第三十七話 最後の選択(ラスト・コマンド)
□彼女にとっての彼
彼女にとって、彼は危なっかしい人だった。
生まれて、出会ったときから血を流してボロボロの姿だった。
最初に出会ったときだけではない。
あるときは、山中で巨大なアンデッドに立ち向かって死に掛けた。
あるときは、<超級>が彼を倒すために作ったモンスターと相対して死に掛けた。
あるときは、天から地上を燃やす黒星に照らされて死に掛けた。
あるときは、悪魔を率いる<超級>と戦って死に掛けた。
そうして今は、“最強”と死闘を繰り広げて……死んでいる。
それでも死んだ体を動かして、まだ立ち向かっている。
喪失した肺の苦しみも、目を覆いたくなるような自らの体の有り様も、彼の歩みを止める理由になってはくれない。
そんなボロボロになっても抗い続ける彼の在り方を、『心が強い』と言う人がいるかもしれない。
けれど、今の彼女はそうは思わない。
彼の心を強いと言う、その言葉が間違っているとさえ思う。
彼が繰り広げ……死に掛けた戦いの数々。
彼女の本音を言えば、見ているだけで辛くなるものがほとんどだった。
最初に彼が死んだ……マリーに完膚なきまでに殺されたときよりも、次第にそうした死闘を選ぶ彼自身に心を痛めた。
それは、彼女が彼の在り方の本質を知ったがゆえ。
マリーに殺されたときは事故だった。
他の誰の存在もかかっていない、彼だけの死だ。
そのときに感じたのは、彼を守れなかった彼女自身の無力さと喪失の悲しみだけだった。
けれど、彼女達が出会った最初の戦いを含めて彼が潜ってきた死線は、マリーとの戦いとはまるで違うもの。
最初にその違いを感じたのは、山賊団の篭った砦の地下。
殺されて、アンデッドにされた無垢な子供達の末路を見たとき。
彼女には彼の心の多くが分かるから、彼がどれほど心を引き裂かれかけたのかも理解してしまった。
最初に彼女と出会ったとき、彼は一人の子供の命を守ることが出来た。
けれど、砦の地下で彼の目の前にあったのは、誰にも守られなかった命の結果でしかない。
彼の心は泣いていた。
それからだ。彼女が彼の心の在り方の本質に気づき始めたのは。
山賊団の事件の後は、ギデオンの人々を守るために戦った。
トルネ村の人々や知人の少年を守るために戦った。
カルチェラタンの人々を守るために戦った。
その理由を、彼はいつだってこう言ってきた。
――だって、後味悪いだろ。
今の彼女は知っている。
その言葉こそが彼の行動理由であり、彼の在り方の本質なのだと。
生まれたばかりの彼女は、『誰かを守ることが出来る優しさこそが彼の本質なのだ』と思っていた。
あるいは、『痛みを糧に前へと進む力』だと思っていた。
それらは正しく、けれど完全な正解ではない。
今の彼女が気づいた彼の本質は――『守るために自らが傷つく』ことだ。
優しさと言うには悲しく、前進というには痛ましい有り様だ。
誰かの、無垢な子供の、親しい人の、守りたい人々の悲劇を見過ごせない。
悲劇を見過ごせば、彼の心は大きく傷つく。
見過ごすくらいならば……自分の身を傷つけてでも守る。
自らの傷と苦しみを対価に、心を砕く悲劇を覆す力を得る。
彼女に表れた彼の本質は、そういうもの。
彼は『心が強い』のではないと彼女は思う。
『心が強い』のならば、悲劇にも耐えられるだろう。
だが、彼はそうではない。
耐え難い心の苦しみよりも、身体の苦しみを選んでいるだけだ。
共に在った誰かが、苦しんで消えてしまうことが……耐えられないだけだ。
それはむしろ……『心の弱さ』であるだろう。
悲劇の結末を迎えるくらいなら、自分がどれだけ傷ついたとしても結末を覆すために死力を尽くす。
それが彼だ。
彼女には分かっている。
痛覚が消せるアバターだから無理をしているのではない。
きっと、痛覚があったとしても彼は同じ事をする。
……それどころか、本当の肉体でもそうするかもしれない。
けれど……それでも彼は特別な人間ではない。
