012 『魔女と魔獣』
大樹ノアから姿を現したルーファティという名の魔女は、遥か天空を飛んでいた魔鳥カラカラワシを一睨みしただけで従えさせ、その背にまたがった。
アリエルと他愛もない掛け合いをしていた表情とも、先代村長に向けていた表情とも違う、彼女本来の美貌を際立たせる冴え冴えとした冷徹さを持った顔で、眼前の《ツァルンベの山々》を見据えている。
先刻、彼女は妖精の村を出たあとすぐに大樹ノアに戻り、四百年間ずっと放置されてきた母親の部屋に足を運んだ。埃をかぶった本棚から、誰が書いたかも分からない本をすべて退かし、壁にあったわずかな溝に爪を入れると、かたんっと戸が開かれる。そこにあるのは、しばらく主の手から離れていた杖・ベルチェ。
――数千年生きてきた大樹の幹から削り取られたという、一品。土の最高位精霊の加護を受けた魔女の私物である。
これといった特別な装飾はなく、下手すればただ真っ黒いだけの棍棒にもみえる。しかし猪一匹を確実に殴り殺せるほど重量を持っており、カラカラワシには非常に迷惑そうな顔で睨まれてしまったのは余談だ。
この杖は、先代、先々代の魔女の亡骸を取り込み、膨大な魔力を溜めこんでいる。所有者に魔力を授けるという便利な道具であるが、この杖はなぜかルーファティのことを嫌っているようで、すこぶる機嫌が悪い時がある。
「……今日の機嫌は……サイアクか……」
呟き、空を見上げる。
天樹海は9割曇天1割晴天という面白いほど雲に好かれた場所だ。今日はそのなかでも飛び切りの曇天模様で、低湿潤亜寒帯の六文字熟語を見事に表してくれる天候である。雪が降ることはあるまいが、冬期は乾期に比べて雪雲の発生率が高いからどうなるかは分からない。
吐き出された白い息が天へ上り、薄らいでは消えていく。空中で受けるはずの風を魔法で帳消ししているとはいえ、寒いことは変わりない。早く着かないかなと思っていると、意思を感じ取ったのかカラカラワシが一層スピードを速めた。
しばらくして、森林限界地点の手前と思われる山の中腹に到着した。はげ山になる準備段階とも思えるほど、低い草しか生えていない場所だ。降り立つと、数十センチほど積雪しているのに気付く。
山だから樹海より雪が降りやすいのは分かるが、それにしても多い。例年なら数センチで留まるはずだ。これはもしかすれば、樹海にも同じように雪が降るかもしれない。雪が降ると冬期明けのしばらくは寒さが残るので本当に勘弁だ。
「動きにく…………」
しかもこの動きにくさときたもんだ。新雪だからかブーツがずぶずぶと埋もれていく。
周りに雪慣れした魔獣でもいないかと見渡してみるが、幸運は二度連続訪れることはなかった。仕方なく、土魔法で地面を隆起させながら我が道を作っていく。
マイロードを作り続けて数分も経たないうちに、目的の洞穴に辿り着くことができた。本来この辺りの洞穴を住処とする雪達磨がいるはずである。
洞穴の外側から中を覗き込んでいると、洞穴の奥から巨人が闊歩するような重い足音が響いてきた。
大車輪となってではなく、二本足でやってきてくれたことは非常にありがたい。
近くでよくよく見てみると、白い剛毛が撫でつけられたように大人しくなっていることが分かった。なるほど、大車輪となるときはあの毛を収め、相手に当てるときは剛毛を逆立てて突き刺す攻撃ができるのだろう。そしてまた、気が大人しい時も毛を収める傾向があるらしい。
戦闘中ではとても分からなかったが、まん丸の白球についた赤いヒヒ顔を見ていると、意外に愛嬌があることが分かった。
「元気だった、といっても、まだ回復途中ってところかしら?」
一瞬だったが、全身を蒼い炎で覆われてしまったアルセルタ。身を灼き焦がす拒絶反応の壮絶な痛みは、瘴気をもつものしか分からない。
毛をよく見つめてみると、赤黒く爛れた皮膚を保護するように、瘴気の膜が張ってあることに気付いた。ああやって、魔獣は傷ついた体を癒している。アルセルタは強い魔獣だ、すぐ元気を取り戻すだろう。
どすんっ、と足音が耳近くで響く。見上げると、三メートルもの巨体がわずか一メートル先まで迫っていた。圧迫感が違う。弱っているとはいえ瘴気の濃さも、他の魔獣とは格が違うものを感じる。
ゆっくりと太い腕が伸びてきた。
避けることはしなかった。
なぜなら、――――穏やかな波長を感じたから。
アルセルタはよく喧嘩する魔獣だ。そして一度でも負ければ、相手の強さを認め大人しくなる。
ルーファティの中ではもやもやした勝敗の決し方だったが、アルセルタは負けを認めたらしく、顔よりも大きい手のひらでルーファティの頬に触れた。ざらざらの感触のなかに優しいものを感じる。
――――元気?
