3 明治は遠く
さて、話が少し先に進んでしまいました。盛之は明治四十三年(一九一〇年)に二十五歳で結婚しました。大元帥の肝いりで相手はさる名家の令嬢でございました。
結婚の翌年、安積新右衛門が秋田で亡くなりました。何も語らず、新右衛門は急な病で静かに亡くなったそうでございます。安積家は当時多くの田畑を有し、大変盛大な葬儀だったそうです。家は盛之の弟の盛雄が継ぎ、今もその家系が続いております。
翌大正元年には長男盛正、大正四年には長女吉子が生まれました。その翌年の年の暮、夏目漱石が亡くなった次の日でしたかA大元帥がお亡くなりになりました。盛之は第二の父として慕っておりましたので、たいそう嘆いたそうでございます。
その四年後に盛之は陸軍を退職し、某校で非常勤で剣道を教えるようになりました。昭和五年まで十年間勤めました。その間には関東大震災などもあり、住んでいた小石川の家が倒れたりしましたが、家族は皆無事でした。
犠牲者一〇五〇〇〇人余りの震災で、よくもまあ皆無事だったことと舅の盛正はいつも申しておりました。
その盛正は東京帝国大学を卒業後、南洋との貿易を扱う会社に就職し、男爵家の令嬢と結婚しました。昭和十五年に生まれた長男盛紀が私の夫でございます。他に昭和十二年に生まれた華子という方がおいでで、この方はさる商社の重役の家にお嫁にいき、昨年八十五歳で亡くなりました。
昭和二年の金融恐慌、昭和四年には世界恐慌と世間は不景気で、不穏な事件もいろいろと起きておりましたが、安積家はなんとかそれを凌いで生き延びて参りました。
盛之の質実剛健を受け継いだ盛正という人は、仕事の上でも浮ついたことを嫌い、株にも手を出さない人でした。おかげで安積家は恐慌の波をもろにかぶらずにいられたのです。もっとも会社の同僚からは石部金吉などと言われていたようですが。
恐慌の影響は免れたものの、戦争だけは避けられません。昭和六年に満州事変が起き、昭和十二年盧溝橋事件で日中はぶつかり合い、昭和十六年には日本軍によるハワイの真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。
昭和十二年に生まれた義姉の華子は物心ついた時から戦争の話ばかり聞かされていたと申していたものです。
さて、安積家にも戦争の波は襲いかかって参りました。とうとう昭和十九年、盛正に召集令状が来たのです。三十二歳の自分にも来るとは、と盛正は戦争の敗北を予感したそうです。ところが、その矢先、盛正は肋膜炎にかかりました。元々痩せている上に、少しずつ食糧事情が悪くなっておりましたから、それがよくなかったのでしょう。召集は免除され、それを機に仕事を辞め、一家で秋田の安積家に疎開しました。
ですが、一人盛之だけは東京に残りました。『わしは戦では死なぬ。一兵卒として陛下をお守りする。』の一点張りだったそうです。
あの洞田衛生兵の言葉がまだ盛之の記憶にあったのでしょう。結局、東京を何度も空襲が襲いましたが、盛之はその度に難を逃れ、昭和二十年八月十五日を迎えました。
戦争が終わり、盛正は先に東京に戻り、横浜で復員してきた昔の同僚と貿易会社を始めました。
盛正の会社は当初いろいろありましたが、高度経済成長の波に乗り、順調に業績を伸ばしました。おかげさまで安積家は戦後も戦前の生活を保っていくことができたようです。
男爵家の令嬢だった姑の実家は華族制度の廃止や戦災でずいぶんと困窮していたそうで、盛正はそちらの甥や姪の面倒も見ていたそうでございます。
昭和三十三年の十一月には皇太子殿下と正田美智子さんのご婚約が発表されました。当時、私は小学校六年生でした。報じられた新聞を見て「素敵ね。」と言うと、両親に畏れ多いことだと怒られたものでした。
翌年の四月のご成婚の前に我が家でもテレビを購入し、ニュースの映像に見入ったのも懐かしい思い出です。
あの頃、夏休みに軽井沢の別荘に行った時などは、素敵な殿方と出会えないだろうかなどと思ったものでした。そういう出会いなどめったにあるはずもないのですが。
ところが高等科の二年の夏休みにそれがあったのです。私はテニスが不得意で、テニスクラブに足を運ぶことはほとんどありませんでした。ところが、その日、父の妹が一緒に行こうと言うので、渋々ながらクラブに参りました。
そこで出会ったのが安積盛紀だったのです。いえ出会わされたというべきか。
大学を出たばかりの盛紀さんはテニスに汗を流しておりました。私にはまばゆいばかりに見えました。
その日はクラブの中の喫茶室で叔母と一緒にオレンジジュースを飲みながら二言、三言お話をしただけでした。
翌日、盛紀さんがお母様とおいでになりうちの両親同席でお茶を飲みました。私はほとんど話をしませんでした。
別荘滞在の間にそういうことが何度かあり、帰京後、両親から正式に話があると聞きました。
私には否とは言えませんでした。この先、盛紀さん以上の方に出会えるとも思えませんでしたから。
後でうちの祖父が陸軍にいた頃に盛之の部下であったということを聞きました。恐らく祖父同士が示し合わせての話だったのでございましょう。
私は昭和四十年に二十五歳の盛紀に十九で嫁ぎました。G院女子高等科を卒業してすぐのことでした。この頃、日露戦争を戦った盛之は八十でしたが、大変に矍鑠としておりました。
翌年には長男の盛和が生まれ、結婚の遅かった盛和から祝子が生まれたのが二〇〇七年のことでございます。
こうして安積家が続いていることを思うと本当に盛之という人はよくぞ戦いを生き抜いてくれたものと思います。
次回は9日の午前5時更新です。