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013 『ルイスという少年』

 

 時は、一時間ほどさかのぼる……。



 アリエルは風に手伝ってもらいながら、器用に少年を果樹園の奥地まで運んだ。

 等間隔に配置された結界石のゲートに滑り込むよう体を差し込むと、安心したのと勢い余ったのとが組み合わさり、顔から地面に突っ込んでしまう。

 涙と土でまみれた顔を懸命にこすり、なんとか感情が爆発しそうになるのを抑えた。


『泣いちゃダメです! ここは、何としてでも自分の信念を貫くのです!!』


「……うぅ。アリエル……痛いよ……」


『うわぁあるるるルイスっ、ごめんなさいです!』


 ルイスを守ると心に決めていたにもかかわらず、そのルイスの一番の重症ポイント――右腹の上にアリエルは着地していた。いくら妖精が軽いとはいえ、相当な痛みがあっただろう。

 アリエルは慌てて少年に治癒魔法を施した。


『うぬぅ……おじじなら、もっと完璧な治癒魔法がかけられるのに……』


 精霊の力を借りるためには魔力の練りといわれる特殊な集中力が必要なのだが、二種類の精霊と同時に契りを交わす必要のある治癒魔法は格段に難易度が高い。アリエルは苦手としていた。

 それでも懸命に力を込め、段階的な傷の修復に専念する。


『……とりあえず、これで傷口の補強は完了です』


 アリエルはもう一度、ルイスを見た。

 一見顔立ちは幼いがどことなく凛々しさを感じさせる。漆黒……よりかはどこか灰色の入った、寝癖混じりの黒髪に、謎めいた魅力を醸し出す黒い瞳。

 帝国人ならでは……、本当にどこにでもいそうな顔立ちをした少年だ。

 どこにでもいそうな少年から無邪気な笑顔が無くなっていることに、アリエルはとてつもない罪悪感を感じていた。

 あのとき、ルイスの傷を治してどこかの村に置いてくれば……。

 いや、もっと早くあの崖の近くに行っていれば、ルイスの両親が殺されることもなかったろうに。

 無言で考え続けると泥沼にはまっていきそうな気がして、アリエルはとりあえず顔をあげた。


『アリエルは、君に謝らないといけないです。……アリエルは甘ちゃんでした。この世界に、アリエルのわがままで君を連れてくるべきではなかった……、治療だけに専念して、すぐに人里へ帰すべきだった……本当にごめんさいです……』


「……ううん。アリエルは悪くないよ……」


 高く見積もっても十一年ほどしか生きていない少年しては、随分と大人な一言だ。素っ気ない言い草だったが、そこにはアリエルを傷つけまいとするルイスの心優しさが含まれていて、アリエルは自然と頬を緩ませた。


 ――やっぱり、この子は悪い子じゃない。


 妖精族は人間の感情をよく理解する。特にアリエルは、人間の根幹部分の『悪』というものを過敏に感じ取ることができた。ルイスの根柢に『悪』がない。つまり無垢で善良な少年であると判断したからこそ、アリエルはルイスを助け、妖精の村まで運んで熱心に看病を施したのだ。

 

『ルゥお姉さまの、ことは…………恨まないであげてください。無理なことは分かってます、なんたってルイスは殺されそうになったのだから……』


 ルイスの首についた、風によって締め付けられた痕。自分の命が他人に奪われそうになったとき、味わう恐怖は計り知れない。恐怖を与えたものに対して憎悪の感情を覚え、心が闇に喰われてしまう。

 それに、アリエルはルーファティの『つんけんしてるけれど根は優しい、しかも意外に寂しがり屋』という側面を充分に知っている。垣間見える「優しさと可愛らしさ」に普段から触れているからこそ、ルイスに彼女のことを恨んでほしくなかった。


『でも、もし自分の感情が抑えきれなくて、うわぁあああってなったら、ルゥお姉さまではなくアリエルを恨んでください』


「え!? そ、そんなこと……できないよ……!」


『遠慮はいりません! さあ、アリエルのほっぺをぺちんと!!』


「ぺちん……?」


『日ごろの恨み! 例えば、なんで話を聞く前にいきなり殺そうとするんですか!? とか、あのとき結構苦しかったんですよ! とか、なんでそんなに寒がりでピクニックに行きたがらないんですか!? とか、そういう胸に燻る思いがあるのなら、いまこのときアリエルのほっぺに!』


