『みじかい小説』050 / 届かぬ言葉 ~1000文字にも満たないみじかいみじかい物語~
一筋の光が、浩二の顔を明るく照らした。
それは寝室のカーテンが少しだけ開けられた結果であるのだが、当の浩二は渋面を作ったきり目を開かないので、そばに立つ娘に気づかない。
「お父さん、もうお昼だよ」
枕元で女の声がする。
最近めっぽう耳が遠くなった浩二は、その声の主が妻であるのか娘であるのか判別がつかない。
「お父さん」
と、もう一度声がして、うっすらと目を見開くと、そこには娘の恵子の顔があった。
「なんだ、恵子か。今、何時だ」
と言ったつもりだったが、娘には伝わらなかったらしく、「え?何て言った?もう一回言って」と言われてしまった。
それで今度は、少々ムキになって、「今、何時だ」と声を大きめにして言ってみる。
すると恵子は「そんなフガフガ言われても分からないわよ」と言う。
こんなやりとりが増えたのは、浩二が77歳になる夏を過ぎたころからだった。
「お父さん、もう少ししっかりしゃべって」
「あなた、なんて言ってるか分からないわ」
一緒に暮らす妻と娘から、相次いでこのような苦情が寄せられだしたのだ。
浩二としては、十分にしゃべっているつもりである。
しかし、それが伝わらない。
段々と伝わらない回数が増えていき、今では昼間の本当に調子のいい時しか、会話が成り立たなくなってしまった。
そんな浩二を見て、妻と娘は困り顔で目くばせをしている。
ときどき、浩二にも聞こえる距離で、「お父さん、困ったわねぇ」などと言っているのが聞こえる。
そんなとき浩二は、ぽつんと、ひとり取り残されたように感じる。
しゃべれないだけで、聞こえるのだ。
もっとデリカシーを持った態度で接してほしい。
そう伝えたくとも伝わらない。
もどかしい日々が過ぎてゆく。
最近は、そばに人がいても、声をかけられても、どうせ自分の言葉は伝わらないのだからと、しゃべることがめっきり少なくなった。
こうして、穏やかに死んでゆくのか、と思う。
けれど、
「お父さん」
声がするので顔を上げてみると、妻と娘の顔がそこにはある。
孤独死の叫ばれる昨今の実情を考えると、それでも俺は幸せなのかなと思う。
「みんな、いつまでも健康でいような」
浩二がそう言葉に出すと、珍しく妻と娘が顔を見合わせぱっと笑顔になった。
「そうだね」
「本当にねぇ」
そう言って肩を叩いてくれる相手がいるのだ。
俺は十分幸せなのだろう。
浩二はそう思い、妻と娘に笑顔で返すのだった。