「…………うん。元気……じゃない、かな。ごめんね、疲れてるから」
冷徹な気配を緩め、ルーファティは力なく微笑した。
レベル5の魔獣から放たれる感情が憎悪ではないことには安心した。彼らが向けてくる憎悪は、母へ向けられる愛の裏返し。彼らは母を慕っていた。母が死んだことへの大いなる悲しみと怒りが、やり場のない感情として胸の中でくすぶり始める。蓄積された憎悪は膨れ上がり、やがて自分自身を抑えられなくなる。
――――大丈夫?
「一応ね。……考えることが多すぎて、吐きそうだけど……。今回の件はアリエルの涙が掛かってるから、動き辛いったらありゃしないわ……」
脳裏をよぎるアリエルの涙。
今でもどうしたらいいのか分かっていない。こうやってアルセルタのところへ来たのも、ここに来れば考えがまとまるのではないかと思ったからだ。
ルーファティの腰まである白雪髪を、アルセルタが器用に撫でている。
「慰めてくれてるの?」
――――髪、長イネ。
「あ……、そっちなのね……」
てっきり魔女の心情を察した敬虔なる僕が慰みを施してくれるのかと期待したが、そうではないらしい。ただただ髪の毛の長さに驚き、その感触を楽しんでいるようだ。
大きな手に撫でられるのは悪い心地はしない。それにこの魔獣の心情はかなり穏やかだ。今まで歯向かってきた他のレベル5たちに手本として見せつけてやりたいほどに。
ルーファティも、大きな手の甲に生える白い毛を撫でつける。確かに硬い毛だ。一本一本が針金のように束になっている。この毛で、そのしたにある皮膚を守っているのだろう。
ふと、アルセルタの手が離れていく。体まで反転させて、洞穴の奥に進んでいった。
――――コッチニ来テ。
躊躇うことなどありはしなかった。
地面に目立った動物の骨と磨り潰した草が目立ち始めたころに、アルセルタの体が停止した。丸い巨体の横にずれるよう移動してみると、草食魔獣だと思われる肉に元気よく噛みついている子どものアルセルタを見ることができた。
ああ、なるほど。
「だからあなた、メーヤの丘にいたのね」
本来ならばメーヤの丘にいないはずのアルセルタがいた理由が、やっと分かった。原因はあの雪だ。あの雪のせいで、いつもより動物の姿が見えなくなっていたのだろう。肉食魔獣であるアルセルタは、餌を求めてメーヤの丘に降り立った。そして、何匹かのメーヤを仕留めてここに持ち帰った。一回では足りなかったのだろう、何回目かの狩りの最中に不運にもルーファティに出会ってしまったという訳だ。
「それで……何で、この子たちを私に?」
――――撫デテ。
「りょーかい」
撫でられたことが相当お気に召したようで、子ども達にもしてあげてほしいというところか。すぐにアルセルタの子ども、といってもすでにルーファティの胸あたりまで成長しているが、二匹の子どもに近づく。
二匹はきょとんとした顔をしていた。
親が警戒してなかったおかげか近づくのは容易い。硬い毛に沿って撫でると、気持ちよさそうにひゅるる……っと鳴き声をあげる。
ただ、いきなり腕を引っ張られたときは……さすがに驚いたが。
「…………え、なに? どうしたの?」
むぎゅっ、という擬音語が当てはまりそうなほど抱き締められた。一匹だけと油断していたら、もう一匹も密着してきた。唯一助かったのは、子どもの毛がさほど硬くないことだ。
謎だ。混乱する。なぜこんな抱き締められてるのか。
「…………ま、いっか」
しばらくされるがままにしておくと、体温が高かったせいか眠気を感じる。
子どもの腕をどうにか緩め、――なんということでしょう、そこにはちょうどいい藁が――そこにごろんと寝転がる。
二匹の子どもは、最初こそ不思議そうにルーファティを見下ろしていたが、すぐ同じように左右に分かれて寝転んだ。
面白いくらいまん丸だ。寝転んでも顔の位置が移動しただけで、体が動いてるように見えない。太鼓腹が邪魔なのか、仰向けではなく横向きになっていた。
――寝ルノカ?
