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あとがきという名の言い訳

 読んでくださった方、ありがとうございます。


 自分の書いたものに対してこういうあとがきを書くのはあまり好きではありません。

 これはあとがきというタイトルの、書いた当時(平成二十四年の十一月頃)の覚え書きのようなものです。


 この話には書かざるを得なかった事情があります。


 平成二十三年(二〇一一年)三月十一日金曜日、午後二時四十六分。

 私は東北からはるか遠い地におりました。

 ワイドショーを見ていましたが、そろそろ洗濯物を入れようと思い外に出ました。

 その日は好天でした。

 洗濯物を入れ、再びテレビを見ると、テレビの中では揺れていますとアナウンサーが言っていました。

 ずいぶん長い地震だなと思い、他のチャンネルに切り替えると津波警報が出ていました。

 その後はどこも地震の緊急ニュースです。

 ついに津波の映像までもが流れました。

 定時より遅く帰宅した家人は仕事で地震のことをほとんど知りませんでした。

 次の日もいつものように仕事へ行った家人。

 私は一人で家にいました。

 見ないようにしても、映像はどんどん飛び込んできました。


 日曜日の夜、なんだか気分が悪くなり、家人に連れられ病院に行きました。

 異常はありませんでしたが、なんとなく体調がすぐれない日が続きました。


 原因はなんとなくわかっていました。

 震災の衝撃だと思いました。

 震災の当事者でもないのに、僭越な話です。

 しかしながら、震災から数か月たった頃も津波の映像を見てまだ胸がドキドキしていました。

 叔母の一人が福島県に住んでいて、原発の事故の後、一家全員住んでいた町から避難することになったのもショックでした。

 役所からの呼びかけで家の中の未使用のタオルを出したり、仮住まいの決まった叔母の家に日用品を送ったり、わずかですが義援金を送ったりしたものの、いまだに何もできなかったことが心の中にあります。


 とはいえいつまでも元気がないままではいけません。

 生活があります。

 私は気持ちを落ち着かせるために、文章を書き始めました。

 子どもの頃から、恐怖や不安をなんとか克服するために、それをモチーフにした話を書いてきました。

 私が人並みに学校を出て就職してなんとか生きてこれたのも、それのおかげです。

 誰に見せるつもりもなく、書き始めた物語。

 その一つに、地震のその後を描いた物語を書きました。

 近未来を舞台にした話で、主人公は手紙の受け取り手の男性です。

 その話自体は恐らく今後もどこにも発表することはないと思います。

 神経を逆撫でされる人もいるかもしれませんし、私自身の倫理観にも反する話ですから。

 (自分の倫理観に反する話を自分で書くのも変と思われるかもしれませんが、私には書くことで自分の思想や倫理観を形成してきた面がありますので、話自体、世間の目で見て不道徳な話も多いのです。)

 その話の中に挿入した手紙がこの物語の元になっています。

 元の話にはなかったエピソードも入れています。

 手紙を書いた老女のエピソード等です。


 つまり、私にとって、この話は私のリハビリのために書いた物語の中の一挿話という位置づけです。

 本来なら他人様に見せられる話ではないのです。

 ですが、この時期を逃したら、こういう内容のものを世間に発表することはないかもしれないと思いました。

 幸い、このサイトにこんな内容のものを出す人はいないようですから、見る人も少ないでしょうし。

(これだけたくさんの小説があるのに、手紙の形式で書かれている作品を見たことがないのが不思議です。私が見落としているのかもしれませんが。) 


 ですが、ここに投稿するにあたって読み直してみると、ぎょっとしたことがあります。

 歴史的に見て、東北地方の人々が割を食っているとか、明治維新に功のあった西日本の諸藩の出身者が戦前まで優遇されていたとか、その構造は形を変えて今も残っているのではないかと。

 西日本出身の新右衛門の子が東北出身の貞吉に助けられたにも拘らず、彼の一族を気にしながら結局連絡をとったのは震災の後。その前にも連絡がとれたかもしれないのに、一族の娘の嫁ぎ先がならず者だという理由で連絡をとるのを躊躇したために、手紙の受け取り手の男性が一番助けを必要としている時に助けることができなかった…。

 安積家の老婦人は申し訳ないと書いていますが、果たして手紙の受け取り手は素直にそれを受け取れたかどうか。大人ですから、仕方ないとは書いていますが。

 読者の方はどうお受け取りになったでしょうか。


 さて、私自身は体調はあの頃より少しはよくなったかもしれません。

 ですが、三年たった今も事態が変わらない人が大勢います。

 叔母一家もそうです。

 数年後にはどうなっていることか。

 少しでも良い方向に進んでいればいいのですが。

 私自身の住んでいる地域も自然災害がいろいろとある地域で、原発も近くではないですが、同じ県内にあったりしますから、あの震災は他人事ではありません。

 いえ、日本全体がそうかもしれません。

 

 忘れないこと、伝えること、何もできなかった私が今できるのはそれだけです。


 亡くなった方々の冥福を祈って、筆を擱きたいと思います。



追記(二〇一五年三月十一日) 

 上に書いている叔母一家ですが、現在、浜通りに住まいを構えております。

 今後、年賀状の宛先が変わることはないでしょう。

 手に職を持っている人達なので、生計については比較的恵まれている方かもしれません。

 生きているうちに元住んでいた場所には戻れないだろうと言っています。

 


追記(二〇一六年五月三十一日)

 熊本の地震の件も書き加えようと思いましたが、近県に住む身としてはまだ生々し過ぎて、加筆するのは先のことになりそうです。


 

追記(二〇二一年三月十一日)

 10年たちました。

 津波の映像を一人で見るといまだに胸がどきどきします。

 今年は特にこれまでの年より津波の映像が流れることが多いような気がします。

 家族と一緒ならなんとか見ることができますが。

 先日放映されたドラマ「星影のワルツ」も録画したのに、途中までしか見ていません。

 叔母は数年前に夫と死別しました。

 地震前に住んでいた場所に戻れるようになりましたが、結局住まいは今のままです。

 

  

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