「……途中から、何か関係ない気がするんだけど……」


 どうぞ! という気迫とともに、アリエルが自身のほっぺを突き出す。ルイスはしばらく逡巡していたが、やがて意を決したように、


「ぺ、……ぺちん」


 指の腹でソフトタッチ。思い切りやると可哀想だと思ったのだが、アリエルは優しすぎると憤慨した。もう一回と言われ、おどおどしながらもルイスが再びぺちん。しかしまだまだソフトタッチだ。

 

『むにゅぅ……まだまだですね…………もう一回! もっと男らしく、ぺちんと!』


「え? ……こ、こうかな?」


『そんなか弱い攻撃で、日ごろの鬱憤なんて晴らせませんよ! もし相手との約束事をいきなり破られたら傷つくでしょう? その相手への鬱憤が晴らせないときは、違うものにあたるんですね! アリエルなら料理とかになりますが、ルイスはいま、アリエルのほっぺを叩いてよし!』


 ルーファティに作っていた料理がささやかな鬱憤晴らしであったという新事実はさておき。

 アリエルは鬱憤は他に当てて晴らせと言った。ただ人は恨むなと。

 傍から見ればなんと馬鹿馬鹿しい行為だろう。しかしルイスは、アリエルの頬をぺちんと柔らかく押す中で、確かに心の中のわだかまりが薄れ、次第に晴れていくのを感じた。

 ルーファティに殺されそうになったとき、確かに恐怖した。しかし首を絞められて意識が遠のくなか、ああやっと死ねると、こんな自分とおさらばできると嬉しく感じた。そのとき微かに笑みがこぼれたのだ。

 ルイスはわずかしか生きていないが、すでに嫌なことは散々味わってきた。罵られもしたし、暴力も振るわれてきた。なにより人の視線が怖かった。

 それが、ついに終わるのだ――――と。

 しかしアリエルと再び会話をかわすと、ルイスは自然な笑みを思い出した。

 

「アリエル……って、何か不思議なヒトだね…………あ、妖精さんだからヒトじゃないか……」


『そうですか? 何だか分かりませんけど、ルイスが笑ってくれたので良かったです……!』


 ルイスから負の感情が薄れていることを感じ取ったアリエルが、満足げに頷く。

 ちょうどそのとき、果樹の隙間を縫うようにシルフィが飛んできた。アリエルとルイスの間に割り込み『はぁ』と大きく息を吐きだしたあと、二人の顔を見渡す。

  

『お待たせなのサ。……ん? 二人とも随分と親密そうにみえるのだね、何かいいことでもあった? ちょっと妬けるのサね』


『やっぱりシルフィもそう見えます? ちょっと仲良くなれましたよ、えっへん!』


 沈黙の間を三秒ほど置いて、シルフィはいつものことだと軽く肩をすくめる。これでもシルフィはアリエルに色々と仕掛けているのだが、当の本人は鈍感なのか何なのか思った通りの反応を返してくれない。そこがアリエルのいいところであり、シルフィもそこを余興とばかり楽しんでいるのだが、先のことを考えると少し気の毒でもある。

 ともあれ、


『魔女様は追いかけてきてないよ。たぶんだけど、すぐには追いかけてこないと思うサ。……初めて魔女様に殴りかかったけど、あれが噂の物理結界なんだね……結構本気で殴ったんだけどなぁ……』


『……すぐには……って、やっぱり、ルゥお姉さまはこの子を……』


『目が据わってた。魔女様の無慈悲な冷眼とはまさにこのこと、今度は確実に殺しに来ると思うね。ルイスを天樹海の外に出さない限り……、いや、いま出しても遅いかもしれないのだね。あの魔女様の人間嫌いは相当なものサ』


『そう……ですか』


 予想はしていた。ルーファティは人間の領土侵犯に常に厳しく接している。自ら赴き、まるで断罪するように人間たちを葬っていくのだ。彼女自身はアリエルの前で殺すことはなかったが、アリエルとてべっとりと纏わりつく負の感情と血の臭いに気付かなかったわけではない。

 だから、今回もいつもと同じだ。

 ルーファティ自らルイスの前に出向き、儚い命を奪って土に還してしまうだろう。

 アリエルは、何とかしてルイスを守りたいと思っていた。

 天樹海の外で倒れていたのを、治療するためといって勝手に入れたのは自分である。最後まで面倒を見ると誓ったのだ。この心優しい少年を死なせはしない、絶対に守ってみせると。

