010 『ジジイと母』
『して、なにしに来たのじゃ? おぬしは昔、儂を地面に叩きつけて『貴様の顔などもう見たくもない』とか言うておったじゃないか』
久しぶりに聞いたジジイの声。二百年前より、いくぶんかしわがれて声に張りがない。妖精も長寿だが、それでもジジイの年まで生きるのは珍しいことだろう。あと数年すれば、確実にくたばってくれそうな感じだ。
頭の隅でそんなことを考えながら、ジジイに対峙する。
「成り行き。別にあなたに会いに来たわけじゃなくてよ。出て行けって言われる前に出ていくわ」
『待て。別に儂は理由を聞いているだけで出ていけとは言うとらんぞ。菓子でも食べていけ、少し話がしたい。……アリエル、ザッハトーテと紅茶を出してやれ。いつもの棚に残っている』
『はぁ~い』
「私は話すことなんてないんだけど」
勝手に話を続けようとしているジジイに少しの苛立ちを感じながらも、鋭い視線を感じて思わず言うことを聞いてしまう。節くれのある椅子を睨みつけてから座り、できるだけ「いやいや言うことをきいている」という体をとった。
ジジイを見ると、いつも昔のことを思い出す。
母を亡くしてからというもの、私はジジイに教育を受けていた。
私は天樹海最後の魔女である――――そういう現実と、遺言という名のプレッシャーを与えられたジジイがした教育は、私に少々のトラウマを植え付けた。四百年経っても拭い去ることのできない経験。今でもジジイを好きになれない根柢部分だ。
最初の、教養知識……妖精でも知っているような精霊知識の学習は、とても楽しかった。精霊の神秘と魔法との関係は聞くだけでわくわくし、これからの学びに期待感を持たせてくれるものだった。このときはジジイのことが大好きだった。母を亡くしても、私をちゃんと見てくれる唯一の存在。
あの頃はよく笑えていた。笑うことが楽しかった。水遊びをして、泥遊びして、本を読んで、字を覚えて、追いかけっこして、森中を探索して。毎日を楽しく生きて、いつか亡くなった母に恥じない立派な魔女になってやるんだって、ずっと思ってて。
母を亡くしたことの不安は、あの小さな妖精が埋めて、癒して、ずっと傍にいてくれると思っていた。
だから耐えていたのだ。
魔女として半人前以下だったのにも関わらず凶暴な魔獣の巣窟に投げ落とされたときも、光の入らない洞窟に閉じ込められた時も、痛いのに、苦しいのに、血反吐を吐いて叫んだのに、助けてくれなかったときも、あの妖精は本心から私を思ってやってくれてると思ってた。
口伝による結界継承をできなかった私が、魔女としての最低限の力を手に入れるためには、本能で能力を開発し制御するしかないのだから。だから!
だからずっと耐えていた。立派な魔女になるために。母のような立派な魔女になるために。
でも。
違った。あの妖精は私など見ていなかった。見ていたのは、私のなかに眠る「母」の面影。母の遺言に縛り付けられ、人形のように口と表情筋を動かしいびつな笑いを浮かべていただけ。
あの妖精は毎日謝っていた。
いもしない母の面影に額をこすりつけ、直筆で書かれたであろう母の遺言に涙をこぼしながら、ずっとずっとずっとずっとずぅっと謝っていた。
もはや狂人とすら思えるその姿を見て、私は自分の存在を問うた。
私はお母様の形見なの? お母様の姿写しなの? 私はお母様じゃない。違う、違う、違う!
精神が幼すぎた。
弱すぎたのだ。
せめて十年、いや五年でも良い。経験を積み、心が成熟していれば、きっと笑ってその事実を受け入れただろう。お母様と似ていることは嬉しいこと、誇らしいことだと鼻で笑ってあしらったに違いない。
しかし当時の私は、そのショックに耐えることができなかった。
歪んだ思い出は捩じりにねじり、いまの私を生み出したのだと思う。
『はい、ザッハトーテですよ。おじじ特製の焼き菓子は、とっても美味しいのです。あ、紅茶はアリエルが淹れますね。おじじが褒めてくれる紅茶です、美味しいですよ~』
可愛らしい声が耳朶をうつ。見ると、とても妖精が食べるとは思えないサイズの焼き菓子が鎮座していた。層構造の生地はいかにもサクサクしていそうで、ちょこんと乗る小さな赤いベリーは私が好んで食べる果物だ。
どう思っても、私が来ることを想定して用意されたとしか思えない。
しかし、なぜ。私は二百年間、一度だってここに来ようと思ったことはないのに。今回の件も偶然と偶然が重なってここに来ることになったのに。
『食べてみよ』
これもまた、妖精が使うようなフォークではないものが出てきた。受け取り、手に収める。くるくる回したあと、焼き菓子に突き刺した。口の中に入れる。
サクッ。
――美味しい。
「普通ね。嫌いではないわ」
口の中に広がるパイ生地のサクサク感、薫り高い花の蜜と甘酸っぱいベリーがとても美味しい。もう一口食べたくなる。食べたい。正直に言うと食べたいが、これを作った相手がジジイであると考えるとどうしても手を伸ばせない。でも食べたい。