世界そのものを救おうとする救世主ではない。
世界そのものを変えんとする復讐者でもない。
彼の心に従って、心の望むままに誰かを守る……ただの人だ。
目に見える人々を、手の届く人々を。
自分の目の前で繰り広げられる悲劇を覆し、悲劇の思い出としないために抗うただの人。
それが、彼だ。
だからこそ、彼女には彼に言えない言葉がある。
『目を閉じ、耳を塞ぎ、逃げてしまってもいい』と……彼女は言えない。
それが最も簡単な道で、多くの人はそれを選ぶ。
けれど、彼女はそれを勧めない。
問いかけることはしても、逃げ道を促しはしない。
彼女が彼を誰よりも理解しているがゆえに、口にはできない。
目の前で苦しむ人々を、守りたいと思った人々を、見殺しにして逃げて安穏とするなど……彼の心にはできないと知っているから。
たとえ彼女が傷つく彼の姿に胸を締めつけられようと、悲劇に立ち向かわなければ彼の心が身体以上に傷つくと知っているから。
けれど、だからこそ、彼女は彼が愛おしい。
悲劇に傷つかない『強い心』ではない。
他者よりも『特別な人間』でもない。
傷つく弱い心を持って、それでも悲劇から逃げない彼が、守るために悲劇に立ち向かう彼の意思が……彼女は好きだった。
だからこそ、今このときも……彼女は彼の提案した唯一の勝機ある策を受け入れた。
その結果、彼の体がどうなるか知っていても。
自分が、彼をどうしてしまうか知っていても。
再び、自らの無力さと喪失の悲しみを知るとしても。
彼女はそれを選択した。
彼の心と、彼から生まれた彼女に籠められた願いだけは……守らなければならないと。
◇◆
□■国境地帯・議場
レイとベヘモットは互いを目掛けて一直線に駆ける。
速度は共に同一。
そして、相手の命に届く力も互いに有している。
この戦いで幾度も見せたベヘモットの攻撃力は、レイを行動不可能なまでに五体粉砕することも容易い。
対するレイも、残存していたダメージカウンターに致命傷の一撃分が加算されている。
狙うべき急所……ベヘモットの頭部、首、心臓に命中すれば、その命を傷痍系状態異常によって絶つことができる。
(狙うのは……左腕!)
それを理解しているからこそ、ベヘモットも狙いを一点に絞る。
胴体や頭部では駄目だ。
《ラスト・コマンド》の効果中、レイは死なない。
下手をすれば、千切れた上半身や首のない体だけで衝撃即応反撃を撃ってくる。
ゆえに、狙うのは翼剣を保持する左腕。
ダメージカウンターを解放する武器をなくせば、カウンターは不可能なのだから。
左腕を千切り、翼剣を彼方へと飛ばし、その後に全身を粉砕する。
それがベヘモットの完全な勝ち筋。
ベヘモットがそのように勝ち筋を思考しているように、レイも思考している。
己のすべきことを考えている。
二人は共に勝利の可能性を思い描き、それを掴み取るように全霊を尽くす。
一秒よりも遥かに短い時間に、溢れるような思考の嵐を掻い潜って、二人は決着の瞬間へと至る。
「――――」
間合いは僅かにレイが長く、先の先はレイのもの。
間合いに入った時点で、レイはベヘモットの頭部を狙って翼剣を振るう。
頭部より上ならばどこでもいい。
ベヘモットのHPが二〇〇〇万を超す莫大なものであっても、今の《復讐》ならば体積の五%は吹き飛ぶ。
その五%が、脳などの致命臓器であればレイの勝利。
ベヘモットと同じ速度で振るわれる翼剣。
それはベヘモットにとっても、<超級>になって以降は懐かしいとさえ言える彼我の速度。
だが、カウンターではなく、正面からの攻撃ならば……。
『――見える』
ベヘモットは、歴戦の経験で回避できる。
自らの頬の体毛を掠める翼剣をやり過ごし、ベヘモットは右手を振り上げる。
発動するのは、《タイガー・スクラッチ》。
三連撃はレイの左手を跡形もなく粉砕して血霧へと変え、衝撃で翼剣を弾き飛ばし天井へと砕けるほどの勢いで叩きつける。
(勝っ……まだッ!)
