5 2011年のこと
夫と私は連絡をとるべきか迷いました。貞吉さんの孫にあたる方ですから、貞吉さんのおかげで安積家の今があるのだと伝えるべきなのは当然です。ですが、一つ厄介な話もT夫人からもたされていたのです。
トミノさんの二人の娘のうち、上の娘さんは普通の家庭に嫁がれていました。
ですが、下の娘さんの嫁ぎ先というのが隣町の男なのですが、これが近隣の村や町でも名の知れたならず者の一族の中でも一番手の付けられない男で、警察もうかつに手出しできないほどのヤクザ紛いの男なのだというのです。
なぜ、そんな男と下の娘さんが結婚することになったかといいますと、その男が娘さんを強引にわが物にしたからなのだそうでございます。家族は警察に訴えましたが、なんと娘さんはその一回のことで妊娠し、男が責任をとって一生幸せにするからと血判をついた書状まで出したので、訴えを取り下げたそうなのです。
私たちはそのような人間との間に縁ができるのはどうかと悩みました。その矢先でございました。舅の盛正が脳溢血で倒れました。父親の盛之のようにすぐどうこうということはありませんでしたが、それでも介護が必要な身となったことで、私たち一家は洞田家どころの騒ぎではなくなりました。夫は会社の社長となり、私は舅の介護を息子の嫁と交代でするということで、多忙な日々を送ることとなったのです。
翌二〇〇一年の年の暮れもおしつまった頃、舅は亡くなりました。八十九歳でした。年が明けると今度は姑が倒れ、ということで二十一世紀の初めの数年は介護に明け暮れました。介護保険制度が二〇〇〇年四月から施行されたとはいえ、家族の苦労はそう簡単になるものでもございません。ですが、盛和の嫁は実に献身的に尽くしてくれました。盛和の長女の祝子が二〇〇七年に生まれたのも、その前の年に姑が亡くなって、介護から開放されたおかげかもしれません。
私も夫も初めての孫娘の誕生に大喜びでございました。次男の盛明は盛和より二つ下ですが、いまだに結婚しておりません。友人たちには次々に孫が生まれるのに、私どもには一向に生まれない、その寂しさを補ってあまりまるものを祝子は我が家にもたらしてくれたのです。
さて祝子があと一か月で四歳になるという春の初めのことでございました。明日から九州新幹線が全線開通するという話題を嫁としていた昼下がりのことでした。インターネットで新幹線開通を祝うイベントの模様が見られるというので、嫁にパソコンを借りて見せてもらっておりました。
あなた様はご覧になったことがありますでしょうか。もしなければ、ご覧になることをお勧めします。あれはとても美しく、人の喜びが素直に描かれた映像だと思うのです。
鹿児島の駅を出発した新幹線の車窓から沿線で喜びを爆発させる人々を映したものです。終点の博多の駅まで、人々の喜びの姿がずっと続くのです。無論編集されて短くなったものですが、それでも十分でした。様々な色の風船を持つ人々、手を振る花嫁と花婿、団地の窓から手を振る人々、見ているだけで、なぜか涙ぐまれて参りました。なぜなのでしょうか。年のせいで涙もろくなったせいかもしれません。何か、こう幸せで無邪気で、つながることの喜びが何の疑いもなく描かれていたからかもしれません。
嫁が言いました。
『鹿児島まで新幹線で行けるなんて知ったら、新右衛門様は驚くことでしょうね。』
私も会ったことのない夫の曾祖父の名は我が家ではごく普通に語られていたのです。
『一度、行ってみましょうか。』
私も言いました。安積家の始まりの秋田から新幹線に乗り東北新幹線、東海道、山陽、九州と乗り継げば、鹿児島へ鉄路で行けるのです。
『家族皆で参りましょう。温泉に入って、黒豚を食べて、焼酎を飲みましょう。』
嫁は兄嫁から鹿児島のことを聞いていたからでしょうか。名物に詳しいようでした。
笑っていると、不意に隣の部屋で昼寝をしていた祝子がドアを開けて嫁にしがみつきました。その時でした。家が揺れたのです。地震だと、嫁は祝子をテーブルの下の隙間に押し込みました。ずいぶんと長く揺れておりました。
それが三月十一日のあの地震でございます。テレビをつけて、公共放送に見入った私どもは恐怖におののきました。
あの光景を見て、すぐに私も嫁も洞田家の人々のことを思いました。T夫人が教えてくれた町の名も被害を受けた町の中にありました。
けれど、夫や息子たち、親戚の安否を確認したり、帰宅できない会社の人々の今夜の宿を確保したり、私どもにもそれぞれやるべきことがありました。近所の奥様方と協力し、歩いて帰宅する方々に炊き出しをしたり、義捐金や物品を集める手配をしたり、あの後一か月以上、私たちは地震の影響を受けていました。
それに発電所の事故も。嫁は祝子の幼稚園入学を一年延期することにしました。私は祝子を連れて鹿児島のT家の親戚の家に行くことも勧めました。嫁は二番目の子を妊娠中だったのです。ですが嫁はそんなことをしたら、会社の他の社員の奥様達に申し訳が立たないと言い、横浜に残りました。とはいえ放射能が心配で祝子をなるたけ外に出さないようにしておりました。
そこで私は一計を案じ、夏休みに他の社員の子どもとその母親を関東から遠く離れた九州の私の遠縁の家のある町のキャンプ場に一週間ほど交代交代で行かせることにしました。祝子をはじめ、大勢の子ども達がそこで久しぶりに伸び伸びと外での遊びをすることができたのです。また嫁も鹿児島のT夫人の実家の伝手でそちらで男の子を産み、九月には横浜に戻って参りました。秋になると今度は夫が過労で倒れ入院。幸い年末には退院することができました。
そんなこんなで、洞田家の人々の安否を知ろうと思った時はすでに二〇一一年の年の暮れとなっておりました。
次話は明朝5時頃投稿します。