……そう、それは残念ね。…………こっちに来て」
口の端を落とした少女に言われるまま近づく。ひざまづくように膝を地につけ、シャツをめくりあげられたときは、さすがに悲鳴じみた声が出たが。
筋肉の少ない貧相な腹に、祠の冷気を纏った細くて白い指が這った。しかも、血が出てる。
「あ、の…………これは……いったい……」
「口約束で魔女がニンゲンを信じると思って? ……契約の魔法を身体に刻むのよ。あと……あんた、あんま見ない方がいいわよ。気持ちのいいものではないから」
といっても、目を閉じたら閉じたで感覚が研ぎ澄まされるし、目を開けたら開けたで異様な光景が広がっているしで、どうしたらいいものか。
非常に居心地の悪い思いをしながら、腹に指が滑るもぞもぞする感覚に耐えた。
「もし、さきほど言った条件を偶然または故意で破った場合、あんたの体の中に入った土の精霊が体内からあんたの組織を破壊し死に至らしめる。…………分かった?」
「……うん」
条件は三つ。ノアに半径十キロ以内に近づかないこと。監視をつけられること。二度とこの樹海から出られないこと。
「それを守ったら、生きられる。簡単なものだよ」
「変なニンゲン。普通、こんな恐ろしい森で一生暮らすことになったら発狂死すると思うけど」
「そうなの? ……僕、学校行ってなくてさ、あんまり知らないんだ。家にあった絵本とか、そういう類からしか知識がなくて……」
ルーファの指が止まり、ちらりと赤い瞳に見上げられる。……終わったのだろうか、傷口から染み出た血を指をふき取ると、彼女の口が開いた。
「……どうりで感情が乏しいと思ったわよ。ニンゲンの教育って人格形成に大事なものって知ってたけど、まさかここまでとはね。…………あんたに過保護な連中ならそこに二人もいる。二人に質問すればいい。ニンゲンが当然知っているような知識くらいなら、教わっても構わない」
『好きにさせてもらうとするよ。ルイスが死ぬまで面倒を見るつもりじゃ』
『アリエルも協力します! 妖精のことなら任せてください、みっちりしっかり教えてあげます!』
『……また僕の仕事が増える……』
『何か言ったかのシルフィ。言っておくが、今日はこの祠の修繕作業から始まるぞ。掃除はもちろん酒の相席もそうじゃし、果樹園の土壌調査も残っておるし……』
『げ……』
シルフィがげんなりとした顔でダイサンボクを見やるなか。
いつのまにかルーファは、少し離れた場所で地面を見つめていた。じっと、地面の奥底を見通しているかのように。
土関連でいえば、さっきから何か精霊が急速に姿を消したような気がする。まるで何かから隠れるように。
「精霊が…………なにか言ってる…………?」
ルイスには聞き取れないほどの、声。もっとよく聞こうと耳に手を当てた瞬間、ルーファの腕が大きく振りぬかれた。地面に乱雑に貼りつけられる何枚もの札。あれはそう、シルフィの身動きを封じたものと同じ。
「お抱えのニンゲンを一瞬で腐らせたくなければ今すぐ結界を張りなさいダイサンボク。そしてアリエル、シルフィの二人は結界の内側に浄化の魔法を展開…………、でなければ、このレベルの瘴気は完全に遮蔽できない」
ダイサンボクの即座の反応と、ルーファの真下の地面が大きく隆起し、落石が祠を蹂躙したのがほぼ同時で。
ルーファと少し離れた位置にいるダイサンボクらを取り囲むように、円形状に穴が八か所、突如出現した。地下奥深くから亡者の冷気を思わせる極寒の風が舞い上がり、祠の温度を一気に五度ほど下げる。
瞬間、八か所の穴から濃い黒紫色の瘴気が勢いよく噴出した。
大地が烈火してるかのごとく地が揺れる。
中央部分に大穴が開いていることを確認したルーファは、祠をぐるりと見渡し、目的の物を見つける。さきほどまで大人しく動向を見守っていたアルセルタだ。
「レベル5ならギリ耐えられる。…………試してみる価値はある」
地を這うように疾走し、アルセルタに合図。瘴気の噴出口から不規則にしなり出てきた鞭のような体、けれど大木のように大きいソレが地面を叩きだした瞬間に、アルセルタが猛烈な突進がクリティカルヒット。
びくんっと衝撃に驚いたソレが一度地面に引っ込むが、今度は中央の大穴から人体の背骨を思わせる骨触手が出現し、猛烈な勢いをもってアルセルタの胴体に迫る。
骨触手がアルセルタにのめり込む。棘の隙間にある治りたての傷口のあざ笑うかのように、そこを音速に迫る勢いで突いた。
「いまっ!」
地面に貼りつけておいた魔法紙が輝き、八か所の穴に土の魔法《ガリットシュペア》を叩き込む。
ルーファは内心アルセルタに謝罪しつつ、背後にいるダイサンボクを見やった。
大丈夫、ダイサンボクもアリエルもシルフィも、そしてルイスも無事だ。
「……おいでなすったわね……」
再び、大穴を見やる。
八か所の穴はヤツの体の一部、八つに分かれた尻尾が出入りする口。そこを叩けば、何かしら反応をみせてくれるだろうと踏んでいたが、やはりそう。
大穴から、何かが滑り出てくるような重音が噴き出した。同時に大きな、それは大きな咆哮が、ルーファの髪を、ダイサンボクの結界を、撫でるように響きわたる。
まず、誰もが驚くのはその頭の大きさと迫力だろう。ルーファでさえ、このクラスの魔獣を目の前にするのはまだ二度目であるから、気迫に呑まれそうになる。
ごつごつとした硬い鱗に覆われた爬虫類型の生き物の頭。特徴的なのは、まっすぐ後ろに反った岩のような二本の角と、蛇を思わせる眼が四つあること。ずらりと並んだ鋭い牙が、その生き物が蛇ではなくどこか竜であることを示している。が、大穴から覗いた頭は長い首に繋がっている。
これは竜でなく、様々な種が合体したような蛇だ。
「……おはよう……氷の王者アイスバーグ。400年ぶりのお目覚めかしら……」
天樹海の魔獣の階級はレベル1~5。しかし、この魔獣を含めた六体のみが、一つ上の階級を持つ。
レベル6である。
ルーファはそっと息を吐きだし、吸い込んだ極寒の冷気を飲み下した。