相手の攻撃手段を奪い勝利したと思いかけた思考に、ベヘモットは自らブレーキを掛ける。
ベヘモットはレイのこれまでの戦いを知っている。
片肺を失いながら立ち上がった今の彼を知っている
それで止まるような相手ではないと、知っているのだ。
『オオオォォァアアアアア!!』
咆哮を上げながら、ベヘモットが両手の爪を同時に振るう。
右の爪はレイの頭部の下半分を――顎を消し飛ばす。
左の爪はレイの両足を――大腿を消し飛ばす。
右腕右足左腕左足、そして頸。
五体を失ったレイは達磨とすら言えない姿に成り果てる。
《ラスト・コマンド》中は致死ダメージでも死にはしないが、これで過去の【死兵】のように何もできなくなった。
先刻のように刃の柄を噛み締めることも、両足で立つことも、あるいは刃を蹴り上げることすら叶わない。
今度こそ、何もできない。
(勝っ――)
今度こそ、ベヘモットが再びその言葉を思い浮かべたとき。
――何かがベヘモットの首の付け根に触れた。
(…………え?)
ベヘモットはそれでダメージを受けはしなかった。
それなりの衝撃を感じはしたが、ベヘモットのENDを超えるほどではない。
だが、ダメージなど問題ではない。
それが……触れたということが最大の問題だった。
なぜならそれは――ネメシスの刃だから。
ベヘモットの思考が、圧縮された言葉に埋め尽くされる。
ありえない。
たった今、彼方へと弾き飛ばしたはずだ。
なぜそれがわたしに触れている。
いや、そもそも……。
――どうして、この刃はレイの体を貫通しているのか。
剣は天井に叩きつけたはずなのに、なぜレイの胸から生えているのか。
それは、この翼剣がレイの持っていた剣ではないからだ。
ネメシスの第四形態は鏡と双剣。
翼剣は、もう一つある。
(そうだとしても、誰が……!)
だが、レイは二本目の翼剣を持ってはいなかった。
隻腕のレイに、この剣を使うことはできない。
それも自分の体を貫いてなど、普段であっても不可能。
できるわけがない。
――誰かがレイの後方から投擲でもしなければ。
『――――』
そして、宙に舞い散るレイの血と肉片の彼方に……ベヘモットは見た。
何かを投げたままの姿勢で固まった……上半身だけの【ガルドランダ】の姿を。
(まだ、残って……!)
上半身だけで瓦礫に埋まり、そのまま消えたと思われた彼女はまだ召喚が維持されていた。
そして、一本目の翼剣をレイ越しにベヘモットへと命中させたのだ。
その様を、ベヘモットは察することができなかった。
体躯の小さなベヘモットでは、目の前のレイの体が壁となってレイの後方の様子が窺えなかったから。
まるで、それもまた織り込み済みであったかのように。
(まさ……か……)
仮にこの状況が最初からレイが狙っていた……唯一の勝機だとすれば。
(自分を……囮に!?)
左手の翼剣でベヘモットを狙うレイ自身が、目隠しにして囮。
そして、ダメージカウンターを蓄積するためのダメージの受け皿。
その裏で、【ガルドランダ】がもう一本の翼剣をレイへと投擲したのである。
レイが左手に持っていたのは、既に一度使いきったダメージカウンターの残量が少ない翼剣。
この体を貫く翼剣こそが本命であり、今まさに幾度もの攻撃を受けてダメージカウンターも十二分に蓄積されている。
レイは《ラスト・コマンド》が発動した時点で、捨て身という言葉すら生ぬるい勝機を見出していた。
自らの五体が砕かれる恐怖さえも飲み込んで、悲劇を覆す細く儚い可能性の糸に全てを賭けた。
そして――届いた。
『《復讐するは――』
《復讐するは我にあり》は、手に持って使う必要はない。
レイとネメシスが触れ合ってさえいれば、使用できる。
ゆえに口で咥えて放ったことがこれまでに二度あり、
そして今――レイの体を貫きながら発動する。
『――我にあり》』
ネメシスの感情を押し殺した……どこか泣き出しそうな言葉と共に、《復讐するは我にあり》はベヘモットに炸裂した。
◇◇◇
【《ラスト・コマンド》効果時間終了】
【蘇生可能時間経過】
【デスペナルティ:ログイン制限24h】
To be continued
(=ↀωↀ=)<【獣王】ベヘモット戦
(=ↀωↀ=)<決着