『そうか、嫌いではなかったのじゃな。……それは良かった』
力なく、弱く微笑むジジイ。
ジジイって、こんな弱く笑うやつだっけ。昔はもっと、声を張り上げて、怒鳴りつけて、私の体を吹き飛ばすような頑固ジジイだったのに。
調子狂いそう。
『うむ、美味いのぅ。我ながら絶品じゃ』
『美味しいです! あ、ルゥお姉さま、紅茶もどうぞどうぞ! 美味しいですよ~、何たってアリエルちゃん特製ですからねー』
「破魔紅茶じゃなきゃいいけどね……、ん……、……まぁ、悪くはないわね」
『でしょう!?』
『僕にもくれないかな?』
『いいですよ』
『うん。美味しいね』
紅茶をもう一度啜る。やっぱり焼き菓子が食べたくなったので、できるだけ素早く一切れ取り、口の中に入れる。噛みしめるたびにほんのりとした甘みが口内を満たし、荒れていた感情が少しずつ収まっていく。
「……それで、話ってなに?」
適当に相槌でもして切り抜ければいい。そうすればすぐ解放される。
『……果樹園の結界石が、古くなってきたからの。それの修復を頼みたいと思ってな。……今すぐとは言わんから、作ってくれぬか?』
『おじじ!!』
「いいわよ」
アリエルが非難するようにジジイを見るが、ジジイは気にするそぶりはない。何の関係でアリエルがジジイを非難しているのか知らないが。
「……果樹園の保護は大事な魔女の仕事、結界石くらい五個でも六個でも作ってあげるわ。……今すぐ帰って作るから」
席を立つと、アリエルがジジイに詰め寄るのがほぼ同時だった。なにやら口論しているが、特に気にせず扉のドアノブに手をかける。
外へ出ようとしたそのとき、耳に響いたかすかな声。どうやら悪臭の根源になっている部屋から聞こえているようだ。
『アリエル』
『わ、分かってますよおじじ! 拾ったものはちゃんと最後まで面倒見ますから!!』
『アリエルさん、僕も行くよ。なにしろあんな大きな男だ、どんな暴行に及ぶか分かったものじゃないのサ』
二人が大きめの通路の中へ消える――――手前で。
『それとおじじ、まだルゥお姉さまと話すことがあるでしょう? アリエルとの約束、破らないでくださいね!!』
アリエルはそう言って、通路の中へ吸い込まれていった。
さて言われた本人は、苦笑いを浮かべている。
ちなみに、出ていくタイミングを完全に奪われてしまった私は、促されるままに再び席に着いていた。しかし二人きりになったところで、状況は変わらない。
私は二百年前の、最初で最後の大喧嘩でジジイの顔なんて見たくないと吐き捨て、その場から出て行ってしまったのだ。あのときの記憶を鮮明に覚えている私は、居心地の悪さを覚えて話を進めることができないでいる。
沈黙がおりてから、たぶん二十秒は経過したころにジジイの口が開いた。
『アリエルがの、儂に聞いてきたんじゃ。なぜ会いに行かないのか、とな。おぬしのプライドの高さを知っているのなら、年長者である儂が先に会いに行って、話の切り口を作ってやらないのかと。……その通りじゃと思ったよ。魔女と妖精……強者が魔女で弱者が妖精。儂はミルフィの好意で天樹海に住まわせてもらっているんじゃ、儂が村のもんを守るためにすべきことは、すぐにでもおぬしと仲直りすべきだったのじゃ』
「…………」
『おぬしは言ったな、『なぜ母より先に私を助けたのか』と。そして答えた。儂はミルフィの意思を優先して、誰よりも先に戦線離脱を果たしおぬしを大樹ノアとともに隠した』
「……ええ、そうよ。言ったわ」
忘れられないわけがない。二百年前、日々つもりに積もっていた疑念をジジイにぶつけてみた結果だ。
「あなたは言った。お母様は、自分を盾にすることで、この天樹海と大樹ノアを守った。それで次の魔女を救えたのだから結果としてはまずまず……」
『じゃが』
「だけど、あんたは…………、お母様を見殺しにした」
『…………言い訳するつもりはないの。儂は、そうすることがベストだと思っていた』
「毎夜毎夜こそこそとお母様の遺言に声に出して読んでいたのに? お母様の杖を欠かさず磨き上げていたのに? 毎日毎日毎日毎日、いもしないお母様に向かって平謝りと祈りをささげていたのにッ? ……ベスト? 未練垂れ流し過ぎじゃないのっ?」
思った通りだ。私を育ててくれた相手、私が愛した妖精の前で、私は冷静でいることができない。
私は今でも心が壊れている。二百年経っても癒えることない不安と絶望を刻まれ、冷静さを保てない。
「知ってたわよ、あんたがお母様を本気で愛していたことも、私に向けられる感情が贖罪だったってことも! こんなに後悔してるんだったら、どうして、…………どうして私なんか助けたのよ。お母様の意思? そんなの無視して、お母様を助けに行けばよかったのよ」
天に突き上げられた美しい蒼色の炎が、どんな巨木よりも高く強く光と存在感を放っていたのを覚えている。あれがお母様の命の灯。最後まで魔女として威厳を保ち続けた母の末路。
『まえと、おんなじこと言っておるの。おぬし』
「!」
心臓をわしづかみにされたような心地がした。