 

『さてと、ここからは個人情報の一件もありまして、ちょっくら君には夢を見てもらうよ』


 ここで、アリエルの思考を遮断するようにシルフィが声を発し、何か言うまでもなくルイスを眠らせた。木の根っこに体を収めて楽な体勢で横にすると、改めてアリエルを見つめる。


『果樹園を選んだのはさすがなのサね。でも残念ながらこの果樹園には、魔女様は入ってこれるよ』


 果樹園を囲っている結界石は魔獣避けであって、作り手である魔女には通用しない。人間の匂いは魔獣をおびき寄せることになりかねないので、とっさに思いついた場所がここだった。 


『シルフィ。……アリエル、思ったんですけど……ルゥお姉さまと話し合いがしたいです。ルイスはやっぱり、悪い人間じゃないし、天樹海に入れたのはアリエルですし、話せば何とか……』


 できれば、話し合いで解決したいのが本音だった。しかし好敵手ライバルの首が縦に振られることはなかった。


『とてもいいことだよ。アリエルさんのその心はとても綺麗だ。でも、残念ながらあの魔女様には通じないと思うね』


 シルフィは思い出す、あの冷たく研磨された氷の目を。明らかな憎悪を宿した殺意の輝きを。

 恐ろしさを覚えた。これが魔女なのかと。土の精霊を統べ、魔獣の頂点に君臨する絶対唯一の王者なのかと。きっと僕なんて、吐息だけで殺してしまえる、そんな風に思える。

 事実そうだろう。ルーファティがその身に宿した瘴気を吐き出せば、たちどころにあそこにいた妖精、いや村にいる妖精全員が死んでもおかしくないのだ。紫色の瘴気が肉を腐らせていく場面を、何度も目にしてきた妖精だからこそ分かる。

 一瞬でも抱いてしまった恐怖を拭い去ることはできない。シルフィは少しばかり目を閉じて気持ちを落ち着かせたあと、


『そこで、これからどうするかだね。僕はアリエルさんの意向に従うよ。例え魔女様の敵になろうともね』


『……敵、って、そんな大げさな』


『大げさになるかどうかはアリエルさん自身。もっとも、僕は村長という役割を任せられているけど、大した実力はないからサ、できれば魔女様の敵にはなりたくないかな。……って言ったら、アリエルさんにみっともないって言われそうだけど。ま、そういう訳なのサ。アリエルさんはどうしたい?』


 アリエルは考える。自分はどうしたいか。ルイスをどうしたいか。ルーファティとどう向き合うか。

 しかし何度考えようとも、気持ちは変わらない。


『話し合いがしたいです』


 本当にこれだけだった。ルイスを殺してほしくない。ルーファティにそれを分かってもらうには、話し合いが一番の方法だと、アリエルは確信に近いものをもっていた。

 さきほどかっこつけて、アリエルの意向に従うなどと宣っていたシルフィは、驚きを隠せない表情で目をまん丸にしている。


『こりゃまぁ、さっき僕が否定したことをぶっこんでくるもんだね。話し合いをするのが一番危険だと判断して反対したんだけど……、まぁいいサ。理由は?』


『……ルゥお姉さまなら分かってくれる。あと、ルイスは悪くない。この二点だけです』


『……自分の感じたことを優先する、か……。なるほど、さすがアリエルさんだ。僕も一応は男だからね、さっきかっこつけてしまった分くらいは働かせてもらうよ』


 シルフィはすでに、アリエルの意向に従うと言ったことを少し後悔していた。一度発した言葉だ、もう取り消すことはできないが、最後の反抗として、


『話し合いの最中、隙をつかれて魔女様にルイスを殺されても文句は言えないのサ。それでも話し合うのかい?』


『ルゥお姉さまがそんなことするとはとても思えないですが……、その時のために守ってもらいましょう』


『誰だい? そんな便利な人、いたかな』


『いるじゃないですか? お酒飲んで酔っ払って大笑いしているという、この果樹園の主……土の最高位精霊ダイサンボク様が。あのヘンテコ精霊様なら、結界でルイスを物理的に守れるはずですよ』

 

 でろんでろんに酔っ払っていた、他称お酒と果物しか興味がない最高位精霊ダイサンボクの姿が、シルフィの目に浮んだ。


 

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