「このままじゃ寝ちゃいそう、本当にここで寝てしまいたいわね。…………ほんと眠いわ」
今ごろ、アリエルとシルフィはどこにいるのだろう。
魔獣から身を隠せる場所なんて限られている。それにニンゲンの匂いは、特別な魔法でもないかぎり強烈な悪臭として周りに発散されてしまう。見つけるのは簡単だ。
アリエルのことだ、本当にあの少年の傷が治るまで面倒を見るに違いない。
親がいなくなった哀れな孤児。
アリエルが見放していれば、とうの昔にあの世へ旅立っていただろう。
ああ、面倒だ。考えるのが億劫。睡魔でどうでもよく感じてしまう。
アリエルに泣かれるのは面倒だし、このままここで寝ていようか。知らんぷりでもしていれば、事態が好転するかもしれない。
たかがニンゲンの子ども一匹、樹海内に入れたところで……
「たかが………………、っぐぅう!?」
何かのエネルギーがルーファティの脳を侵食した。走馬燈、いや保存された数々の感情が焼き尽くすように暴れまわる。
「ベルチェか………………っ!」
蒼い炎。天へあがる柱。炎、炎炎。
――熱い、痛い、苦しい、息ができない、死ぬ、体が、痛い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い。
はらわたが引き裂かれた。
右腕が飛ばされた。
蒼い火炎が巻き付き、不浄な瘴気を浄化せんと体を灼きつくす。
『ミルフィはニンゲンに殺サレタ』『殺サレタ』『ニンゲンによって』『ぶっ殺ス。殺ス。殺ス』『ニンゲン風情ガ』『死ナナイデ』『外に出して。出して。出シテヨ。出シテってば』『ミルフィが殺サレタ』『あの女をぶっ殺シタイ』『ニンゲンが』『死ネ。死ネ。シネシネシネシネッ!』『外に出して、出して、出シテ、ダシテ』『みんな死んじゃえ』
憎いという言葉の呪詛は渦を巻き、負のエネルギーを作り、やがて様々な過程を経て瘴気となり身に纏う。
怨恨、厭悪、嫌忌、宿怨。憎悪。ただひたすら、純粋な憎悪こそが瘴気の根源。
目まぐるしい感情が支配していくのが分かる。自我を飲み込み、怨嗟の鎖で縛り付け、人形のように脳みそを動かす。背中に猛烈な、あるはずのない痛みが走る。痛みは背中のなかの神経を通って脊髄を走り抜け、ばちばちと火花を鳴らした。
爆発的な連鎖反応の末に増幅していく感情たちが、感情の化身が、魔女の記憶と杖の記憶をごちゃまぜにして、脳を埋め尽くした。
強くなれ。
蒼い炎が。
気高くあれ。
蒼い炎が。
誇りを忘れるな。
蒼い炎が。
あの美しい炎が大事なものをゼンブ奪っていったんだ。
「…………」
杖が大人しくなっていったのを感じ、ルーファティは肺から鉛のように重い息を吐きだした。
天に腕をあげ、指先まで自分――ルーファティの意思が行き届いていることを確認する。
やっぱり、駄目だ。
魔女が魔獣の頂点に君臨する以上は、この杖自体がひどくニンゲンを憎悪している以上は、自分の意思とは関係なく事を進めなければならない。
「行こっか?」
ルーファティは立ち上がり、アルセルタの体を再び撫でた。
その瞳に、再び凍てついた氷の憎悪を含ませながら。




